2話
「さーホルン! 今日こそ音を出してくださいよ~」
楽器庫からホルンを出して運びながら音葉は言うけれどホルンからの返事はない。適性検査の日以来音葉はホルンの声を聞いていない。どんなに話しかけてもホルンはうんともすんとも言わない。言葉を発しないだけではない。音も出してくれないのだ。
音葉は楽器を出すスペースに着き、ゆっくりとケースからホルンを取り出す。ライトに照らされてホルンの体がキラキラと輝いている。
カバンから楽譜やらチューナーやらを出していると後ろから部員の声がする。
「神崎さん今日こそ音が出るといいね~」
音葉は声の方を見ずに返事をする。
「うん」
「一人だけなんだからね。音が出てないの」
「うん」
「あの神崎の娘なのに音もまともに出せないなんてね~」
部員の放つ見下した言葉に何も言えない。何も言えずに音葉はホルンと楽譜を持って楽器を出すスペースを出ていく。後ろからは笑い声が聞こえてくる。女子特有の高い声が耳障りだ。
まだ音が出せない音葉は部員たちから笑いものにされている。神崎家の一員なのに音が出ないなんて! とか、ほんとに神崎家から生まれたの? とか、お兄さんが全部能力を持っていってしまったのよとか、毎日毎日音葉に投げかけるのだ。
練習場所である人のこない階段に着いて段のところに腰掛ける。
「今日は音出してよね……」
ホルンは何も答えない。マウスピースを取り出して震わせている口につける。振動が伝わりマウスピースからブーと震える音が鳴る。それを確認すると音葉はホルンにマウスピースを取り付ける。段差から立ち上がり姿勢を正した。唇を震わせ準備をする。マウスピースに口を当て、ホルンを構えて息を吸い込む。
『ホルン、ドの音を出して』
心の中でそう思いながらホルンに息を吹き込む。
ブボォー……
ホルンから出た音はドの音じゃなく、きれいな音とは言えない、地の底から這い出てきたような音だった。
「も、もう一回……今度こそドの音……」
ホルンを構え直してもう一度息をめいっぱい吸って吹き込んだ。
『ドの音を出してよ』
強くホルンに念を送ったのにも関わらず、出てきた音はまたドではなかった。
ペプッ
さっきはとても低い音だったが、今度はアホみたいな間抜けな音が出た。その後何度やっても出したい音は出なかった。ついには音さえも出なくなった。
プスー……
空気が漏れる音。吹いても吹いても空気しか出てこなかった。音葉はゆっくりとホルンを床に置いて段差に腰かけた。
「なんで……」
かすれ声でつぶやくと音葉は下を向いて肩を震わす。膝の上で拳をギュッと握ってから立ち上がって叫んだ。
「なんで音出してくれないのよ! 毎回毎回いい加減にしてよ!」
床に置いてあるホルンに向かって指をさす。しかしホルンは黙ったまま。叫びは空しく階段の踊り場に響いている。音葉は拳を震わせてさらに言葉をぶつける。
「何とか言いなさいよホルン! 検査以来声聞いてないし!」
シンとする階段。音葉とホルンの間に静寂が訪れる。時折、生徒が廊下を通って行ったのが見えた。どのくらい黙っていただろうか、音葉が耐えられず声を出そうとした瞬間、
キーンコーンカーンコーン
部活の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「はぁ……片づけないと」
ホルンを抱え、楽譜などの荷物を持って階段を下りていく。
いつになったら吹けるようになるの……
ホルンに届くように心の中で呟くがやっぱりホルンからの返事はなかった。
「ただいま」
誰もいないだろうけど。
ボソッと呟きながら家のドアを開ける。玄関を見ると靴が置いてあった。一つは白地に青いラインが入ったさわやかなスニーカー。もう一つは紫の小さいリボンがワンポイントで付いている黒いハイヒール。
帰ってきたんだ……
少しだけ音葉の体が強張り、鎖を体に巻きつけられたみたいに動きが重くなる。ゆっくりと靴を脱ぎそろえる。リビングの前を通ると声をかけられた。
「あら、音葉帰ってきていたの? おかえりなさい」
