あっけない勝利
ピーノとエリオが〈名無しの部隊〉だった頃、表立って脚光を浴びる機会を与えられることはなかった。時期尚早、というニコラの慎重な判断によるものだ。
もちろんピーノとしてもその方針には賛成だった。多少目立ったところで、結局はやっかみを受けるだけでしかないのだから。
だから今、大階段を上りきり初めて宮殿の広間へとやってきて、まずはありえないほどの天井の高さに驚かされた。これまで目にしてきた建物とは規模が違う。
そしてもう一点、別の意味で驚かされてしまった。
「順調すぎると思ったんだよなあ……。そう上手くはいかねえか」
ため息混じりのエリオの声が後ろから聞こえてくる。
玉座まで真っ直ぐに敷かれている赤い絨毯を伝った彼らの視線の先には、ザニアーリ牢獄へ囚われているはずのニコラがいたのだ。
「やはり君たちだったね」
周りをぐるりと取り囲んだ兵士たちから剣の切っ先を一斉に向けられているにもかかわらず、まるで意に介さずニコラは満面の笑みを浮かべた。
そんな彼の両手首には罪人らしく枷がはめられている。どうやら投獄されていたという情報自体は正しかったらしい。ただし一般の囚人と同じ枷などであのニコラをどうこうできるはずもないことは、教え子であるピーノもエリオも心底より理解していた。
「先生──」
呼びかけるピーノの言葉は、十二段上の玉座から降ってきた皇帝の声によって遮られてしまう。
「いつぞやの獣のごとき娘か! 久しいな」
低く、しわがれていながらもよく響く声だ。
ニコラの周囲にいる兵士たちも即座に動きを止める。忠誠心の発露であれ何であれ、彼らに勝手な行動は許されていない。
どのような状況にも対応できるよう、いつにない緊張感に包まれながらもピーノは集中を保ち続けていた。
「はてさて、今さらになって余の妃になりたいとでも申し出に参ったのか?」
余裕を見せるためだろうか、とぼけたような物言いで煙に巻こうとする。
しかし皇帝のこの発言は、父や長老ユエをはじめとする〈シヤマの民〉全員を殺されたハナの逆鱗に触れた。
「ほざけ。おまえの薄汚い命をもらい受けに来ただけだ」
すでに外套を脱ぎ捨てているハナの腕が、水平にすらりと伸びて皇帝を指差す。
彼女の美しい褐色の肌はわずかな震えを隠せないでいた。
「はっはっは。娘、その意気やよし。──者ども、ニコラ・スカリエを含むこやつら全員を殺せ!」
一瞬の間を置いて、皇帝による号令が下された。
入口付近にいる三人の侵入者たちへは、両脇に備えていた弓兵たちによって雨あられのごとく矢が射かけられる。
だが同時に短剣を握り締めたピーノも鋭く飛びだしていた。
事前に三人で打ち合わせていた通りの動きだ。想定と異なるのは迫りくる眼前にあのニコラがいることくらいであった。
彼には剣を構えた兵士たちが襲いかかっている。身の程知らずな、とピーノは力量差を弁えていない無謀な行為を心中で詰った。
「思うようにやりなさい」
すれ違いざま、兵士の一人の首を折りながら確かにニコラはそう言った。
小さく頷いたピーノは「門」を開き、力強く床を蹴って高く遠く跳躍した。着地点はもちろん皇帝のいる玉座。
後方ではハナが赤い絨毯を操り、巨大な蛇さながらにとぐろを巻くことで弓矢をあらかた防いでいる。絨毯の盾をかいくぐってきた矢はエリオによって叩き落とされる運命だ。
先生は敵じゃない。そんな思いが宙に浮かぶピーノの胸に去来した。
「順調だよ、エリオ。何もかも順調さ」
さすがに弓兵連中も皇帝を誤射してしまう危険は冒せないらしく、ピーノの玉座到達を妨げるものは何もなかった。
皇帝ランフランコ二世はただ一人、玉座の前で棒立ちも同然であった。
この場からだと十二の階段を下りるより他に逃げる先もない。孤高の玉座がまったくの裏目に出てしまったわけだ。
「ユエ婆ちゃんたちの仇、とらせてもらうよ」
ピーノに躊躇いはない。
宣言するや否や、何が起こっているのかも理解しきれず呆けた表情をしていた皇帝の喉を真横に切り裂いた。このやり方が最も手っ取り早い。
噴きだした鮮血が絨毯の代わりとなり、玉座までの階段を赤く染める。
さらにピーノは皇帝の亡骸を蹴り落とす。下から肉体の壊れる音がした。
壇上から見渡せばエリオとハナ、そしてニコラと揃って無事のようだ。まだ戦闘意欲を失っていない兵士たちが散見される中、重臣どもは我先にと逃げだしているが、放っておいてももう問題はないだろう。
結局のところ、皇帝ランフランコ二世を失ったウルス帝国は滅亡するより他に道は残されていない。
ぼくらの完全勝利だ、とピーノは安堵の息をついた。