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娼館の用心棒ピーノ  作者: 遊佐東吾
7章 来るべき別れの日
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魂が汚れてしまった

 呆然としたピーノがどうにか正気を取り戻すまでの間に、闇夜の濃度がわずかに下がる。とうとう長かった夜が明けようとしていた。

 そのおかげできちんと確認できた。中心から右上にずれた位置にあったのは、ひどく歪んで判別しにくくなってはいるが、間違いなくニコラの顔だ。


「何なんだよその体……。何がどうなってるの……」


 自分でも情けない声だなとピーノは思う。

 そして遅れて気づいた。ニコラがこの場所にやってきたのが、どういう意味を持つのかということに。


「もう……そんなに時間も……残されて……いない」


 途切れ途切れの話し方とともに、怪物じみた巨体の右腕がゆっくり差しだされてきた。間近で見ると、骨が腕の中から何本も突き出ている。その骨と骨の間に挟まれるようにして、黒っぽい布地らしきものが乗せられていた。

 おずおずと手を伸ばしたピーノだが、触れる直前に理解した。


「エリオの僧服……!」


 つまり、これは形見だ。

 弾かれたようにピーノはニコラの顔がある辺りを見上げる。


「私などに……は……到底……扱い切れない……才能……の持ち主だっ……たよ。けれ……ども……彼……の肉体は……一欠片も残さず……灰……になり……これだけしか……持ってこられなかっ……た。せめ……て……君たち……に」


「灰になった……? どういう意味なの、先生」


 ニコラが話し終えるまで待てず、声を震わせながら彼に問う。

 だが彼の口からもうそれ以上語られることなく、ただ何度も力なく「ころしてくれ」と繰り返すのみであった。


 徐々に光が射しこんできた。いつもであれば一日の始まりを告げる朝も、今回ばかりは圧倒的な終わりの予感を伴うものでしかない。

 眼前のニコラの体が何よりも雄弁に物語っている。もはや人ではなく、異形だ。


 ありえないほどの巨大化によって服がはち切れたのだろう。露出している肌のほとんどは黒ずんでいるのだが、膿んでいる部分と岩のごとく硬化している部分とで無秩序な斑模様ができていた。

 ピーノの視線の先でぽとり、とニコラの体の一部が腐り落ちた。


 この瞬間に理解する。エリオは死んだ。

 そしてもうすぐニコラも死ぬのだ。

 あれだけ隔絶した強さを見せていた二人だというのに、ぶつかり合ってしまえばこうもあっさりと逝ってしまうのか。


 父を亡くし、よき兄貴分となってくれたノルベルトも戦場で命を落とした。温かく歓迎してくれた〈シヤマの民〉はハナを残して皆殺しにされ、未熟さゆえにルカを死なせてしまい、故郷の山は燃え落ちて、ヴィオレッタにオスカル、リュシアンも若くして死んだ。

 みんないなくなっていく。まぎれもなく先生と呼べる存在だったニコラ、ついには兄弟以上の存在だったエリオまで。


 どうしようもなく涙がこぼれ、視界がぼやけた。

 けれども死者を悼んでいられたのはそこまでだった。


「ピーノ……あんた、何でぼけっと突っ立ってるの……!」


 少し離れた場所から、獣が唸るよりも低く殺意に満ちた声がする。

 ハナだ。そして彼女は空へと絶叫した。


「早くその男を殺しなさいよッ!」


 ピーノは困惑し、代わる代わるニコラとハナを見るしかできなかった。

 時には凛として美しく、時にはあどけなく可憐だったハナの顔が、あまりにも深い憎しみに侵食されてしまっている。初めて目にする表情だ。以前にウルス帝国から逃げだした際でさえ、ここまでの憎悪を露わにはしていなかった。

