瓦礫の上で
すっかり世情に疎くなってしまったハナだが、それでも大同盟側の勝利によって戦争が終結したことくらいは知っている。
なので当然、新都ネラも大同盟軍に占拠されているのだろうと予測していた。しかし丘の上から様子をうかがっても一向に軍隊らしき存在を感知できない。
あまりに人影がないため、拍子抜けしつつ大胆に近づいていく。
とうとう誰とも出くわすことなく、彼女は新都ネラの中心部である帝国宮殿へと到達した。いや、ウルス帝国が解体の憂き目にあうのは確実だろうし、こんな静かすぎる場所が都と名乗るなどおこがましいにも程がある。
今、ハナの目の前に広がっているのは廃墟であった。エリオやピーノとともに駆け抜けていった大階段を含む主だった建造物群が崩落し、かつての栄光の面影などどこにもなくただの瓦礫と化している。
《何だか本当にお墓みたい》
そんな独り言を口にしながら、至る所に草が生えてきている瓦礫の山をよじ登っていく。両手両足を使わなければいけないほど、一つ一つの石の塊が大きい。
ようやく頂上へ着く頃には、額にかすかな汗がにじんでいた。半年前にもなるあの日の出来事が嘘みたいなのどかさだ。
「あら、世界で最も無意味な場所へやってくる方がいるなんて」
物好きな人ね、という女の柔らかい声がする。意表を突かれた。
すっかり油断していたハナだったが、体が強張り一気に緊張状態へと移行する。
けれども少し離れたところにいる相手の声には聞き覚えがあった。
慎重に二歩、三歩とにじり寄り、その顔を確認しようと目を凝らす。
それは相手も同様だったらしく「──あなた、誰かと思えば」と一転して吐き捨てるように言った。
「ピーノとエリオに助けられて逃げていた女じゃない。見慣れないその肌、ちゃんと記憶に残っているわ」
わずかに遅れてハナも思い出していた。
ウルス帝国から逃亡した際、追っ手としてやってきた三人組の女の内の一人だ。物分かりのよかった残り二人と違って、最後まで納得しようとせず泣いていたのを覚えている。
面倒な相手と遭遇してしまった、というのが率直な気持ちだ。あのときの様子からしてほぼ間違いなく、彼女は元凶となったハナを恨んでいるだろう。
「どうしてまた、こんな誰からも見捨てられたような場所へのこのこと姿を現したのかしら? 私たちを裏切ったピーノやエリオもすぐ近くにいるの?」
やはり好意の欠片も感じられない調子で彼女が問うてくる。
おそらく実力はエリオたちと遜色ない域にあるのだろう。ならば逃げようとしても無駄なだけだ。向こうが対話を望むなら付き合うしかない。
ただ本題へ入る前に、気になっていることを訊ねてみた。
「ねえ、見捨てられた場所ってどういうこと? 曲がりなりにも帝国の首都だったわけだし、大同盟軍によって占拠されてると予測していたんだけど」
久々に話す〈シヤマの民〉と異なる大陸言語だったが、流暢に使えるあたりまだ錆びついてはいないようだ。
「話をはぐらかすつもりなの? でもその答えは簡単。皇帝亡き今、新都ネラには何の利用価値もないからよ。大同盟もすでに解消され、レイランド王国とタリヤナ教国は旧都アローザへの影響力を広げようとしてどちらも躍起になっているわ。あちらは依然として商業の中心地であり、帝国を支えてきた名門のほとんどが集まっていますからね」
もっとも、と女が下の瓦礫を指差しつつ皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「帝国側の降伏を受けて大同盟軍がここへ到着したときには、どういうわけかすでに御覧の有様だったそうよ。見捨てられるのも当然でしょう」
「──エリオだ」
ハナは思わず声に出してしまった。
聞き逃すはずもなく、女の顔色がさっと変わる。
「あなた、ここで何が起こったのか知っているみたいね」
エリオがどうしたっていうの、と重ねて詰問してきた。
ハナにだってあの夜の真実はわからない。彼の強い意志によって遠ざけられただけであり、激闘の末の死を看取ることさえ叶わなかった。
