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娼館の用心棒ピーノ  作者: 遊佐東吾
2章 悪徳の街の罪と罰と希望
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新しい名前

 チェスターの案内に従って商館の廊下を進んでいく。

 絵画もなければ彫像もない。主であるイザークの趣味を反映してなのか、名だたる大商人の館としては非常に簡素な内装だ。それだけでなく、奥に設けられている客間の扉がすでに視界へ入る程度の広さしかこの館は持ち合わせていなかった。


「案外狭いんだね」


 率直な感想がピーノの口をついて出る。


「建物全体で見りゃそうでもないぜ。だけどうちの主役は客から預かっている荷なもんでね。空いている場所があればそいつらの保管に回す方が理に適ってるだろ」


 答えてくれたのはチェスターだった。


「スイヤールのことはこいつに任せているからなあ」


 苦笑いとともにイザークが相槌を打つ。どうやらチェスターの独断によってこの商館の間取りが決定しているらしい。


「よほどのヘマをやらかさないかぎり、好きにさせるさ」


「さすが大将、話がわかるぅ」


 雇い主に対してとは思えぬほどの軽い調子で合わせつつも、客間の前で足を止めたチェスターの握り拳は、きちんと注意を払った慎重さで扉を二度叩いた。

 中から「どうぞ」と声がかかる。女性の声だ。


 まずイザークが、そのすぐ後に続いてピーノも入室する。二人を先に行かせたチェスターが後ろ手でそっと扉を閉じた。

 部屋で起立したまま待っていたのはすらりとした長身の女性だ。


「大変ご無沙汰しておりました。イザーク様、お変わりないようで」


 優雅に一礼し、顔を綻ばせながらその女性が歩み寄ってくる。


「久しぶりだな。えー、コレットよ」


 イザークの挨拶が少しつっかえたのを彼女は聞き逃さなかった。


「あらあら、まだ名前さえちゃんと覚えてくださらないのですね。天下にその人ありと謳われるイザーク様にとって、所詮私などは物の数にも入らないということでしょうか」


「度忘れしただけだろうが……。それに様付けはいいかげんよせ」


「ふふふ。なら今度、ぜひ客としてお越しくださいな。一晩中呼び捨てにして差しあげますから」


 いったいこの二人はどういう関係なのだろう、という疑問がまずピーノの頭に浮かぶ。

 すっかり防戦一方のイザークが眉間に手をやった。


「まったく、いつまで経ってもおまえたちにゃ勝てんよ。スイヤールをチェスターに任せたのは正解だった」


「ところで今回はこちらに長く滞在されるのですか?」


「いや、そういうわけにもいかん。さすがにいろいろと仕事が溜まっていてな。おまえたちにこいつの身柄を預けたらすぐに出発するつもりだ」


 そう言ってイザークはピーノの肩をぐいっと引き寄せた。


「わ」


「ほれピーノ」


 イザークに促され、眼前のコレットへ「……初めまして」とぎこちなく挨拶を交わす。初対面の大人の女性とどう接していいのかわからないピーノにとってはそれが精いっぱいだった。

 そんな彼の赤い髪を、イザークが優しい手つきで撫で回す。


「手紙でも記したが、こいつの力量には疑いの余地がない。もちろん人格もな」


「他ならぬ貴方のご推薦ですからもちろん信頼しております。ですがイザーク様、こちらがお願いしていたのは『腕の立つ女性を』とのことだったはず」


 わずかに視線を鋭くしたコレットへ、イザークは白々しくとぼけてみせた。


「女装ではいかんか? わりと似合うと思うぞ」


「またそういう煙に巻くようなことを……」


 だがしばらくピーノをじっと眺めていた彼女は、あろうことか「──悪くないかもしれません」などと呟く。


「小柄ですし、うちの子たちの服が合うかも」


 だろう、と得意げにイザークが胸を張る。後ろからはチェスターが笑いを堪えている気配も伝わってきた。

 ピーノの「それはさすがにやだよ」という意思表示も、イザークは「何事も一度くらいはやっとくもんだ」とまったく聞き入れてくれない。

 そんな空気を引き締めたのは、わずかに居住まいを正してから発されたコレットの言葉だった。


「冗談はさておき、イザーク様。彼はうちで預かります」


 別に女装はしてもしなくてかまいませんよ、と微笑みながら付け加えてくる。

 えらくあっさりとしたコレットの受諾にピーノも少し驚かされたが、それは隣の偉丈夫も同様みたいだった。

 ありがたい、とイザークが謝意を示す。


「意外なほどすんなりと受け入れてくれたな。もちろんこちらとしては願ったり叶ったりなんだが、ここから難航するだろうと覚悟していたよ」


「昨晩、ジゼルを含めた館の全員で既に協議を済ませておりますので。とはいえ、仕事ぶりなども含めてしばらくは様子を見させていただきます。うちの子たちがどういった反応を示すか、読み切れない部分もありますし。なので無条件に引き受ける、というわけにはまいりません」


 そう告げたコレットはピーノを真っ直ぐ見据えてきた。


「あなたもそれでいいかしら、ピーノ」


 間髪入れず、彼女へと小さく頷き返す。

 自分がこれからお世話になるであろう場所のことも、目の前に凜として立つ女性のことも、イザークからはまったくと言っていいほど何も聞かされていない。


 それでもピーノに異存はなかった。どこであれ、望むことも願うこともなく淡々と生きていくことに変わりはないのだから。

 ただ、先ほどのイザークとコレットの会話で気にかかっていたことがあった。


「ひとつだけ、訊ねたいことがあるんだけど」


「どうぞ。何かしら」


「コレットって名前、偽名だよね。そのまま呼んでいいのかな」


 不意を突かれたのか、彼女が驚いた表情を見せる。

 しかしそれも一瞬のことだった。


「うーん。正解……って言いたいところだけどね。私としては偽名じゃなく新しい名前だと捉えているわ。不安と苦しみと悲しさがまとわりついて離れない古い名前を捨てて、コレットという名前で新しい人生を生きているのよ。いえ、生きていきたいのよ」


 ここでコレットは大きく嘆息した。


「それにしても鋭いわね。どうしてそこに気づいたの?」


「いやだって、イザークが名前を呼ぶときつっかえてたし。昔からの知り合いみたいなのにどう考えたっておかしいじゃない」


 コレットとチェスターが同時に天を仰ぐ一方で、イザークは「……おおう」と呻いてうなだれてしまう。


「ほらあ、イザーク様がちゃんと覚えてくれていないからこうなるんですよ。そういうところにだらしなさが出るんですから。チェスターさんもそう思うでしょ」


「一応、これでも雇い主なもんで。言葉を濁させてください」


「おいこらチェスター、一応ってなんだ一応って」


 まるで子供みたいな騒がしさの大人たちだが、ピーノも悪い気はしない。

 これからしばらくの間、彼はこの街で暮らしていく。その始まりの日としてはわりかし上々じゃねえか、と亡き親友が肩に腕を回してくるような錯覚を起こしてしまった。

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