運命の分かれ道
ピーノにだって、ハナをニコラとの戦いから遠ざけておきたいというエリオの考えは理解できる。だがここは敵陣の真っ只中だ。負傷して動けないでいる兵士が最後の力を振り絞って襲いかかってくるかもしれないし、新都ネラ中をかき集めた援軍がやってくるかもしれない。
かつてのベルモンド少将邸宅での騒々しい暗殺がいい例である。戦闘行動である以上、不測の事態はいくらでも起こり得るのだ。
「どうするんだよ、これ。完全に無防備な状態だぞ」
眠りこけているハナを横目に見つつ、ピーノはエリオに詰め寄る。
彼女自身の説明によれば、泡沫草を摂取していったん寝てしまえば、しばらく目覚めることはないのだという。より強力な実を口にしてしまったのであればなおさらだろう。
エリオかピーノ、二人のうちどちらかがハナを守るだけで手一杯になってしまうのは確実だった。一対一の対等な勝負でニコラに勝てると思うほどには、さすがにピーノも自惚れてはいない。
「ハナの身の安全が最優先なのに、これじゃまったくの逆効果だろ」
「だからさ、おまえがハナを連れて逃げるんだよ」
扉の向こうの大階段をエリオが指差す。
「元々の予定に変更はない。ニコラ先生とはおれが一人でやる」
気負った様子もなく、あっさりと彼はそう言ってのけた。
「エリオが、一人で、先生と……?」
「ああ。一人でいい」
到底受け入れられないような内容を平然と告げるエリオに、いつもであれば苦笑いで済ませるピーノも叫ばずにはいられなかった。
「ふざけんな! そんなの、納得できるもんか!」
喉が潰れそうなほどに怒鳴ったのは、激しい感情を露わにすることの少ないピーノには初めての経験だった。なので当然、怒鳴られた側のエリオにとっても初めてとなる。
彼は左腕を腰に当て、右手は顎にやってしばらく思い悩む。
ようやく言葉になって表れたのは、さらに厳しい通告であった。
「じゃあはっきりと、わかりやすく言い替えよう。要は『おれじゃなければ先生には勝てない』ってことだ。ハナだけじゃない。ピーノ、今回ばかりはおまえでさえも足手まといなんだよ」
ピーノが知るこれまでのエリオは、決して自身を過大評価したりはしない。他者からの評価に対しても基本的には無頓着であった。
そんな彼が今、淡々とした口調ではあるが強烈な自負をのぞかせている。
「別に根拠のない自信ってわけじゃねえよ。たぶん、命のやり取りに限れば今のおれは先生よりも強い」
こっそり鍛えていたもんでね、と小さく舌を出した。
もうピーノの頭はとっくに混乱している。どう答えるのが正解なのか、まったく見当もつかない。長い付き合いである親友の説得にもエリオは耳を貸しはしないだろう。ハナを護りつつの共闘であれ、三人揃っての退却であれ。
選択できる道はもはやただ一つ、こうなってしまった以上は彼にすべてを任せるしかないということだけだ。
「──本当に、信じていいんだな」
「もちろん。ピーノよぉ、おれがおまえに嘘をついたことがこれまであったか?」
「山ほどある!」
「そうだっけ」
とぼけているのか、本当に忘れているのかはエリオの表情から読み取れない。
続けて彼が言った。
「ま、それにだ。ドゥルワで一つ貸しにしているだろ。この場でちゃんと返してもらうからな」
「ちょっと、ここで使うのはずるいよ……」
どうりであのとき、厳しく咎めもせず簡単にピーノのわがままを承認してくれたはずである。しかし今さら悔やんでみても仕方がない。
乱れた呼吸を整え、深い眠りの最中にいるであろうハナの褐色の体を右肩へと担ぎ上げる。もしも敵と戦闘になった場合は左手一本でどうにか凌がねばならない。方針が定まったのであれば、すぐにこの場から脱け出すのが得策といえた。
エリオとニコラにくるりと背を向け、そのままピーノは歩きだそうとする。だがその前に訊ねておきたいことがあった。
「これだけは教えてほしい。いったい、いつから決めていたんだよ」
「ん?」
「この最終的な構図の話!」
また声を荒げてしまったが、ハナの小さな寝息は規則正しく続いている。
エリオは首を捻って考えこむ素振りを見せ、ややあってから答えを返してきた。
「特に何も狙ってはいなかったさ。ただ、いつかニコラ先生とやり合う日が来るのだけはずっと覚悟していた。それは他の誰でもない、おれの役目なんだってな」
彼がいつそう心に誓ったのかはピーノにだって容易に想像がつく。
三人でウルス帝国から逃げると決断し、昼間でも仄暗い森の奥で身を切るようなハナの告白を聞かされたあの時に違いなかった。
率直に言えば、ピーノには寂しさがある。
これまで兄弟同然に生きてきたというのに、エリオは悲壮な決意を一人で抱えこみ共有してはくれなかったのだから。
そんな幼馴染の心中など知る由もなく、相変わらずの調子でエリオが言う。
「てことだ。ハナのことはくれぐれもよろしく頼むわ。待ち合わせ場所は……そうだな、例の眺めのいい丘にしようか」
「くそっ、もう勝手にしろ! ぼくが傍についてる以上、彼女には指一本触れさせやしないけど、無事に戻ってこないと許さないからな!」
捨て台詞と呼ぶのも憚られるほど、支離滅裂なことを口にしているのはピーノにだってわかっている。わかっていたところでどうしようもないのだ。
その背中へ再び声がかけられた。ただし今度はエリオではない。
「ピーノ、これが最後の機会になるかもしれないから君の耳に入れておこう」
ここまで静かに成り行きを見守る態度を貫いていたニコラだ。
「部隊にもまだ六名の生き残りがいる。ユーディット、アマデオ、フィリッポ、カロージェロ、トスカ、セレーネ。私が言うのもおこがましいが、願わくばみんなで支え合ってこれからの人生を歩んでほしい」
懐かしい名前を読み上げられ、一瞬ピーノの体もぴくりと反応してしまう。
それでも振り返ることはせず、ただの巨大ながらんどうへと成り下がった大広間を足早にそのまま後にした。