だからこそ、女の「知りたい」という心情には共感してあげられる。彼女たちの部隊を率いていたニコラの無残な死を知れば逆上するかもしれないが、それは致し方のないところだろう。
もはやどこにもエリオのいない世界だ。捨てたも同然の己の命など、今さら惜しむほどのものではない。
「長い話になるよ。あたしの近く、どこかその辺へ適当に腰を下ろして」
女を傍に呼んで、大きく息を吐いてからハナはおもむろに話し始めた。
どの時期から切りだすかについては一瞬迷ったが、レイランド王国の重臣から皇帝暗殺の依頼を受けたあたりが適切だと判断した。ただしダンテの絡むくだりに関しては伏せておく。
軽はずみに彼の名前を口に出してしまい、今後狙われるようなことがあればさすがに申し訳が立たない。彼も今では祈りの日々を送るセス教の一修道士に過ぎないのだから。
ハナの語りに、余計な口を挟むことなく女は静かに耳を傾けていた。
不意打ちに等しいエリオの接吻によって泡沫草の実を飲まされ、眠りから覚めた後は彼の帰還をピーノとともに待ち、そしてニコラの登場によって希望が粉々に砕かれる。
激情に駆られるまま自分がニコラを殺害した、と告げても女は表情をまったく変えなかった。瞬きさえしていないように思えるほどだ。
とうとうピーノとの別れまで話し終え、ハナは涙声で締めくくる。泣くまいと堪えていたものの、さすがにそれは不可能だった。
「概ねこういった経緯よ。だから今、エリオはあたしたちの座るこの下のどこかに眠っている」
エリオは灰になった、というニコラの言葉までは教えなかった。大筋に影響はないし、たとえ肉体が灰になったとしても、彼の魂がここに眠っていることは誰にも否定できないはずだからだ。
「そう……エリオとニコラ先生が。確かにあの二人ならこんな宮殿、瓦礫に変えてしまっても何の不思議もないわ」
憂いを帯びた眼差しで女は言った。
そしてハナとの距離を詰め、吐く息がかかるほどの近さまでやってきていきなり強く抱き締めてきた。
「あなた、独りぼっちになってしまったのね」
抵抗して強がろうにも、泣いているのを見られた後では格好のつけようがない。
そのまま抱かれるに任せていたが、そんなハナへまた女が囁く。
「実は私も独りぼっちになってしまったの。唯一の家族だった母はずっと前に死んでいるし、理解し合えた友人たちともそれぞれの道を往くため別れましたから」
ここでようやく、女は勢いよく体を離した。
「そういえばまだ、互いに自己紹介を済ませていませんでしたわね。私の名はセレーネ、あなたの友人であるピーノやエリオと同じく姓は持ち合わせておりません」
あなたのお名前は、と微笑みながらセレーネが訊ねてきた。
◇
レイランド王国とタリヤナ教国との間で対立が激しくなり、いつ再び大きな戦争が起こってもおかしくない。
セレーネが教えてくれた現在の大陸情勢に、ハナは心底うんざりする。ウルス帝国が解体されてもまったく代わり映えしないではないか。いったいいつまで同じことを繰り返すのだろう、と。
これではエリオが何のために犠牲となったのか、その意義さえ失われてしまう。
けれどもセレーネの考え方は彼女と少し異なっていた。
「戦争はね、無理やり終わらせたところで結局また始まってしまうのよ」
穏やかにセレーネが語る。
「私はやっと気づいたわ。だったら行きつくところまでやらせるしかない。そして戦争へ関わった者たちには例外なく、その報いを受けさせなければならない。兵士であろうと将校であろうと政治家であろうと裁かれるべきですものね。並外れた私の力はきっとそのためにあるのだから」
握手を求めるように、彼女は手を差し出してきた。
「悪い人たちがみんないなくなって、最後に私がその報いを受ければそれで完璧」
心優しい人たちだけが生きる完全無欠な世界。
そんなものの実現を本気で夢想しているセレーネが正気だとは、さすがにハナにも思えない。それでも興味は惹かれた。
エリオを失って以来、はっきりと心が動いたのは初めてのことだ。
残りの人生、夢見る彼女の隣でくだらない世界の行く末を眺めながら生きていくのも悪くないかな。
そう考えながらハナはセレーネの手を握り返していた。
次回から8章です。