お姉ちゃんが増えた
本来ならばピーノがやらねばならぬことはたくさんあったはずだ。
故郷であるドミテロ山脈東部の大火災も、ようやく鎮火したとの報せは受け取っていたというのに、結局まだ一度も戻っていない。
袂を分かつ形となったハナを捜そうにも、再び拒絶されそうで怖い。考えただけで足が竦む。エリオの墓だって作っていない。
強烈な効果を実証したはずの泡沫草の実を飲み込んでも眠れないピーノは、朝も昼も長い夜も、何もすることなくしようともせず、ひたすらイザークやマダム・ジゼルの館のみんなに支えられてどうにか生きてきただけだった。
そんなピーノの前に突然フィリッポが姿を現したのは、時が動きだす前触れのように感じられてしまう。彼ならば、かつての仲間たちのその後の動向について知っているかもしれない。
人間の姿だったニコラが最後に言っていた。残った〈名無しの部隊〉の仲間たちで支え合い、これからの人生を生きてほしいと。
ピーノにとってはあれが彼の遺言だ。
それにしてもフィリッポが落ちてきた理由は心底しょうもないものだった。
別に建物の屋上で見張りをしていたとかではなく、ただ単に娼館の中で男一人という状況に耐え切れず外に出ていただけらしい。
他者に「恋を知らないお子様」などとのたまったやつの行動じゃないね、というピーノの皮肉にもフィリッポはまったく動じなかった。悪い意味で図太い。
コレットに勧められて市場にある〈陽だまり屋〉で評判のマドレーヌを買い、戻ってきて一口食べたところでピーノの姿を見つけ、そのときに気持ちが高ぶったせいで足を踏み外してしまい、地面へ真っ逆さまだったという。
「きみ、かなり格好悪いな」
ナイイェルの真っ直ぐな発言にもめげることなく、フィリッポは「こういうのもそのうち味わい深く思えてくるって」と切り返す。処置の施しようがない。
こうしてフィリッポを加えた五人はマダム・ジゼルの館へと戻ってきた。
「ただいま」
いつものように通用口から入り、館内を進む。複数人のにぎやかな声が聞こえてくるのは食堂の方からであった。レベッカはまだピーノの背中で眠りこけており、なかなか起きそうにない。
そんなレベッカも含めた五人が食堂へ顔を出すと、こちらに気づいたマダム・ジゼルが「お、帰ってきたね」と手招きをする。
「ピーノ、君にお客さんだよ」
しかし彼女が言い終えるよりも早く、背を向けて座っていた人物がものすごい勢いで席を立って飛びついてきた。
「わっ」
さすがにピーノも驚いたが、相手が誰なのかはすぐにわかった。短く切り揃えられた綺麗な亜麻色の髪、少し高くなった背丈。
「トスカ……」
おずおずと名を呼ぶピーノの声にも反応せず、トスカはただじっと彼の胸に顔を埋めたまま動こうとしなかった。
代わりに後方では別の会話が繰り広げられている。
「おかしい。おれのときは、あんな情熱的な再会じゃなかったんだけどな。むしろ素っ気なかった気がするんだが。もしかしておれ、嫌われてる?」
「妥当な判断ね。あのトスカって子とは仲良くなれそう」
「や、でも、そこはほら、愛情と友情の違いっていうか。フィリッポくんのことを嫌いとか、そういうんじゃないと思うなあ……たぶん」
「クロエさんは優しいね。何だかとっても好きになってしまいそうだ」
「きみ、ふざけないで。ここは娼館、好きだの惚れたの口にするのなら、それなりの額を積んでからにしてくれるかな。クロエもダメな男を甘やかすのは止めて」
「いやいや、むしろナイイェルさんこそクロエさんの優しさを見習ってほしい。じゃないとレベッカちゃんにも悪影響が出てしまうよ」
「は? わたしはきちんと接する相手を選んでいるだけ。とりあえず地面につくくらい頭を下げてその失礼な発言を詫びてくれる?」
「わああ、ナイイェル落ち着いてぇ」
短時間で打ち解けたらしい三人の声を聞き流しつつ、トスカが次の行動へ移るのをピーノは辛抱強く待っていた。
そんな折、背中でもぞもぞとレベッカが動きだす。どうやら騒がしさのせいで目を覚ましたらしい。
ピーノの肩から顔をのぞかせ、彼女は視線を下へ向ける。
「新しいお姉ちゃんがいる!」
寝起きとは思えないほどの大きな声だ。
「やった、お姉ちゃんが増えた! レベッカはお姉ちゃんで、新しいお姉ちゃんもお姉ちゃんだ!」
困惑するピーノだったが、それはトスカにとっても同様だったらしい。
ようやく顔を上げ、ピーノとレベッカを交互に見つめてくる。
そして彼女は姿勢を正して言った。
「初めましてレベッカ、わたしの名前はトスカです」
可愛い妹ができてうれしいな、と微笑みかけながら。
久しぶりに目にする、トスカの笑顔だった。