戦争を終わらせるために
大した怪我ではない、とリュシアン本人は頑なに言い張っていたが、首筋の裂傷に加えて殴り飛ばされた鼻骨も折れていたとあって、当面の間は部隊お抱えのカスコリ医師による診療が日課となった。
三日目となるこの日もリュシアンは医務室へ出向いており、なかなか戻ってこない彼を気遣ったダンテが食堂での盗み食いがてら迎えにやってきた。
「早くアマデオが帰ってきてくれねえと、旨いメシになかなかありつけん」
なんとも自分勝手な愚痴をこぼしながら、医務室の扉を叩きもせずにいきなり開け放つ。
その途端、室内ではやけに慌てたカスコリ医師が座っていた椅子ごと後ずさり、勢い余って転倒してしまう。
「何とろくせえことやってんだよ、カスコリさん」
優に二十は年上の相手を小馬鹿にしてダンテが中に入っていく。
起き上がったカスコリ医師も白衣の裾を払いつつ、むっとした表情を浮かべた。
「ダンテくんか。あまり人を驚かせるもんじゃあないぞ」
「ふん、そっちが勝手にびっくりしたんだろうが」
鼻を鳴らして適当にあしらう。
カスコリ医師は知識も技量も確かな男だが、だからといって好感を抱くほどの人格者ではない。あくまで仕事上の付き合いでしかなかった。
部屋の奥にある寝台で横たわっているリュシアンの姿を見つけたダンテは、もはやカスコリ医師に目もくれることなく軽口を叩いて近づいていく。
「おいおい、いいご身分だな。のんびり寝てんじゃねえよ」
だが本当に眠っているのか、リュシアンからまったく反応が返ってこない。
悪戯半分に間近から彼の顔目掛けて息を吹きかけてみたのだが、それでも結果は同じであった。顔色自体、今朝よりも随分と青白くなったようだ。
怪訝に思ったダンテがリュシアンの頬に触れる。熱はない。というよりも体温がやや低くなっているのではないだろうか。
「妙な風邪でも引いたか……?」
首を捻るダンテのすぐ後ろから、カスコリ医師の湿った声がする。
「リュシアンくんは無事に死んだよ。先ほど確認済みだ」
それを聞いたダンテがゆらりと振り向いた。
「カスコリさんよ、言葉選びにゃ気ぃつけろ。次に間違えたら手足をもぐぞ」
「間違えるも何も、純然たる事実なんだがね」
次の瞬間、カスコリ医師の胸元を捩じり上げるようにつかんだダンテは「腕か、それとも足がいいのか」と問う。
「別に首だって構いやしないぜ。死にたくなけりゃとっとと詫び入れろ」
「んぐ、君は本当に人の話を聞かないな……! 死んだものは死んだのだよ」
「まだ言うかてめえ!」
怒りも露わにカスコリ医師を突き飛ばした。
またも尻餅をついてしまった彼を傲然と見下ろし、鳩尾のあたりを踏みつけて逃げられないよう押さえてからダンテは再度問い質した。
「リュシアンが死んだって、つまらない上に胸糞悪い冗談じゃなければどういうことだ。どの傷も命に別条があるようなものじゃなかったはずだぞ」
「どういうことだも何も、いたって簡単な出来事だ。君から上がってきた報告を受けて、皇帝陛下がリュシアンくんの処分を決断されたのだ。スカリエ大佐に牙を剥くような危険人物はいらぬ、と仰せになってね」
「は……?」
ダンテの口から呆けた声が出てしまう。
攻守が逆転したのを機敏に見て取ったか、カスコリ医師はダンテの足からあっさりと逃れて体を起こす。
「やっと理解したか? リュシアンくんは一線を超えた。最も怪しまれずに彼を毒殺できる立場にある私へ陛下の意向が伝えられ、それを忠実に実行しただけに過ぎないのだよ」
「そんなバカな話があってたまるもんか……。あれは正当な決闘だ。だからニコラ先生も真っ向から受けたし、おれだって隠さずに報告を上げた。いったい何の問題があるってんだ!」
次第に声を荒げていったダンテに対し、カスコリ医師が冷笑交じりに「もう少し静かにしたまえよ」と諭してくる。
「スカリエ大佐の、ましてや君ごときの見解などが考慮されるとでも本気で考えているのかね? 帝国においては陛下の御心こそが絶対。私に言われずとも、君にだってよぅくわかっているはずだろう」
非情な現実を認め切れずにいるダンテは、微動だにしないリュシアンへ定まらない視線を向けた。
今朝、彼と最後に交わした会話が何だったのか、まるで思い出せない。
すべてがあまりにも唐突過ぎて、受け入れることもできない。
