セスの再来
当てさえすれば一撃必殺、それがエリオの戦い方だ。生命力の「門」を開かずとも並外れた膂力でもって対峙する敵を粉砕する。開いてしまえばなおのこと。
ピーノとの模擬格闘戦を帝国から逃亡した後もずっと続けていたため、一対一の勘はまったく鈍っていない。加えて、ニコラの速さはピーノよりもわずかに劣る。
「おらぁっ!」
上半身ごと吹き飛ばすような勢いで、再びエリオの右拳がニコラへと炸裂した。だがまたしても腕を犠牲にすることで防がれてしまう。
「怖い怖い、やはりこの距離で戦うのは自殺行為のようだね」
軽口紛いの感想とともに、ニコラはエリオから大きく距離をとってから生き残っている兵士へと近づく。兵士の生命力を吸い取るつもりなのだろう。
「ちっ、またそれかよ!」
舌打ちをしてエリオが不満げな声を上げる。
「反則みてえなもんじゃねえか、くそったれ」
しかし詰られたニコラはといえば、何が問題なのかもわからないといった様子で首を傾げていた。
「さっきから君はいったい何に対して怒っているんだ? 周りの物を使って戦うのは君やピーノと同じじゃないか」
「おいおい、冗談きついぜ。あんたにゃそこがわかってねえから、今ここでやり合う羽目になってるんだろうが!」
声を荒げるエリオに対し、ニコラは静かに息を吐いた。
「……まあいい。命の価値が平等でないことを論ずるような状況ではない。それでも一つだけ、君の勘違いを訂正しておく必要があるな」
「ああ?」
「見たまえ」とニコラが告げる。
言われるがままに彼の両腕へ視線を遣ると、左腕の肘から先だけがさらに厚みを増して太腿と遜色ないほどに膨れ上がっている。
だがエリオの目を引いたのは、その表面が長い年月を経てひび割れた岩のようになっていたことだ。
思わず息を飲んでしまった彼に、穏やかな表情のニコラが語りかけてきた。
「利点しかない力などこの世には存在しないだろう。私だって例外ではないさ。君もまだ覚えているはずだ、自身の生命力を引き出すのにさえ多大な労苦を必要としたことを。ましてやそれが他者の生命力となればもはや運頼みといっていい領域になる。例えるなら、荒れ狂う海へ一艘の小舟で漕ぎ出すようなものだ」
「だからさ、何度も言うけどおれは海を知らねえんだって」
そうだったね、とニコラがきまり悪そうに苦笑いを浮かべながら続ける。
「瀕死の人間の、今にも消えてしまいそうな生命力であればこちらの負傷を治すのにちょうどいいんだが、普段ならそう都合よく転がっているはずもない」
「なるほど」とエリオが相槌を打つ。
「死にかけの連中がごまんといる戦場で、その右腕をこっそり元通りに回復させたってわけか。そりゃリュシアンのやつも面食らうはずだ」
「察しがいいね。その通りだ」
満足そうにニコラは頷いた。
「けれども他者の生命力を扱うというのは、恐ろしく精緻な技巧を要求される代物でね。自分の生命力とは勝手が大きく異なるんだ。ほんのわずかでもしくじればご覧の通り、生物としての人間から遠ざかっていくことになる。君たちには隠していたが、実はずっと以前から腰のあたりの皮膚も毒で膿んだような状態が続いているんだよ。広がりはしない代わりに、治りもしない。ただ激痛だけが残り続ける。最初の吸収でやらかした、その証拠にして代償さ」
エリオは何も答えない。
返すべき言葉ではなく、彼は適当な剣を探した。長剣でも短剣でもいい。肉体を刺し貫けるだけの鋭さがあれば何でもよかった。
すでに事切れている兵士の腰から剣を抜き、そのまま無言で思い切りよく自身の腹に突き立てた。
「何をしているエリオ! 気でも触れたか!」
いつでも冷静なあのニコラが慌てふためく様など、見ようとして見られるものではない。
こりゃピーノにも後で教えてやらねえと、などと呑気なことを思う。
「黙って見てな、先生」
掠れた声とともに、剣を握っていない左手を前に出してニコラを制止する。
エリオに「君の生命力の量は飛び抜けて多いのだ」と教えてくれたのは、他ならぬニコラであった。その眼力を信じ、ある仮説を立証する実験に取り組んだのはピーノやハナと過ごしたヌザミ湖畔での日々だ。
初めて試してみたのは小さな切り傷だった。誰にも気づかれないよう、服で隠れる部分ばかりを傷つけてみた。次第に深く、大きな傷を。
最後の仕上げとして、足の指も何本か切り落としている。
「おれはずっと考えていたんだ。どうすればこの力を有意義に使えるのかって。あのときルカを死なせずにすんだんだろうかって」
出血を伴いながら勢いよく剣を引き抜く。しかし抜いた直後から、致命傷となってもおかしくないはずの腹の傷はみるみるうちに塞がっていく。
悩んだ末に出したエリオの結論は「治癒」であった。
傷の段階を引き上げつつ何度も実験を重ねたことで、エリオの肉体治癒は実戦でも使い物になるところまで鍛えられた。肝心なのは早さだ。意識を失ってしまうよりも早く、重い傷を負った箇所へ生命力を流し込む。訓練の甲斐あって、切り落とされたはずの足の指だって今もきちんと十本揃っている。
自分が何かもを背負えるようになればいい、エリオはそう考えるに至った。
おいそれと死ねない体であれば、みんなの盾となれる。
大切な人たちを傷つけさせずに済む。
ニコラにも見えやすいよう、僧服の前をはだけてエリオは言った。
「わかったか? これがおれの切り札だ。もちろん限界はあるが、それは先生だって似たようなものみたいだからな。条件としちゃ五分に近いだろ」
黒い僧服のため血の染みもさほど目立たず、腹部には薄い傷らしきものさえ見当たらなかった。
一方のニコラは「まったく恐れ入ったよ」と感嘆する。
「本当に、君の素晴らしい才能に対して畏怖の念さえ覚える」
彼にしては珍しい、手放しの褒めようだ。
「セス教の伝説を思い起こさせるね。三度命を落とし、三度蘇ったとされる眉唾物なあの言い伝えも、あながち嘘ではなかったのだな」
「だろうよ」
エリオも短く肯定した。
ハナやピーノの盾となるべく自身の道を決めた後、イザークを介してセス教の元修道士であるリーアムに出会った。
彼が語るセスの様々な逸話を聞くのはとても楽しかった。なぜなら、エリオと同様の力を有していたと推測されるセスに対して勝手な親近感を抱いていたからだ。
以前はセス教にもタリヤナ教にもさほど関心を寄せていなかったはずのニコラだが、意外にも高揚した様子を見せていた。
「あのセスと同格の存在と戦えるってわけか。胸の高鳴りを禁じ得ないね。人生の最期を迎えるにあたって、これほどふさわしい舞台が巡ってくるとは。光栄だ」
「何でそう捨て身なんだよ……。もうちょっと守りに入ってくれた方が、こっちとしてはやりやすくてありがたいんだけどな」
エリオとニコラ、それぞれの勝利条件ははっきりしている。
エリオの生命力が尽きるか、ニコラの肉体が持ち堪えられなくなるか。
戦いの行方はまったく予断を許さないが、長丁場の持久戦となるのだけは間違いなさそうであった。