 冷えた空気を纏って近づいてきた彼女が、友愛の情を一切感じさせぬ仕草でピーノを突き飛ばす。


「できないなら、退いて」


 ハナに見下ろされながら、ゆっくりとピーノは尻餅をつく。

 そんな彼女の背に、まったく踊っていないにもかかわらずいつの間にか八つの光点が出現していた。

 突然、ニコラの巨体が後方へと吹っ飛ばされる。


「風よ、災いとなってあの男を切り刻め! 土よ、災いとなって刺し貫け!」


 かつて〈シヤマの民〉長老であるユエが言っていた。

 踊り手が自然に認められ、交わって融け合い、偉大な力を貸してもらうのだと。

 けれども今のハナが行使しているのは問答無用の暴力そのものであった。


 呼び起こされた風は無数の鋭い刃となって、異形化したニコラの肉体をずたずたに引き裂いている。

 他方の土は槍のごとき隆起となってニコラへと襲いかかる。地面からでたらめに伸びてくる土の槍がことごとく貫通していった。


「報いを受けろ! 一身に災いを背負え! 死ね、死ね、死ね! 生まれ落ちたことを永遠に悔やめ! 死ね、何度でも死ね!」


 半狂乱となったハナは腕を振り上げ、邪悪な歌を唄うようにして節をつける。

 ピーノとしてもこんな彼女の姿をこれ以上直視できない。エリオだって決して望んでいないはずだ。


「ハナ、やめて! お願いだからもうやめて! ニコラ先生はもう助からない! きみが手を下さずとももう消えていなくなるんだよ!」


 風の刃が吹き荒れているのも構わずハナとニコラの中間地点へと割って入り、涙声で懇願する。当然、ピーノ自身の体もあちらこちらが裂けて血が流れた。

 それでも唯一の形見となったエリオの僧服は必死に両腕で抱え込むようにして庇い、どうにか傷つけさせまいとする。


「バカね、ピーノ。目いっぱい苦しませてやらなきゃ意味ないでしょ」


 口ではそのように言い放ちながらも、風の刃がぴたりと収まった。振り返れば土の隆起も止まっている。エリオの僧服のおかげかもしれない。

 全身を貫かれたニコラの巨体は宙に浮き、そのままぴくりとも動かなかった。もうとっくに事切れていたのだろう。

 エリオは敗れてなどいなかったのだとピーノは思う。確かに二人の勝負で生き残ったのはニコラなのだが、彼には結果を伝える役目が残っていただけのことだ。

 どれほど悔やみ切れなくても、納得できなくても、受け入れるしかないのだ。


 見開いたままだったニコラの目蓋にそっと手を当て、安らかな眠りのために閉じさせてやる。

 さすがにハナも怒りが静まったらしく、ピーノの行為を咎め立てしない。

 そんな彼女がぽつりと呟いた。


《復讐は己の魂を汚してしまう》


 失われようとしている〈シヤマの民〉の言葉だが、ニコラから教わったピーノにも意味は理解できる。

 半ば独り言のようにしてハナは続けた。


「巡礼の旅を続ける流浪者である〈シヤマの民〉は、地域によっては奇異の目で見られ迫害を受けることもあった。それでも復讐は掟により決して許されなかった。誰かを敵と見做して傷つける行為は、自分自身を傷つける行為なのだと」


 ピーノも在りし日のユエの姿を思い浮かべる。

 淡々とハナが言葉を紡いでいく。


「掟に背いて復讐の道を選んだあたしにはもう、何もない。復讐を望んだあたしのせいでエリオが死んでしまったのよ。とてもとても好きだった人が。愚かにも程があるよね。結局、この手で繋ぎ止められるものなんて何一つなかったんだ」


「そんなこと、あるもんか」


 強く否定してあげたかったが、エリオを失い激情に駆られて瀕死のニコラを惨殺した彼女へ届くかどうかは心許ない。

 案の定、ピーノの好きだった笑顔はもはやなく無表情でハナが首を横に振る。


「エリオやあんたと暮らした日々は楽しかったよ。あと、イザークもね。でも、あたしにはもう楽しいという感情がわからなくなってしまった」


 ここで別れよう、と彼女は言った。


「さよならだよ、ピーノ。二度と会うことはないだろうけど、エリオの分までたくさん生きてね」


 そう告げて背を向けたハナが決然と走りだす。

 足取りを緩めず、振り返ろうともしない彼女を追いかけるべきなのに、ピーノはその場に留まったまま動けなかった。背中がまったく見えなくなってからも。

 もはや互いの生きる道が分かれてしまったのだとわかっていた。

7章はここまで。

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[良い点] 115~117部は、心をざく切りにされるような思いで読みました。 最初から予告されていた別れですが、そこへ至るまでの経緯があらゆる想像を超えていました。 人間の領域を超えた二人の壮絶な対決…
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