怪物
「本当にこれでよかったのかね」
ハナを抱えたピーノの後ろ姿を見送ったエリオへかけられた言葉だ。
声の主であるニコラへと振り向き、「何がだよ」とだけ応じる。
「彼女は自らの手で、父親の仇である私を討ち果たしたかっただろうに。ピーノも含めて三人がかりならどうにか可能だったかもしれない」
「まあな。でも、あいつが傷を負う可能性も高い。下手すりゃ命だって」
ふむ、とニコラは口元に手をやった。
「確かに。君たち三人の中で、最も力量で劣るのが彼女だ。あくまで舞踏魔術で応戦するというのであれば、私も真っ先に排除すべく狙っていっただろうな。放置しておくのは賢い選択ではないからね」
「はーっ、それみろ」
ため息とともにエリオが言う。
「ったく、先生があいつの親父さんを手にかけてさえいなけりゃなあ」
こんな面倒な戦いをやらずにすんだのに、という恨み節の後半部分は口に出さず飲み込んでおく。
「あいつ……ハナはさ、本当は人を傷つけるのが大嫌いな優しい子なんだよ。ザニアーリ牢獄から逃げる際だってそうさ。おれやピーノは『邪魔する連中は全員殺してやる』くらいの心構えでいたのに、あいつ自身はそれを望まなかった。敵であっても、死ぬのを直視できずひたすら怯えていたんだ。怖い、怖いって」
一瞬、エリオの脳裏にルカの顔が浮かび上がり、すぐに消えた。
「そんなハナが『心の底から復讐を願っている』と言いだしたとき、もうおれには止められないって思った。けれど、できるだけ以前の優しいあいつのままでいてほしいとも思った。身勝手にもな」
「なに、人は誰しも身勝手なものだ。特に意中の相手のこととなれば尚更さ。好いているのだろう、彼女を。先ほどの口づけに私は君の密やかな熱情を見た」
真剣な表情で語るニコラの姿に、つられてエリオも彼の生徒だった時分を思い出してしまう。
「敵わねえなあ、先生には。そうだよ、好きだよ。おれのすべてを懸けて、あいつのことを守っていくつもりだ。だからやっぱり、この戦いは避けて通れない」
エリオの決意を受け、ニコラも大きく頷いた。
「いい覚悟だ。ならばもう何も問うまい……と言いたいところだが、もう一つだけ質問させてもらおうか」
そのまま続けて問いかけてくる。
「エリオ、君はセス教への信仰に目覚めたのか? だとすれば随分な変化だが」
「ああ、これか」
何についての質問なのかはエリオにもすぐ理解できた。
黒い僧服の裾を淑女の作法のごとく広げてみせ、左右にひらひらと振る。
「おれがそんな柄じゃねえってのは先生も知っての通りだよ。ただ、セス教を破門されてなお信仰を捨てないでいる、いかれたおっさんと親しくなったもんでね。その人への敬意っつーか、友情っつーか、まあそんな感じの気持ちとともに身に纏っているだけさ」
なるほど、とニコラは再び大きく頷く。
「どうやらここを飛びだしてから、素晴らしい出会いがあったようだね。そのような繋がりはこれからも大切にするといい」
「ま、生き残れたらな」
気楽な調子でそう呟いたエリオが、近くで息も絶え絶えになっている兵士のところへと歩み寄っていく。
もう忠誠を誓う対象などいないにもかかわらず兵士が握り締めていた剣を強引に奪い取り、屈んだ体勢からいきなりその剣をニコラの顔面目掛けて投げつけた。
さすがのニコラも不意を突かれたのか一瞬慌てた表情を浮かべたものの、すんでのところで身をかわす。
だがエリオはあっという間に距離を詰めていた。豪腕と称される彼の右拳が唸りを上げるかのように襲いかかる。
今度は避けられぬと観念したらしく、少しでも打撃の勢いを殺そうととっさに後方へ跳躍しつつニコラは両腕を交差させてエリオの拳を受ける。
手応えはあった。致命傷には至らないが、通常の相手であれば両腕ともに使い物にならなくなるであろう。
しかしエリオは追撃に移らず、その場に留まる。
相手はあのニコラ・スカリエだ。彼の持つ力の底をエリオはまだ知らないし、好機に気が逸ってうかつに飛び込もうものならどんなしっぺ返しが待っているかわかったものではない。奇襲で攻撃力を削ぐことに成功したのであれば、後は焦らずじっくり詰めていけばいい、そういう判断だった。
随分と後ろにまで吹っ飛びながらも、倒れることなくニコラはしっかりと両足で踏みとどまっていた。ただし両腕はだらんと垂れ下がっている。
「いやはや、凄まじい一撃の破壊力だな。まさか早々に両腕を潰されるとは。てっきり剣戟での勝負になるのかと油断していたよ」
「おれ程度の剣の腕であんたをどうこうできるわけないだろ。リュシアンやセレーネはおろか、ダンテあたりにさえろくすっぽ勝てなかったような腕前なんだぜ?」
力押しでいくのが最善手さ、と事もなげに言い放つ。
「リュシアンとやり合ったときの話を下敷きにさせてもらった。あいつ、らしくもなく剣を投げつけて勝機を見出そうとしたんだってな」
エリオには発言で動揺を誘う意図など特になかったが、それでもニコラはかっと目を見開いていつにない大きな反応を示した。
「なるほど、ようやく合点がいったよ。ダンテに会ったんだね。そうか、彼も無事に逃げおおせることができたのか」
本心から胸を撫で下ろしているようなニコラの様子に、さすがのエリオもいくらかのやりにくさを感じる。
だがそれもわずかな間だった。
先ほどのエリオと同様にニコラも付近で倒れている兵士へと近づき、ぎこちない手つきでそっと彼の腕をとる。
何度か瞬きする程度の時間しかなかったというのに、兵士の肉体はみるみるうちに痩せ衰え、数百年は生きたかと思われる老人の姿を経て、最後は一片の肉も残さず骨だけとなってしまった。
「ふう」
兵士の代わりに、ニコラの両腕は回復しただけでなく肥大化している。エリオの強烈な一撃などまるで存在しなかったかのように。
「さて、仕切り直しといこうか」
目の前の異様な光景に戦慄しながらも、エリオは直感的に状況を理解した。
自身の内側から生命力を呼び覚ますだけでなく、どうやらニコラには他者の生命力を吸収することができるらしい。
かつての殊勲と引き換えにしたはずの右腕、それが元通りになっていたのはやはり彼が隠していた異能によるものだったのだ。
浮き立つような感情を声の底に滲ませてニコラが言う。
「教え子たちの中でも群を抜く才能を持っていた君が相手だ。ピーノや君の流儀に倣い、戦場で使える物はすべて利用させてもらうとしよう。幸い、ここにはまだ何十人も転がっているからね」
「そういうところなんだよなあ」
対照的に、エリオの声には失望と不安とが混在していた。
「そういうところだよ、ニコラ先生。やっぱりあんたとは相容れない」
教え子への優しさが本物であるのはエリオにだってわかっている。ルカへは辛辣な態度が大半を占めていたように、少なからず歪んでいた優しさだったとしても。
だが、結局彼は人間の姿形をした怪物でしかないのだと思い知った。