羊の中に棲む狼
ウルス帝国の支配下にある広大な版図には山岳地帯が多い。特に旧来の領土はその傾向が顕著だ。それが大戦争に打って出た一因でもあるのだろう。ないものねだりで肥沃な土地を求めたがために、今や国家存亡の機にあるわけだ。
ピーノたちもようやく最後の山道を下ろうとしていた。
すでに現在地は新都ネラ。皇帝宮殿を一望できる丘陵地から、エリオによる「行こう」という短い号令を受けて足早に進む。
ここまでの道のりが険しかっただけに、帝国兵との遭遇を避けられたのは面倒事にならず助かったが、相当の日数と体力を費やした。それでも帝国から逃亡したときほどの疲弊ではなかったため、評価としては上出来の部類に入る。
下り切ってしまったところで、いったんは別行動となるのは打ち合わせ済みだ。エリオとハナは森の中で身を隠し、ピーノが単独で情報を収集する。
最優先で知る必要があるのは、やはりニコラ・スカリエ率いる〈名無しの部隊〉の動向である。
確か今は〈帝国最高の傑作たち〉などという派手な名前になっていたか。
「別におれが行ってもいいんだぜ、ピーノ」
そんなエリオの提案を、ピーノはばっさり切り捨てた。
「冗談きついよ。トスカたちとの別れ際に自分がどんな態度をとっていたのか、まさか忘れたわけでもないだろうに」
「それは……まあ」
きまりが悪そうにエリオは鼻を掻く。
ピーノとしても別に責めているつもりはない。ハナを無事に逃がすことだけを考えていた当時の状況では仕方なかった。
「ぼくならみんなと出会っても戦闘にならず、ひょっとしたら味方にだって引き込めるかもしれない」
今は亡きリュシアンは別れ際に「次に会うことがあれば敵同士」みたいなことを言っていた。けれどもピーノにはまた別の考えがある。
彼やエリオには甘いと思われるかもしれないが、かつての友人たちを戦うべき敵だとは見なせない。何があろうとも絶対に。
◇
ピーノがまず向かった先は、当然のように〈名無しの部隊〉の宿舎であった。学び舎であり、同時に家でもあった場所だ。
しかし以前とまったく様子が違うのは外にいても伝わってきた。
音を立てないよう、慎重に扉を開けて中へと入りこむ。
侵入してすぐ、ピーノは違和感の正体に気づいた。もうここには誰かが暮らしている気配がまるでないのだ。生活の匂いもない。
壁のいたる所、特に天井の角には大きな蜘蛛の巣が張られており、さながら館の主人が蜘蛛どもへと交代してしまったかのようだ。
懐かしい廊下を静かに歩きながら、仲間たちの顔を一人ずつ思い浮かべていく。
再会の記憶も新しいダンテ、勇敢にもニコラへ挑んだリュシアン、死ぬ時まで一緒だった幼馴染同士のオスカルとヴィオレッタ、ピーノが最期を看取ったルカ。
漁師らしく精悍なカロージェロ、軽薄だが洞察力に優れているフィリッポ、料理に関しては右に出る者のないアマデオ、みんなの姉御ユーディット、やっと居場所を見つけたはずだったセレーネ、未来を夢に見る美しいトスカ。
そして尊敬と畏怖の対象であった、〈シヤマの民〉の血を引くニコラ先生。
「みんな、どこへ行っちゃったんだろう」
口に出してしまったピーノの呟きに、答えてくれる者などもちろんいない。
だがわずかな物音を耳が捉えた。一階の奥か、とピーノは当たりをつける。記憶通りであればニコラの執務室だろうか。
急いで駆けつけてみると、制服を着た若い兵士がそそくさと部屋から逃げだそうとしているところであった。
「ひっ……て、何だ。ガキが一人かよ。焦らせんなって」
慌てた様子の後にすぐ胸を撫で下ろしている。
この反応には思わずピーノも呆れてしまった。ここがどんな場所なのか、知らずに入ってきたわけでもないだろうに。
「ちょうどいいや。事情を聞かせてもらうよ」
言うなり、一瞬で若い兵士を組み伏せた。腹這いになった相手の腕を後ろで容赦なく捻じり上げ、膝で背中を押さえつける。
「ねえ、君はどういう理由でニコラ先生の部屋に入っていたの?」
「いてえ、いてえよ!」
「だから理由を聞いてるんだってば」
空いている左手で青年の首を強く握り締め、そしてすぐに放してやった。首筋にはさほど大きくないピーノの手の跡がくっきりと残っている。
今度は騒がずに答えてくれるよね、とピーノは優しく話しかけた。
「もう一度訊ねるよ。君はなぜそこの部屋にいたの?」
「ぬす、ぬす、盗みに入ってました。でで、で、でも、今さら、な何もなくて」
どうやらただの盗み目的の男らしい。何もなかったということは、他にも同じことを試みた不届きな連中がいたのだろうか。やはり新都ネラでも兵士の質が相当に劣化しているとみてよさそうだ。
すっかり怯えてしまった若い兵士はそこで口ごもってしまうが、さらに膝へ体重をかけながらピーノが「続けて」と先を促す。
「でも、でも、本当にそれだけなんです」
「でも、しか言えないの? まあいいや。この場所や使っていた人間について、知っていることは全部話してよ。終わったらちゃんと家に帰してあげるから」
相手からは見えていないだろうが、笑顔を浮かべて安心させようとする。
もちろんピーノにそんな約束を守る気など一切ない。仮にこの青年を見逃してやったとして、彼がここで起こった出来事を数日間口外せずにいてくれる保証などどこにも存在しないのだから。ドゥルワの街と皇帝のお膝元である新都ネラでは、行動の優先順位がまったく違う。
ピーノの心の内など知る由もない青年兵は、たどたどしい口調ではあったがどうにか助かろうと必死に様々な事実を挙げていく。
曰く、ここを宿舎として利用していた少数精鋭の部隊、通称〈帝国最高の傑作たち〉に脱走者が相次ぎ、もはや解散状態にあるのだという。
上官であるスカリエ大佐は部隊の管理責任を問われるも、彼自身が脱走を黙認していた可能性が高いとして現在はザニアーリ牢獄へ収監されている。その期間はすでに三か月近くに及び、彼にまつわる噂もほとんど聞かれなくなったそうだ。
自分の膝の下にいる男が嘘をついているとは思えなかったが、それでもピーノとしては腑に落ちなかった。あのニコラ・スカリエがおとなしく捕らえられ、牢獄で囚われていることなど想像するのも難しい。
仮に部隊の先行きを憂いて叛意を抱いたのだとしても、彼の力なら一人で皇帝の首を獲るなど容易いはずだ。
いずれにせよ、帝国の実情は事前の想定とかなり異なっている。
この情報を早く持ち帰り、エリオやハナと再度話し合う必要があった。
「な、なあ。もう解放してくれてもいいんじゃないか? 知ってることは包み隠さず教えたぜ」
少し緊張感が緩んだのか、青年兵の口調がやや親しげなものへと変わっていた。
ピーノにとってここはいろいろな感情が呼び起こされる、大切な場所だ。もう誰もいないとはいえ血を流すのはさすがに気が咎める。
なので手早く男の首を折り、野犬どもが食い荒らしやすいように遺体を外へ放置しておく。明日あたりに彼の死体が見つかって騒ぎになろうがどうしようが、そこからピーノたちに繋がらなければ何の問題もない。
一仕事終えたピーノは、思い出の詰まった建物から足早に立ち去った。