(敵が)強くてニューゲーム
「鳴子様、一ノ宮鳴子様」
僕の名前を呼ぶ声がする。名前で起こされるなんて何年ぶりだろう。
頭が重い。意識が泥の中に沈んでいるかのようで、目を開けるのも億劫だ。
「母、さん……?」
思わずそんな言葉が口から漏れて、直ぐにバカなことと、自嘲の笑みを浮かべる。母さんならとうの昔に死んでいる。ついでに父も。
「お母様ではありません。バローネです。がんばろーね」
「バローネさんだな!?」
僕は飛び起きた。この雪山の頂上から湧き出た清水のような清涼感あるクールボイスとくだらないダジャレはバローネさんだ!
「はい、先程からそう言っております。おはようございます。鳴子様」
僕が身を起こすと、開けた視界が広がっており、曇りの無い青い空、草花などの緑にピンク、黄色など、様々な色合いが目に飛び込み、息を呑んだ。今まで暗闇に慣れた目にはとても眩しく映ったのだ。
真っ暗闇ではないちゃんとした地面がある。背の低い草がびっしりと地面を覆い尽くし、頬を撫でる風は濃い草木の香りを含み、新鮮な空気が肺から身体全体に染みわたっていくようだ。
バローネさんは僕の正面に正座している。
「お、おはよ。ここは? どこかの山の上、なのかな? てか、下層世界?」
見下ろす風景に見覚えがないが、本当にここが下層世界なのだろうかと疑問に思う。
異世界といっても、空気自体はそんなに変わらないような気がするな。太陽みたいなのもあるし。あれはこちらの世界でも太陽という呼び名で合っているのだろうか。
「鳴子様」
バローネさんの声が再び僕の名前を呼ぶ。敢えて遠くを眺めるようにしていた僕は動きを止める。息すら潜めている。長年の習性というべきか、他人に、主に異性から話しかけられることに慣れないがために、反応が鈍る。そればかりかテンパって可笑しげな言動をしてしまう事がある。そんな心配ばかりしているから余計に何も喋れなくなってしまうのだが。……て、悩んでいる場合じゃない。なにか、なにか話さねば挙動不審に思われてしまう。
「ここは間違いなく下層世界です、鳴子様。一つお知らせがあるのですが――おや、突然頭を抱えてどうされたのですか? 頭ですか? 頭の調子がどこかおかしいのですか?」
心配しているのかバカにしているのか……。
声に抑揚が無いためどちらとも受け止められるから困る。そしてこちらを覗きこむように首を傾げる仕草が美し過ぎて直視できない。く、は――!
バローネさんが正座を崩したことにより膝元が!!
「鳴子様? どうして目を合わせてくれないのでしょうか? 心なしか、顔が赤――」
「あー、いやー、うん、大丈夫。人見知りなんだ。とびっきりのね」
そうですか、とバローネさんが平坦な声で頷く。正直、それ以外に言いようがなかった。良い年して人見知りというのも格好の悪い話しだが、神によって造られた存在であるバローネさんの前では見栄を張ったところで無意味な気がした。いっそ非常識な存在であるのだからと開き直ってしまえばいいのだろうか? いや、言葉を交わし、意思疎通ができて女性としての形をとっているのであれば、簡単にそうとも割り切れないところでもある。つまらない男だと思われないだろうか。そればかりが不安である。再び顔が熱くなるのを感じる。
……これから行動を共にするのに、パートナーの顔がまともに見れないって、そんなので大丈夫なのか? 大丈夫なわけがないな。
「そうだ、神様からの能力……」
アレを上手く使えば。
「鳴子様」
本日何度目かの呼び声。いったい先程からどうしたのかと思えば、バローネさんが立ちあがり、片手を突き出した。
「先程も言いかけましたが、――退路を塞がれました」
言うなり、バローネさんの手の平が僕の胸を押しやり、上体が後方へ傾く。
「!!」
目の前、突き出た手の平の向こうにバローネさんの顔が見える。どこまでも無表情で、なにを考えているのか読めない。しかしそう見えたのは一瞬で。
銀の光りが左から右に抜けたように見えた。目の錯覚を疑うような速さで。
ブシャリと、形容し難い聞き慣れない音が耳に入ると同時、バローネさんの手と顔の間から真っ赤な液体が飛び散った。アニメや映画で見るような安っぽい赤ではなく、黒の混じった赤。生臭く鉄の匂いの入り混じる。
これが人間の血液であることを理解した時、僕は声にならない悲鳴を上げていた。
「――――!!」
バローネさんの右手がもげた。肘から先が宙に飛ぶ。
これはどんな状況だ? いったいなにが起こり、なにが迫って来ているんだ?
