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娼館の用心棒ピーノ  作者: 遊佐東吾
8章 娼館の用心棒
123/162

日常に訪れるささやかな変化と大きな変化

 うっそだあ、とレベッカが叫んだ。


「そんなの、入ってるはずがないもん」


 騙されないぞとばかりに腕を組むが、その大人を真似たぎこちない仕草がピーノの目にはとても可愛らしく映る。

 彼女の両隣にはにこにこしたクロエとナイイェルが陣取っており、それぞれにレベッカの脇腹を軽く(つつ)いていた。


「まだまだこんなものじゃないからねー」


「どんどん膨れて大きくなって、最終的には今のソフィア姉さんの三倍くらいになっちゃうの。お腹も空くからレベッカみたいな小さい子は食べられちゃうかも」


 これを聞いたレベッカは「ええ……やだあ」と半泣きになってしまう。


「食べないでえ、ソフィア」


「こらこら。それじゃまるであたしが怪物みたいじゃない」


 ゆったりと椅子にもたれて腰掛けていたソフィアからも、さすがに苦笑交じりの注意が飛んでくる。

 二人で暮らすにしてもやや手狭な集合住宅、それがソフィアとチェスターの新居であった。マダム・ジゼルの館とスタウフェン商会、そのちょうど中間地点に位置するのだが、近いうちにもう一人増えることになる。

 ソフィアがめでたく懐妊したのだ。


 マダム・ジゼルの館の面々、特にクロエとナイイェルはわりとしょっちゅうソフィア宅へと顔を出し、付き添いでピーノも加わるのが常となっていた。

 最近はチェスターの仕事が相当にきつく忙しいようで、一人で過ごす時間が増えてしまったソフィアはいつだって大歓迎とのことだ。


 まだ幼いレベッカには人間の体内に胎児がいると認識できないらしく、今も自分とソフィアの腹部を見比べてはぶんぶんと首を横に振っている。


「でもさ、レベッカもこうやってお母さんのお腹の中にいたんだよ」


 何の気なしにピーノが話しかけた。老人も大人も子供も、誰もが通る道なのだとわかりやすく説明するつもりで。

 しかしレベッカの反応は彼が予期せぬものだった。


「おかあさん……?」


 そのつぶらな両の瞳から、ぽろぽろと涙が溢れだす。

 あっという間に声を上げての大泣きへと変わってしまった。

 あたふたと狼狽するピーノを「きみねえ、もう少し言葉に気をつけて」とたしなめたナイイェルが、クロエとともにあの手この手で泣き止ませようとする。レベッカの頬を触ってみたり、変な顔をして笑わせようとしてみたり。


 それでもレベッカの泣き声は一層激しくなってしまう。

 ぼくのせいだ、とピーノも理解していた。レベッカの両親である、市警隊長ドミニクと銀細工師サラのトゥルナードル夫妻が惨殺されてからまだ一年も経っていない。なのに彼女の前で不用意な発言をしてしまった。


「おいで、レベッカ」


 ソフィアが手招きで呼ぶ。

 泣きじゃくりながらもレベッカはその言葉に素直に従い、とことこと歩み寄る。抱え上げられた彼女の小さな体がソフィアの両太腿の間にすっぽり収まった。


 お腹が圧迫されないだろうか、と少し心配になるピーノだったが、当のソフィアは意に介していないようだ。

 レベッカの赤い髪を優しく撫でながら彼女が言った。


「これからね、お腹の中から小さな小さな、とても小さな子が生まれてくるの。あたしはその子のお母さんになる」


 見守っているピーノにとっても、心に沁みてくるような声音だった。


「サラさんみたいに素敵なお母さんになりたいって、ずっと思っているよ。だからレベッカ、あなたは生まれてくる子のお姉ちゃんになってあげてほしいんだ」


 手の甲で目元を拭い、レベッカが後ろのソフィアへと振り向く。


「おねえちゃん……?」


「そう、お姉ちゃん」


 きちんと目を合わせてソフィアが微笑みかける。


「レベッカにはたっくさんのお姉ちゃんがいるからねー。ここにいるクロエもナイイェルもだし、もちろんあたしだってそう。だから次はレベッカがお姉ちゃんになってくれるとうれしいな」


 まだ涙の跡は残っているが、それでもレベッカは小さく頷いた。


       ◇


「ソフィア姉さん、もうすでに母親って感じだったよね」


「わかる。わたしが『お母さん!』て呼ばせてもらいたいくらいよ」


 まだ日が高いうちの帰り道、クロエとナイイェルが口々にソフィアの変化について話し合っている。

 レベッカはピーノの背中に揺られて眠っているため、先ほどのような事態にはならないはずだ。まったく、ソフィアがいなければ収拾がついたかどうか。ピーノとしてはひたすら反省あるのみだった。


 いつもの裏道を抜けてもうすぐマダム・ジゼルの館、という場所まで四人が帰ってきたとき、この日二つめの事件が起こった。

 空から人が落ちてきたのだ。


 叩きつけられるようにして背中から石畳へ落下したその人物だが、「うっわ、ドジ踏んだ」と顔をしかめただけで平然と立ち上がる。

 埃を熱心に払っているその相手は、ピーノにとってよく見知った顔であった。フィリッポ・テスタ。かつてウルス帝国の〈名無しの部隊〉にて仲間だった少年だ。

 ピーノが戦闘態勢をとるよりも早く、フィリッポは素っ頓狂な声を上げた。


「ちくしょう、せっかく買ってきた〈陽だまり屋〉のマドレーヌが潰れちまったじゃないか!」


 まだ一口しかかじってなかったのに、と本気で悔しがっている彼の姿からはまるで戦意というものが感じられない。むしろ警戒した自分がバカみたいだ。

 こちらの醒めた視線に気づいたのか、肩を竦めてどうにか取り繕おうとする。


「いやあピーノ、だいたい三日ぶりくらいかな? それとも三年だったっけ? 都会はさあ、何でもあって本当にいいところだよね」


 適当で軽い彼の性格は相変わらずのようだ。


「あと一応付け足しておくけど、君とやり合う気なんてさらさらないからね? とてもじゃないけど勝てないし」


「ならいったい何の用なの。用がなければ放っておいてほしい」


「おいおい、久しぶりに会ったんだし、そうつんけんするなよ。寂しくて今晩の枕が濡れちゃうだろ。とりあえず、すぐ近くにあるマダム・ジゼルの館で話そうぜ」


 そしてフィリッポは素知らぬ顔で「トスカもそこで待ってるから」と言った。

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