わからない
フィリッポは鐘楼の番を務めている男へ馴れ馴れしく話しかけていた。予期せぬ出来事に守人の男が困惑していてもお構いなしだ。
彼を社交的な性格とみるか、厚かましい性格とみるかは人によるだろう。どちらかと言えばピーノは〈スカリエ学校〉の頃から後者寄りだが、今日に限ってはフィリッポなりの気遣いなのがわかる。
きちんと話せよ、ということでひとまずトスカと二人きりにしてくれたのだ。
「うん、いい眺め。ここがピーノの暮らしている街なんだね」
眼下に広がる建物の群れを「とても綺麗」と彼女が言う。
肯定ないし否定といった単純な答えでは返せず、無言のままでただピーノは彼女の隣に立って同じ風景を見つめていた。
そしてトスカが本題に入っていく。
「アマデオから聞いたの。国境沿いのドゥルワの街で、赤い色の髪をした小柄な少年の目撃情報があったって。若い女性に集団で絡んでいた帝国兵に酒樽を投げてぶつけたってのがそれ」
「うわあ、ぼくだ……」
すべてが終わった今となってはどうでもいい事柄だが、迂闊な行為であったのだけは間違いなかったようだ。
「まあ、アマデオは『もしかしたら』くらいの感じだったし、ユーディに至ってはこれっぽっちも信じていなかったな。彼女、実はお酒にとても弱くて。自家製の薄いお酒でべろんべろんに酔っ払っちゃって『ないないなーい。必死の思いで帝国から逃げだしたあいつが、わざわざここまで戻ってくる理由なんてある? あるわけないもーん、にゃははは』ってわたしに抱きつきまくってきて大変だったんだよ」
誰よりも大人びていたはずのユーディットがそんな醜態をさらすとは、にわかには信じられない。
しかしまたしても耳まで真っ赤になったトスカを見れば、嘘偽りない事実だったのが何よりも雄弁に伝わってくる。
「あのさ、恥ずかしいならそんな丁寧に再現しなくても」
「とにかく!」
彼女は強引に話題を先に進めた。
「二人が暮らす家をお暇し、ピーノたちを捜すことに難色を示していたセレーネとも別れ、わたしは単身ドゥルワの街へ向かった。でも」
そこで彼女が耳にしたのはピーノの情報などではなかった。
トスカを待っていたのは、前回の訪問とはまるで異なるドゥルワでの蜂の巣を突いたような大騒ぎであった。それもそのはず、新都ネラから遠く離れたドゥルワにようやくウルス帝国皇帝ランフランコ二世暗殺の凶報がもたらされていたのだ。
話の腰を折るのは気が引けたが、ここでピーノも当時の状況を彼女へ伝えておくことにする。フィリッポに話した昨夜同様、できるだけ簡潔に。
視線をスイヤールの街並みへ向けたまま、トスカが「うん」と応じる。
「あちらこちらを巡ったわたしは、新都ネラの宮殿が原形を留めず崩壊している有様も見た。確信を持ったわけじゃなかったけど、ピーノやエリオのやったことなんだろうなってぼんやり考えていたよ」
そしてトスカはしばらくの間、目を瞑って黙祷する。おそらくは命を落としたエリオとニコラのために。隣にいるピーノも彼女に倣う。
「──実はね、ドゥルワの街でわたしが知ったのは皇帝暗殺だけじゃなかった。もう一つ、旧都アローザで起こったひどい事件も噂になっていて」
再び目を開いたトスカが抑揚のない、平坦な口調で語りだす。しかしその表情にはどこか苦悶の影があった。
もう口を挟むことはせず、ピーノも静かに耳を傾ける。
「有力な貴族であるピストレッロ家の邸宅で虐殺事件があったんだよ。あまりにも鮮やかな手口で当主を含むほぼ全員が殺害されていた。助かったのはたった一人、昔から仕えている使用人の女性だけ。彼女の供述によれば、親しい仲であった犯人の温情によって逃がされたみたい」
その家の名にはピーノも聞き覚えがある。
「ピストレッロ……ピストレッロ? ああ、セレーネ・ピストレッロ!」
気づいた瞬間、思わず大声を上げてしまった。
俯き加減になったトスカが、喉を震わせるようにして「そう、彼女の仕業で間違いない」と絞りだす。
「なぜならピストレッロ家は密かに大同盟側へ内通していたそうだからね。ヴィオレッタとオスカルが命を落とした大きな会戦においても、軍の動きに関する情報を逐一流していたらしい。そんなのが自分の家だなんて、許せなくても仕方ない」
「何てことだよ……」
呻くピーノに構わず、トスカは続けた。
「虐殺事件唯一の生き残りであるサンドラさんにも会って話をした。わたしは何としてもセレーネを追う手がかりがほしかったから」
「ついでに旧都アローザでおれを仲間に引き込んだんだよねー」
いつの間にかやってきていたフィリッポのやけに明るい声がする。
反射的にトスカが顔を上げた。
「まあ……間違ってはいないんだけど」
「何でそう嫌そうに言うの? 冷たいよなあ、おれだって〈スカリエ学校〉以来の仲間でしょうが」
大げさに肩を竦めるフィリッポの姿に、ピーノもよほど「そういうところだよ」と言ってやりたいのをどうにか堪える。
それでも彼はすぐに真剣な表情へと変わった。
「ただ、二人ではセレーネの足跡を追うのも限界がある。率直に言って、全然彼女の足取りをつかめていないんだ。単独行動なのかどうかも定かじゃない。結局おれたちは戦うことしか能のない、世間知らずの子供に過ぎないわけだから」
「腹立たしいことこの上ないけど、フィリッポの言う通り」
今にも舌打ちしかねない勢いである。
「サンドラさんに聞いた話によれば、セレーネは戦争について独自の見解を持っていたみたい。適度なところで終わりを迎えさせるのではなく、自分も含めて最後の一兵になるまで戦わせればいいんだ、と。そうすれば以後、もう二度と戦争なんてしなくて済むんだって」
「極端かつ単純なんだよなあ。お嬢さまらしいというか何というか。けどまあ、彼女の心がそこまで壊れているのに気づけなかったおれたちに責任があるし、見捨てるわけにはいかないさ。この三人ならきっと助けてやれる」
だろ、フィリッポは同意を求めてきた。ピーノも力強く頷き返す。
けれどもトスカにはそこまで楽観視できないようであった。
「わたしにはもう、セレーネのことがわからない。彼女なら立ち寄りそうだと考えた場所だってことごとく空振りだった。まるで雲をつかむよう。これから自分がどうしていいのか、それさえも」
そしてとうとう両手で顔を覆ってしまい、かすかな嗚咽する音が聞こえてくる。
しきりにフィリッポが片目を瞑って何かの合図を寄越しているが、どうせろくなことではないとピーノは黙殺に徹した。
今後の行動についての指針なら既にある。セレーネが戦争を継続させたいのであれば、近くスイヤールで行われるレイランド王国とタリヤナ教国の和平交渉は決して看過できないはずだ。
つまり、スイヤールこそが説得の舞台となるに違いなかった。
何としてもここでセレーネを止めなければならない。
トスカの気持ちが落ち着くのを待ってから、ピーノはかつての仲間二人に対し、さらなるスイヤール滞在を提案するつもりでいた。