わかっているのはただ一つ、自分の小賢しい生き方が尊敬する友人の死を招いたのだということだけ。
「それにしてもリュシアンくんは存外、間が抜けていたようだ。もっと警戒心の強い人間だと思っていたが、こうもあっさり事が運んでしまうとは。誉れ高き〈傑作たち〉とはいえ、人の身で毒には勝てぬよな。私にも随分とツキがあるらしい」
立ち上がったカスコリ医師がぽん、と馴れ馴れしくダンテの肩を叩く。
「さて、報告の功があったダンテくんにもぜひ協力してもらおう。リュシアンくんがひた隠していた持病を君だけは教えられていた──という体でね」
そいつは結果的に死に至る病だったという寸法さ、とカスコリ医師の口の端がわずかに上がる。
「多少強引な筋書きだが、泣かせどころさえあれば皆も納得する。自身がもう長くはないと悟っていたからこそ、命を賭して待遇の改善を訴えたんだろうね。やあ、何とも涙を誘われるような死じゃないか。隠蔽としては上出来、上出来」
彼が声に出せたのはここまでだった。
笑いだす寸前の表情のまま、カスコリ医師は絶命した。「門」を開いたダンテによって胸を抉られ、素手で心臓を握りつぶされてしまったのだ。
皇帝へ反旗を翻した形になることにも、カスコリ医師を手にかけてしまったことにもダンテには罪悪感などない。結局はなるべくしてなった。
今の彼が望むのはただ一つ、速やかにこの地を去ることであった。
「行く当てなんざありゃしねえが、もうこんな人生はまっぴらごめんだ」
血で汚れた手を拭おうともせず、別れの挨拶代わりにリュシアンを一瞥したダンテはそのまま窓から飛びだして、二度と戻ることはなかった。
◇
どうにかここまで話し終えたダンテが細く長く息を吐く。
そのまま彼は嗚咽し、両手で顔を覆ってしまう。
ずっと耳を傾けていたピーノの両拳はあまりに強く握り締められていたため、気づけば血が通わず白くなっていた。
エリオの目つきも異様に鋭くなっている。今にもダンテを殴り飛ばしてしまうのではないか、と心配になるほどだ。
ダンテには当然、リュシアン殺害に至る責任の一端がある。しかし逃亡によって仲間たちの立場をより厳しいものへと追いやってしまったピーノとエリオも、無関係な傍観者面をするわけにはいかない。
重苦しい空気の中、懺悔じみたダンテの告白を見守っていたキャナダインが淡々と口を開いた。
「続きは私が引き取りましょう」
昼夜を問わず必死に逃げ続け、単身でウルス帝国を脱出したダンテはとうとうレイランド王国の領内にまでたどり着く。
けれども彼は心身ともにもう限界だった。
「幸か不幸か、行き倒れになりかけていたダンテがいたのはキャナダイン家が治めている土地でして。結構な田舎ですがね。ま、それはともかく。表沙汰にすることなく彼を保護することができたのはそういう事情によるものです」
もっとも私自身にとっては得難いほどの幸運だったのですよ、とキャナダインが目を細めて言った。
「ウルス帝国からの脱走者とあって、いくらかでも鮮度の高い情報を引きだせればいいと考えて内々に尋問させていただきましたが、その成果はあまりにも予想外でした。なぜなら、今まさに我々大同盟側が頭を悩ませている〈帝国最後の傑作たち〉の一人の身柄を偶然手に入れていたわけですから」
場の主導権を握っているキャナダインだが、今度はイザークへと顔を向ける。
「そしてデ・フレイ殿。あなたが〈シヤマの民〉唯一の生き残りを保護しているという情報は、すでに私の耳にも入っておりました。加えてダンテから〈シヤマの民〉虐殺当時の情報を知ったのです。ダンテ以前に逃げだしていた、二人の恐るべき〈傑作たち〉の存在もね」
顔をしかめるイザークと、嫌な記憶を思い出してしまって身を竦ませるハナ。
キャナダインの言葉の切っ先が次は自分に突きつけられるのを予感し、ピーノも体をわずかに強張らせた。
「もうおわかりかもしれませんな。エリオ殿にピーノ殿、この度はあなた方二人にお願いがあって参りました次第です。なにとぞ、先の短い老人の切なる頼みとして聞き入れていただきたく──」
「回りくどいぞ、キャナダイン殿! 迂遠な言い方でなくはっきりさせてくれ!」
苛立ちの頂点に達したかのような口調でイザークが促す。
対照的にキャナダインは「では」と静かに応じた。
「ウルス帝国皇帝ランフランコ二世の暗殺依頼。それが今回の本題です」