人生は美しい
新都ネラの郊外に佇む、何の変哲もない三階建ての建造物。
かつて〈スカリエ学校〉と呼ばれていた時分には学び舎として、そして現在では〈帝国最高の傑作たち〉なる仰々しい名を冠する部隊の宿舎として使われている。
少年少女たちの先生であり、上官であるニコラ・スカリエにとっても非常に慣れ親しんだ建物である。
この場で久しぶりに全員の顔が揃った。トスカ、セレーネ、ユーディット、アマデオ、フィリッポ、カロージェロの六名。
といってももはや以前の半数だ。エリオとピーノが去り、それを追っていったルカも戻ってこなかった。もはや生きてはいまい。ヴィオレッタとオスカルの戦死もつい先日に判明した。
得てして悪いことは続く。リュシアンはお抱え医師のカスコリの手にかかって毒殺、そのカスコリを殺害したと思われるダンテも脱走。一連の悲劇はいずれも四日前に起こった出来事である。
教え子かつ部下たちの顔を順に見回しながら、改めてニコラが話していく。オスカルとヴィオレッタ、リュシアンの死、そしてダンテの失踪。
誰も彼もが憔悴しきっており、表情にも精気がない。無理もないだろうな、とニコラはその心中を慮る。
「悪い夢から覚めてくれん夜みたいじゃ……」
不吉なカロージェロの呟きを咎める者もいなかった。
しかし彼らへの伝達事項はまだ残っている。
「早々にダンテ・ロンバルディを追跡し、始末せよ」との非情な命令もすでに上官であるニコラのところへ下りてきており、同時に新たな戦線へ向かうよう求められてもいた。慌ただしいにも程がある。
いずれに対してもまだ返答せず宙に浮かせたままのニコラだったが、このまま捨て置くことは不可能だ。
従うか、反旗を翻すか。その間をとるように、彼はなるべく露見が遅れるよう段階的に部隊を崩していくことを決心していた。
「では、今からダンテ追討へ向かう人員を二名選ぶ」
ただし、と付け加える。
「こんなのは表向きだ。素直にダンテを追う必要などない。帝国の中心地域から外れれば任務から離脱し、この機に乗じて身を隠せ。そして二度と戻ってくるな」
結果として命がけの訴えとなったリュシアンの、仲間を想う叫びに報いてやりたい気持ちはもちろんあった。だがそれだけではない。
最終選抜試験と称し、皆の手を握った感触を昨日のようにまざまざと思い出す。あの日にニコラは夢を見た。それも現実のものとなり得る夢をだ。
才能を見込んだ少年少女を厳しくも丁寧に鍛え抜き、大陸最強の名声をほしいままにする部隊を作り上げようとしていた。帝国と皇帝と戦争を利用し、自分を超えていく強き者たちを自らの手で育てる。そして見守っていく。
歪ではあったかもしれないが、そんな日々の中でニコラにも確かに愛情と喜びとが芽生えていた。ただの駒として扱うなどありえないのだ。
ダンテ追討の名目で最初に逃げる二名は多数決ですんなり決まった。
その二人、ユーディット・マイエとアマデオ・ヴィルガが互いに顔を見合わせながら困惑している。
「何でわたしたちなのさ。もっとちゃんと選ばないと」
「僕たちだけが、そんな。申し訳なくてできないよ」
受け入れられずにいる彼女たちを、他の四人がさっと取り囲んだ。
「おまえらのぉ、気づかれてないとでも思っとるんか」
「そうそう、恋路と見れば成就させるべし。二人組ならまず君らでしょ」
カロージェロとフィリッポがようやく笑みらしき表情へと変わっている。悪ふざけの大好きな、いつもの彼らが少しだけ戻ってきたようだ。
トスカとセレーネもつられてわずかに顔を綻ばせた。
「ユーディにはヴィオレッタの分まで幸せになってほしいから」
「アマデオ、絶対にユーディを泣かせてはだめですからね」
彼女たちはユーディットの両肩へそれぞれ伸し掛かる。
二人の親友からの圧力に抵抗しきれず、ユーディットは力なくその場でへたりこんでしまう。こんな彼女の姿を目にするのは非常に珍しい。
俯き加減のその顔はどうにか泣くまいと歯を食いしばっているように見えた。
ニコラが「大丈夫だよ」と穏やかに告げる。
「あくまで二人は先発隊というだけの話だからね。しばらく日を空けてから、次は残った全員を同様の名目で逃がす。ダンテを追って行方知れずとなったユーディットとアマデオの捜索隊ってことだ」
「でもそれだと、さすがにニコラ先生の立場が危うくならないですか」
すかさずフィリッポから心配する声が飛んでくる。
「そんなことを君たちが気にかける必要はないよ。なあに、私一人ならどうとでもなる。君たちはいかに上手く逃げ延びるかだけを考えなさい」
けれども誰一人納得のいく答えではなかったらしく、全員が再び表情を曇らせてしまった。なぜだろう、とニコラは不思議に思う。
不意に〈シヤマの民〉の長老であるユエから教えてもらった、母ヒミの最期の言葉が脳裏をかすめた。
まだナキという名前だったニコラへ、力を振り絞った母はこう言ったそうだ。
きっとあなたの人生は美しいものになる、と。
教え子たちの前でなければきっと苦笑いを浮かべてしまっていたことだろう。
顔も声も知らぬ若かりし母よ、残念ながら私の人生などそう大したものではなかったようだ。