退路? 塞がれた? バローネさんは!?
頭の中が一瞬にして疑問に埋め尽くされる。そしてその隙にも、視界の染める赤色の割合が大きくなっていく。
「鳴子様。心配は無用です。お気を確かに」
意識が遠くなりそうな僕に、なぜか腕を斬り落とされた本人が冷静に言いきかせる。その声には淀み一つ無い。まるで平静、何事も無かったかのような声に、僕の方が戸惑ってしまう。
吐き気を催して蹲る僕の目の前で、バローネさんが落ちた自分の手を拾い上げ、断面に断面をあてがうと世にも奇妙な事が起こった。鋭い刃物のような物で切断されたであろう傷口の表面が、不自然に波打つと生き物のようにぐつぐつと蠢き、傷口と傷口が互いを引っ張りあうようにくっつき、あっという間に境界が見えなくなった。
「んな、ばかな! ――って危な!」
眼前でくっついた腕の感触を確かめるバローネの手を、引っ張り身体に引きつける。まるで社交ダンスのステップのようだ。バローネさんがクルリと身体を回し身を寄せてくると同時、数瞬先までバローネさんがいた所を再び銀色の光りが通過した。
僕の目にはそれがハッキリと見えた。見えたけど、それがなんなのか僕にはわからない。
「あれは、ブレードウルフですね」
腕の中で良い匂いがする。……じゃなくて、バローネさんが周囲に視線を送りながら囁く。ブレードでウルフなのだから、どこかしかに刃でも付いた狼なのだろうか。バローネさんの視線の先を追う。――いた!
オォォォォォン!!
見晴らしのいい崖側とは反対方向の森の中から、複数の対となる瞳がこちらを覗いていた。陽の光りによって照らされ見えるのは茶褐色の毛に覆われた四足獣。身体に対して大きな頭、ワニのように口が長く下顎から太く短い牙が天に向かって伸びている。一番の特徴は頭蓋を割って生えているのかと思うほど立派な角だ。大きく厚く鋭い刃の形をしていた。
「常に5匹から10匹の群れで活動している肉食獣ですが、おや、30匹はいますね」
RPGの序盤ってスライムが1匹から3匹ぐらい出てくる程度ではないだろうか。
……なんというハードモード!
複数に重なった威嚇の唸り声が、ビリビリと物理的な圧迫感となって押し寄せ、僕は身構える。先程のショッキングな光景が脳裏に焼き付いて離れない。平気で腕が飛んだりする状況に僕はいる。バローネさんはなんだか不思議な能力で腕がくっついたが僕にはそれができない。あれも神様から授かった能力なのだろうか?
……能力?
思考と行動は同時だった。なにを合図としたのか刃狼の群れが飛びかかってきたからだ。距離にして50メートルくらいだろうか。獣の脚では5秒も掛からないだろう。
迫りくる刃狼から目を離さず、僕は右手で地面に触れた。
瞬間。
轟っ! という音が響いた。
思わず目をつぶっていた僕は静かに開ける。イメージはできていた。
だから見た。視界のソレを。
自分達と刃狼たちの間を遮るように展開する幅や高さ10メートル強の土壁を。
ここからでは確認はできないが、イメージ通りであるならば壁の正面には無数の棘が出ているに違いない。重たい衝突音が連続的に響いた。
「お見事です。鳴子様」
凛々しい声に頬を緩ます暇も、言葉を返す暇も無い。衝突する音が響いたが全てではない。複数の鳴き声と足音が壁の向こうを迂回し始めた。左右両方から。
妙に身体が動く。
神様がくれた身体だからなのか。
思考の間にも、僕は再び左右に壁を作る。右手で地面にふれ、左右に聳え立つ巨大な壁をイメージする。
無論、漏れなく棘々付きだ。
再び衝突音が鳴り響くが先程より数が少ない。四方向のうち三方向を〝コ〟の字型の壁に覆われた今、崖側がガラ空きな状態だ。刃狼たちは否応なく回り込まねばならない。活きの良いエサを逃がさないため、または縄張りを侵すものに対する制裁か。
僕の心臓が恐怖に高鳴っている。あと少しでも心拍数が上がれば破裂してしまうのではないか。そんなレベルだ。
しかし、ここまではイメージ通りだ。壁に背を預け、壁の切れ目から刃狼達が回り込んでくるのを肉眼で捉える。
「ざっと15匹といったところでしょうか」
思ったよりも多いな、と思ったのは一瞬で、僕はトドメとばかりに右手を振り下ろす。
眼前の地面が盛り上がり、巨大な津波のように地面が捲れ上がりながら、向かってくる刃狼たちを正面から跳ね飛ばした。刃狼の何匹かが苦し紛れに首を振ると、額の刃が抜けてこちらに向かって飛んでくる。
先刻、バローネさんの腕を切断したのはこれか!