「た、ただいま……お母さんこそ帰ってきていたんだね」
音葉の母親である美弦が立っていた。
「準備をしに来たのよ」
「準備……?」
「律が出るコンクールの準備。今度は外国だから数日間は帰らないわ」
「そっか……いってらっしゃい」
そう言って音葉は自分の部屋に行こうと階段へ向かう。が、呼び止められる。
「音葉、あなた吹奏楽部に入ったんでしょ? 楽器は何になったの?」
「ホルンだよ」
「そう……神崎家の名前だけは汚さないでよね。わかった?」
「……はい」
美弦の方を振り向かずに階段を上がっていく。二階につくと音葉の部屋の隣、律の部屋のドアが開いた。
「あ、音葉。おかえり」
「ただいま……お兄ちゃん」
律は外国へ行くための準備を済ませ、トランクを手にして部屋から出てきた。
「音葉。高校はどうだ? 楽しいか?」
部屋のドアを閉めると、律は音葉に対して質問をした。音葉の高校入学と同時期に律は麗響学院に入学し、学院の寮に入ったため音葉とは一回も会っていなかった。
「楽しいよ。お兄ちゃんコンクールあるんでしょ? 頑張ってね」
律に向かって笑顔で答えると、自分の部屋へ入りドアを閉めた。カバンを床に投げ捨て、ベッドに倒れこむ。
「うまく笑えてたかな……」
自分にしか聞こえないくらいの声でつぶやくと、枕に顔をうずめた。
いつからか音葉は律とうまく話せなくなった。一緒に始めたピアノも律が先に賞を取った。父と母は律を褒め、音葉も賞を取った律のことをすごいと思った。
「お兄ちゃんすごい!」
心からの言葉も月日が経つに連れて言うのが苦しくなっていた。父と母が律に向ける愛情に嫉妬して、周りの人からは律との才能の違いを比べられて、音葉は耐えられなかった。律の顔を見るのもつらくなり、次第に距離を取り始めた。
そんな思いにふけっていると下から美弦の声がしてきた。
「音葉、下りてきてちょうだい」
のそりと起き上がり部屋を出て階段を下りていく。玄関には荷物を持った美弦と律が立ってこちらを見ていた。
「それじゃあ留守番よろしくね」
「ん、いってらっしゃい」
音葉は精一杯の笑顔で二人を送り出した。ドアが閉まりガチャリと鍵をかける音がする。音と同時に上げていた口角を下げ、玄関に背を向けた。リビングに入ってソファに腰掛ける。ふと、目に入ったのは棚の上に飾られている数々のトロフィーや賞状。家族写真も一緒に飾られている。家族写真に近づき写真を見つめる。写真に写るのは笑顔の楽都、美弦、律の三人。写真の中にも音葉の姿はいない。
「神崎家に私はいらないのかもなあ」
時計の音しかしないリビングに、音葉の声が悲しく溶け込んでいった。
授業が終わりいつも通り部活に行く。しかし、今日は違った。部活に行くために下りていく階段を今日は上っていく。一番上の階、屋上だ。ドアを開くと爽やかな風が音葉の髪を揺らしている。フェンスに近づいて下を見ると校庭が見えた。野球部や陸上部など校庭で部活をする生徒が準備をしているようだ。遠くだけど話し声も聞こえてくる。
音葉は屋上にある突出したような小屋の上に登ろうとはしごに近づいた。はしごに手をかけて慎重に上っていく。上まで来ると誰もいなかった。それを確認すると端の方に腰をかけ、足をぶらぶらとさせる。
「はぁー……」
息を吐いて後ろに倒れ寝転がる。音葉の瞳一面に空が広がっている。真っ青な空に雲がポツポツ浮かんでいて、ゆっくりと流れていく。空の様子をボンヤリと見つめる。
穏やかだなあ
部活に行かなくてはいけないのだが、音葉はそんな気持ちになれなかった。
『神崎家の名前だけは汚さないでよ』
昨日から頭の中に残っていてちっとも消えてくれない。
きっと、今日も音を出せないだろうし
美弦の言葉でやる気が無くなってしまった音葉はこうして屋上にやってきたのだった。
遠くから楽器の音が聞こえてくる。窓を開けて吹いているのだろう。
「部活始まったんだ……」
ポソリと呟くと風が吹いて言葉をかっさらっていく、ような気がした。
