イザークの頼みごと〈1〉
ウルス帝国と、レイランド王国・タリヤナ教国を中心とした大同盟との非常に大きな戦争は帝国の無条件降伏によって終結した。絶対的権力者であった皇帝ランフランコ二世の死がその最たる要因になったことは言うまでもない。
大陸全土を戦乱の渦に巻き込んだ敗者に対し、勝者の側は容赦しなかった。
ランフランコ二世の一族であるカノーヴァ家は自決を選ばなかった者たちのほとんどが捕らえられ、厳重な管理下で投獄されている。中にはすでに獄中で不審な死を遂げた者も出ているようだ。
当然、政治体制もがらりと変わった。
戦中に皇帝と距離を置いていた貴族たちによって、ひとまずレイランド王国寄りの臨時政府が成立しているが、吹っ掛けられた巨額の賠償金をどう捻出するかで四苦八苦している状況であった。
ちなみに大同盟側へ内通していたピストレッロ家も、帝国敗戦後には新政府の要職に就く裏取引を行っていた線が濃厚だという。
新生ウルス国の国境線も激しい議論の末にどうにか定められた。
もはや辺境の一小国でしかないほどに領土は縮小されてしまったが、それでも帝国時代の旧都アローザは再び首都へと返り咲く。
しかし難題は噴出していた。戦争の終結とともに大同盟はあっさり解体となり、レイランド王国とタリヤナ教国の主導権争いが一気に表面化したためだ。
臨時政府の樹立後もタリヤナ教国軍は依然ウルス国領内で居座るように留まっており、呼応する形でレイランド王国軍も新しい国境付近で睨みを利かせている。
そんな一触即発の状況が延々と続く中で、ついに両軍の衝突が偶発的に引き起こされてしまった。
現在、ピーノとトスカとフィリッポの三人が、それぞれの情報をすり合わせて共通の見解としたのが以上の情報である。
◇
その日、朝からマダム・ジゼルの館は少々ばたついていた。
「どうしたどうした、いつにも増して今朝はちょいと騒がしいな」
眠そうに目をこすり、まさに起きてきたばかりといった様子のフィリッポが呑気な声でピーノへ話しかけてきた。滞在もすでに八日目となり、すっかりこの館に馴染んでしまっている。
そんな彼を冷ややかに一瞥したピーノは「もう朝食は終わったよ」と告げる。
「は……? いやいや、冗談はなしだぜ」
「きみ以外はとっくに済ませてる。当然トスカもね。さすがにだらけすぎ」
「そりゃないって! 昨日はこの時間でも全然問題なかったじゃないのよ」
「昨日と今日は別の日だから。昼まで我慢すればいいだけ」
廊下で立ち話していた二人のところへ、通りがかったコレットが「邪魔よあなたたち」と手を叩きながら近づいてきた。
「言い争いならどこかよそでやってちょうだい」
「安心して、特に問題ないから」
「ありだよ! 大ありだよ! どうすんだよ、おれの朝食!」
温度差の激しいピーノとフィリッポを交互に見遣り、こめかみに手を当てながらコレットは深いため息をついた。
これで何とか気を取り直したか、彼女がおもむろに事情を説明し始める。
「フィリッポくん、よく聞いて。実はこれから急な来客があってね。スタウフェン商会の創業者であるイザーク様をご存知?」
「ああ、その方については先日ピーノから伺っています」
目上の人間への受け答えに関してだけいえば、フィリッポの場合はピーノと違って如才ない。
「何から何までお世話になった恩人だとか。もちろんスタウフェン商会の勢力伸長については一介の兵士に過ぎなかった私の耳にも届いておりました」
彼からの返答に一つ頷き、コレットはさらに続ける。
「イザーク様だけならうちとしてもまったく気にしないんですけどね。今日は他にスイヤール政府から派遣されてくる役人の方も同行しているそうなのよ。さすがにジゼルも私も用件が読めなくて身構えているの」
◇
イザークの到着はそれからいくらもかからなかった。表に四輪馬車が止まり、彼と穏和そうな女性とが連れ立って降りてくる。
見たところマダム・ジゼルやコレットよりも十は年嵩の女性だが、おそらく彼女がスイヤールの役人なのだろうとピーノは思う。
「初めまして。ネリー・プランタンと申します」
出迎えたマダム・ジゼルと握手を交わしながら、プランタンはスイヤール政府の外交における実務を担当しているのだと簡潔に述べた。
マダム・ジゼルとコレット、この館を代表する二人の案内によってイザークとプランタンは娼館部分の建物に設えられている応接間へと進んでいく。
いくら知った顔とはいえ無遠慮に声をかけるのはさすがにまずい、と遠巻きに見守っていたピーノだったが、逆にイザークの方から呼びかけられてしまう。
「おーいピーノ、おまえも同席してくれ」
隣にいるフィリッポが「ひゅう、お偉いさんみてえ」と茶化してくるが、状況があまりよくわからず彼の相手をしてやる気にもなれない。
だが同席を求められたのはピーノだけではなかった。
「あとあの子、えー、タリヤナ教徒の……」
「ナイイェルのこと?」
怪訝そうな表情でマダム・ジゼルが問い返している。
「そう、ナイイェルだったな」
彼女にもいてほしいんだ、とイザークが言う。
我関せずとばかりに自室へ戻っていたらしいナイイェルが引っ張ってこられ、ピーノともども大人たちの集団に加えられてしまった。
イザークにネリー・プランタン、マダム・ジゼルとコレット。どうにも自分が場違いな感は否めないが、イザークの要請ならば仕方ない。
彼らについていくピーノがふと振り返ると、集まった人影の最後方にトスカの顔が見えた。眉を寄せて随分と心配そうだ。
大丈夫だから、との意を込めて軽く手を上げて応えた。
そんなピーノのささやかな仕草を傍らの少女は見逃してくれない。
「トスカちゃん、可愛いよね」
ナイイェルがさらりと口にする。
突然の発言にピーノも慌ててしまい、上手く切り返すことができず足を止めて口ごもるだけであった。
「動揺しすぎ。ほら、さっさと進む」
からかうようにピーノの腰をぽんと叩いたナイイェルが、大人たち四人の後に続いて応接間へと入っていく。