手が地面から離れないように、身体を最小限に反らせば、頬を浅く裂きながら厚く鋭い刃が土壁に刺さる。
「そのまま行けぇ!」
大地の津波が刃狼達を弾き飛ばす。崖の方向へ。無念の叫びと共に刃狼達が残らず崖の下に落ちていく。ほんの数秒の出来事だった。
先程まで緑に覆われていた綺麗な地面は、今は見るも無残な土色だ。
再び訪れた静寂に、僕は弱々しくへたり込んだ。
獣の鳴き声はもう聞こえない。とりあえず、命の危機は去ったのだ。隣りでバローネさんが差し出してくれる手に掴まりながら立ち上がる。
「お疲れ様です、鳴子様」
「うん……」
妙に息が詰まる。巨大な壁に囲まれているからだろうと、右手で触れて壁を消していく。なんだか感覚的に能力を操っているが、かなりシュールだ。
手が触れただけで壁が土に還っていく。ボロボロと零れ、地面に山ができたかと思えば、その山自体が痕跡を残すことなく地面に溶けていく。
開けた視界に、数体の刃狼の死体が転がっているのに、僕は顔を顰めた。
猫派ではあるが、犬が嫌いなわけではない。
地面に広がる真っ赤な血を見ていると罪悪感に囚われそうになる。そっと視線を逸らした。
「そういえば、さ。バローネさんは大丈夫? その、腕、もげたように見えたけど」
僕を立ち上がらせた時から握られたままのバローネさんの右手を見る。
ほっそりと伸びた白い腕には傷一つ無い。先程はかなりの出血をしていたのにも関わらず、血の汚れも無い。
「ご心配なく、私の身体の部位は消失しないかぎりくっつき再生することができます。ただ……」
いままで涼しい顔をしていたバローネさんがもたれ掛かってくる。彼女の額が僕の肩に触れ、僅かに上がった息遣いが感じられる。不謹慎ながらもドキリとした。
それは髪の匂いだとか、あまり触れた事の無い他人の体温とか、そういう要因だ。
「どうしたの!?」
「……いえ、少々、血を流し過ぎました。流れた血は瞬時には再生しませんので」
その顔はあくまで無表情で、しかし顔色はわずかに青い。息が苦しいのか、胸が上下に大きく動いている。ざっくりと胸元が開いた衣装なだけに、白い肌に僅かに浮いた汗が…………おおぅ……。
「少し休めば大丈夫です。体内で血が精製されるのにそう時間はかかりません」
どんな身体の仕組みか知らないが、休んでいれば一時間程で血が精製されるらしい。常人ならば血の両や成分が正常値に戻るまでに1週間近くかかるといいうのに、非常識な。
「鳴子様も、その非常識な存在なのですよ。私に与えられた力は、最後まで鳴子様のアシスタントを務め上げる為の死なない身体。この世界の知識と探知能力」
そして僕には右手で触れた物の形を自在に作り変える〝創造〟の力を与えたと。
……随分とファンタジーだな。
未だに僕は、異世界に来たと言う実感を持てないでいた。
「鳴子様、少しの間、横になりたいのですが、膝を貸していただけないでしょうか」
美女が膝枕が要求してくる。……ファンタジーだな、ほんと。
「日差しの下で、膝枕」
「…………」
リアルの都合により前話から時間が空いてしまいました。
次話こそは早めの投稿を目指します。