罪人と皇帝
粗末な食事が差し入れられるのは一日に一度だけ。
両手首には木の板に鉄の輪をはめ込んだ枷をかけられ、左足首は太い鎖によって壁へと繋がれていた。
念の入ったことだ、と牢獄でニコラは独り寂しく微笑む。
「私にはもう、物事を引っ繰り返していく気力など失われているというのに」
どれほど厳重に収容されようとも、彼自身が出ようと思えばいつでも出られる。枷などニコラの前では無意味に等しい。
いわばこれは緩慢な自殺であった。
皇帝ランフランコ二世によるスカリエ家への寵愛を快く思わない者は文官武官を問わず多かったし、その恩寵もすでに塵芥同然となっていよう。
最後まで部隊に残っていたトスカとセレーネを逃がした後、身辺整理をすませていた彼は自らザニアーリ牢獄行きを申し出た。
近く訪れるはずの人生の終わりを受け入れていたニコラにも、まだやり残していたことはある。自分との対話だ。
「私に誤謬などない」
そのように思い上がり、養父クダと実父ヴィンチェンツォを手にかけた。養父の苦しみを取り除き、実父の名誉を守ろうとして。
何という傲慢さだろうか。
あろうことか母ヒミの出自である〈シヤマの民〉虐殺にも関与してしまった。長老ユエを見殺しにし、族長モズに至っては自身の手で葬ったのだ。
あれこそが決定的な判断の誤りだった、と今でも悔やむ。手塩にかけて育ててきた部隊の崩壊劇はきっとあの瞬間に始まっていたのだから。
牢獄の最奥に囚われてからいったいどれほどの日数が経過したのか、もはやニコラに知る術もない。沈黙を旨とする看守になど問いかけるだけ無駄だ。
皮肉なことに、今の彼が収容されている牢はかつて〈スカリエ学校の子供たち〉に生命力の引き出し方、「門」の開き方を教えるために使用した部屋である。夥しい血がここで流されたのを、都合よく記憶の底に沈めておくつもりはなかった。
因果は巡るもの。最期を迎える場所として実にふさわしい。
そのように静かな心持ちで日々を重ね、衰弱の一途をたどったニコラだったが、彼にはまた別の運命が待っていた。
いつもなら「食事だ」としか声を発さない看守が、前触れもなく突然扉を解錠した。そして役職を剥奪されて久しい囚人へ居丈高に告げる。
「ニコラ・スカリエ、出ろ。罪人に対しての処遇としては異例中の異例であるが、陛下が直々にお会いになられるそうだ」
◇
ずっと剣を突きつけている五名の兵士に囲まれ、両腕に枷をはめられたままのニコラは大階段を進む。
広大な謁見の間へと通されてみれば、両脇にはずらりと弓兵まで控えている。
この怯えようはどうだ、と苦笑いを浮かべるより他にない。
十二段上にある玉座では、威厳に満ちた姿の皇帝ランフランコ二世がかつての寵臣がやってくるのを、今や遅しとばかりに待ち構えていた。
「軍神さながらであった英雄の、なれの果てか」
侮蔑というよりは痛ましく感じている、そのような声音だ。取り巻く家臣たちさえ敵と見なしている節のある皇帝らしからぬ挙動と言えるだろう。
巨大な広間にいるすべての者が平伏した。もちろんニコラも彼らに倣う。
がらんとした空間に、皇帝の朗々とした声だけが響き渡った。
「ニコラ・スカリエ、其方は先刻承知であろうな。嘘は許さぬ」
心して答えよ、と厳命してくる。
ただ黙って頭を下げ続けているニコラであったが、皇帝は意に介さず続けた。
「余の信頼に背いたこと、まことに許しがたい。万死に値しようぞ。しかしながらこれまでの多大な功績も忘れてはおらぬのだ。よって其方に名誉挽回のための最後の機会を与えたく思う」
場内がざわめくのがニコラにもわかった。
かねてより他の臣下連中から好意的でない視線をぶつけられてはいた。スカリエ家の血を引き、武勇に優れ、その一方で珍しい褐色の肌を持ちつつも、若くして皇帝の覚えめでたいとなれば妬み嫉みを受けるのも致し方ないことだ。
そもそも罪人となった者が、皇帝と正式に謁見できている現状が異例である。
刺し貫かんばかりの目で見られたとしても驚くにはあたらない。居並ぶ家臣たちの誰もが、寵愛の名残りを先の文言に感じたはずだからだ。
周囲の反応によって自身の甘さに気づいているのかいないのか、玉座から降ってくる声がわずかに熱を帯びる。
「どのような手を使っても構わぬし、全員とまでは言わぬ。ニコラよ。即刻、主だった部下たちを連れ戻せ。さすれば此度の件、不問とする」
冷酷無比をもって知られる皇帝ランフランコ二世にしては、度を越した寛大さだと言わざるを得ないだろう。
そして今のニコラにはまったく不要な提案であった。検討の余地さえない。
申し上げます、とようやく彼は顔を上げた。
「これまでに様々な方から、数え切れないほどに『スカリエ家の混血児による学校ごっこ』などと揶揄されてまいりました。いえ、揺るぎない事実でありますし別段の怒りはございませぬ。ですがその学校ごっこの日々こそ、今にして思えば私の人生の中で最も充実していた時間だったのです。胸が張り裂けんばかりに懐かしくてたまりません」
一拍の間を置いてニコラが言い放つ。
「断じて『否』です、陛下。私も含めて何人であれ、もはや帝国を超えた存在となったあの子たちの行く手を妨げることは敵いますまい」
彼からの返答を予期していたかのように、壇上にいる孤独な皇帝はほんのわずかに笑みを浮かべた。
「少しくらい、余の慈悲を乞うための嘘をついてみせぬか」
だがおもむろに立ち上がり、先ほどの表情が幻に思えてくるほど、いつも通りの雷鳴のごとき大音声で並み居る家臣団を震え上がらせた。
「もはやこの者の命運は決した! 即刻、首を刎ねて余の前へ献上せい!」
当然の結果である。ニコラも己の行く末を静かに受け入れていた。
彼を刑場へ引っ立てていくべく兵士たちが剣を抜いたまま近づいてきた瞬間、外から度肝を抜く破壊音が轟いてくる。尋常でない音の規模だ。
正門付近か、とニコラはとっさに見当をつけた。
冷静な彼とは対照的に、予期せぬ出来事との遭遇で場内は騒然としている。
すぐに急報を告げる兵士が大広間へ飛び込んできた。異常事態とあってその非礼を咎める者もさすがにいない。
「敵襲です! 奇怪極まる攻撃により、つい今しがた正門が崩壊しました!」
「大同盟の手の者か、それとも陛下への謀反か!」
さらなる事実の確認を求めてくる声に対し、報告の兵士は「いえ……それが」と言い淀んでしまう。
早く申せ、と急かされて再び兵士が口を開いた。
「敵の人数は確認できているかぎりたった三名! そのうちの一名は褐色の肌をした娘、残る二名はかつてスカリエ大佐の部下だった少年たちと思しき風貌!」
このとき、痩せ衰えていたはずのニコラの肉体が歓喜に打ち震えた。
帝国全土より選りすぐった少年少女たちの中でも、特に生命の才能に恵まれていた二人の少年。エリオとピーノが自分たちの意思で戻ってきたのだ。
おそらくは〈シヤマの民〉最後の生き残りであるハナという少女とともに。
ならば目的は改めて問うまでもない。復讐だ。