音葉は静かに目を閉じる。目の前が真っ暗になり、生徒の声、部活のかけ声、パーと高らかに鳴る楽器の音、風に揺れている若葉の音と様々な音であふれる。不思議とあまり気にならない。モヤモヤとしたような思いがスゥっと消えていくようだ。
心地よい空間に身を委ねてどのくらい時間が経っただろうか。頭の上から人の声が音葉の所に降ってきた。
「こーんなところでおサボりですか?」
びっくりして目を開くと誰かが音葉の顔をのぞき込んでいる。
「そ、奏一先輩……」
音葉の目の前にいたのは吹奏楽部の先輩でチューバ担当、金管をまとめている三年生の山村奏一だった。奏一は音葉を見下ろしてニッコリと微笑んでいる。
微笑みが……なんだか怖い。
音葉はガバッと起き上がり、
「な、なんで、こ、ここに、せ、先輩が……」
焦ってカタコトになりながら奏一に尋ねた。奏一は微笑んだまま音葉の横に腰掛けた。
「個人練したくてきたんだ。そうしたら神崎さんが部活サボって寝てたから話しかけちゃった」
キラッという効果音が出てもおかしくないくらいに笑う奏一。
「さ……サボってすみませんでした……」
音葉は奏一に深々と頭を下げて謝った。音葉は頭を下げながら考えていた。きっと大声で怒鳴られたり、他の部員に
「あいつサボってたぜ」
と言いふらしたりするだろうと。しかし、奏一が言った言葉は想像していたものとは全然違った。
「誰しもサボりたくなるときってあるよね。神崎さんにも、俺にも」
そう言って奏一は優しく微笑んだ。だから大丈夫だよと言うように。
「怒らないんですね。なにサボってるんだ! って怒るかと思いました」
「そんなこと言わないよ。でもなんで神崎さんがサボったのかは知りたいな」
奏一は音葉の顔をのぞき込み見つめた。音葉は視線をそらして自分の足下を見つめながらポツリポツリと話し始めた。
「ホルンの音が出なくて、なんか、嫌になっちゃったんです」
奏一は黙って音葉の話に耳を傾けていた。
「神崎家の娘なのに楽器もまともに吹けないなんて……笑っちゃいますよね」
アハハと笑うがすぐに口角を落として目線も自分の膝に落とす。
「ホルン……何言ってもずっと黙ってて……音楽の才能なんて無いのかなって」
奏一は黙って音葉を見ていた。
「すいません。こんなこと愚痴って……」
音葉が謝ると、ずっと黙っていた奏一が口を開いた。
「神崎さんはホルンのことどのくらい知ってるの?」
「へ? ホルンのことですか?」
奏一の質問を聞き音葉は考えた。動きを止めて頭の中の記憶からホルンの情報を引っ張り出そうとする。しかし、出てこない。
そういえば……私ホルンのことなにも知らない気がする。楽器の知識はあってもどんな性格なのかとかそういうのは知らない……というか声聞いたのも適性検査の時だけ……
「私、ホルンのこと全然知らない……」
「ホルンも同じじゃないかな?」
「ホルンも?」
「そう。ホルンも」
奏一はゆっくりと頷くと話を続ける。
「例えば、知らない人に命令口調で話をされたら神崎さんはどう思う?」
「それはめっちゃ腹立ちます! 初対面なのになんなのよって……」
「ホルンもそんな気持ちなんじゃないかな。よく知らない相手から命令するような言い方されて」
奏一の言ったことにハッとした。今までの態度自体いけなかったことに気が付いた。
「そっか……ホルンそんなこと思っていたのかな……」
「ホルンは神崎さんを知らない。神崎さんもホルンを知らない。知らないなら知るしかないよ」
知るしかないと言ってもどうしたらいいか音葉にはわからなかった。
「でもどうやって?」
「会話だよ。会話すれば相手のことがわかるでしょ?」
「会話……」
「会話が一番の絆を作る方法だよ」
奏一の言葉が胸の中にストンと落ちる。悩んでいたことの解決策が見えてくる。
会話か……
音葉は急に立ち上がって奏一の方を向いた。
「先輩、私行ってきます!」
「うん。いっておいで」
奏一はニッコリと微笑んだ。サボりがバレたときの微笑みとは違い、優しさにあふれていた。
「ありがとうございます! 失礼します!」
そう言って音葉ははしごを使って下り、屋上を後にした。
「頑張ってね」
奏一の声が背後でしたような気がした。




