然るべき報いを
まだ夜も明けないうちからサンドラは身支度を整え、使用人にあてがわれている狭い部屋を出て静かに外へと向かう。
長年ピストレッロ家に仕えてきた彼女には日課があった。ピストレッロ家が領有する土地の中でも誰も足を踏み入れないような寂れた場所、そこに作られた墓を掃除し祈りを捧げることだ。
眠っている女性の生前の名はモニカといった。ピストレッロ家に連なる人間のほとんどが高慢で、平民など人とも思わぬ振る舞いを見せる中、モニカはいつだって他者への労りを忘れなかった。
けれども当主の妾という立場ゆえに彼女は軽んじられ、絶え間なく侮蔑の視線と嘲笑を浴びせられて心を病み、最後には自死を選んでしまった。
娘であるセレーネを一人残して。
夫も子供もいないサンドラにとって、家族の温もりを感じられる機会はないに等しい。ピストレッロ家の人々にはそもそも欠落しているのだろうか、一度として感じとれたことがなかった。
唯一、モニカとセレーネの母娘だけがサンドラへ胸にじんわりと広がっていく優しい温かさを味わわせてくれたのだ。
だからこそ彼女には贖罪の念が今でも強く残る。
心を削られて日に日に衰弱していったモニカに、救いの手を差し伸べることができなかった己の無力さを呪う。
申し訳なさゆえにサンドラは墓前で頭を垂れ、そしてウルス帝国軍に入った娘セレーネの無事を懸命に願う。帝国と大同盟の戦争はいまだ継続中だが、劣勢であるとの情報は末端の使用人に過ぎない彼女の耳にまで届いている。
サンドラにとっては勝敗はもはやどうでもいい。ただひたすら、セレーネの帰還だけを母モニカの墓前で祈念し続けていたのだ。
そんな彼女がいつものように墓へと到着したとき、どういうわけかいるはずのない先客の姿があった。跪いたまま目を瞑り、静かに祈っている。墓前には紐で結わえられているのであろう花束が供えられていた。
その横顔を見たサンドラは思わず叫んでしまい、慌てて駆け寄った。
「──セレーネお嬢様!」
すぐに反応し立ち上がったセレーネが親しげな笑みを浮かべ、両腕を広げる。
身に纏っているのは意匠を排した簡素な木綿の服であり、他のピストレッロ家の女たちであれば「そんなものを着用するくらいなら死を選びましょう」などと言い放ちそうな代物だ。
「久しぶりですね、サンドラ。元気にしていましたか?」
「よくぞご無事で……。お懐かしゅうございます」
涙ぐんで震えるサンドラの肩を、そっとセレーネが片手で抱き締めてきた。
「ふふふ、少し皺が増えたみたいですね。まあ、あの家に仕えているといらぬ気苦労も絶えないでしょう」
揃いも揃って本当につまらない人たちですから、と一転して憎々しげな調子で吐き捨てる。
耳元でその声を聴いたサンドラは以前のセレーネらしからぬ重苦しい響きに戸惑ってしまい、つい体が強張ってしまう。
さすがにセレーネはすぐ気づいたらしく、「子供の頃より口が悪くなっちゃったかもしれないわね」と離れながら弁解した。
「でも仕方がないかしら。軍に入って戦場を駆けるような大バカ娘ですもの」
「何をおっしゃいます!」
今度はサンドラの方が声を張り上げてしまった。
「モニカ様の墓前で再びお嬢様とこうしてお話しできるなんて、今日は何と良い日でしょうか。セス様のお導きに感謝の祈りを捧げねばなりません」
「いいえサンドラ、セス様には関係ないのです。私はあなたを待っていたのよ。ここにいれば出会えるのがわかっていましたから」
母であるモニカの墓前に供えた花束の位置をわずかに直しながら、平坦な口調でセレーネが告げる。
彼女が何を言わんとしているのかがサンドラには推し量れず、不躾にも首を傾げてしまった。
もちろんその行為を咎めるようなセレーネではない。
「サンドラ、これを」
渡されたのはずしりと重い大きめの巾着袋であった。
セレーネに促されて中身を確認してみると、驚くことに金銀銅貨がぎっしり詰まっていたのだ。いったい何年分の給金に相当するだろうか。
狼狽するサンドラへ、事もなげに「せめてもの礼だと思って受け取ってちょうだい」と彼女は再び微笑む。
「母ともども、あなたには随分とお世話になりました。他の使用人たちまで母と私を侮る中、あなただけは一切そのような態度を見せず、いつでも朗らかに接してくれたんですもの。そのことにどれだけ幼い私が救われていたか、もしかしたら全然伝わっていないかもしれませんね」
「ですが……!」
モニカ様は、という続きを口にすることはできなかった。
察してくれたのであろうセレーネが小さく首を横に振る。
「母の眠る墓までずっと守ってもらったのに、こんな形でしか返せないのは心苦しいのですが、それは正当な報酬です。ただし心苦しいついでにもう一つ、あなたに最後の命令を下さねばなりません」
ここにきて初めて、彼女の表情が険しくなった。
「すぐにこの地を立ち去りなさい。今すぐに、です。ピストレッロ家の邸宅に戻ることも許しません。もうすぐあなたが仕えるべき相手は一人残らずいなくなりますから」
真っ直ぐ見つめてくるその視線は鋭く、冗談を言っている様子ではない。
そもそも昔からセレーネが生真面目であったのはサンドラもよく知っている。
「いいですね、サンドラ。これは最大限の警告だと受け止めてください。あなたを巻き込んでしまうと、どうあっても母への面目が立ちませんので」
先ほどまでサンドラを優しく抱き寄せていた右手が、腰に差した剣の柄へそっと添えられる。
情のこもらない眼差しでピストレッロ家の屋敷の方角を見遣るセレーネの顔は、サンドラの知らない底冷えのするものへといつの間にか変わっていた。