婚約破棄なんて言わないで……!
「ティリミナ」
いつもは、愛称で呼んでくれるはずなのにアドルフ様はわたしの名前を違わず呼んだ。わたしは侍女にはしたないと止められるのにも関わらず駆け寄っていたけど、アドルフ様の目の前で止まった。
いつもは柔らかで穏やかな声が、固かったから。
柔和な顔立ちをしているはずの表情も固くて、戸惑った。
目はいつものように優しくわたしを見てくれるどころか、冷たくて声と一緒に拒絶しているよう。
「私と君との婚約は、なかったことにする」
――婚約破棄
わたしはひゅっと息を飲んだ。
◇◇◇
「やあティナ、今日のご機嫌はいかがかな?」
「……ご機嫌よう、アドルフ様」
婚約者であるアドルフ・テルガムン様がいらっしゃった。
公爵家嫡男である彼はさらさらとした明るめの茶の髪に琥珀色の目をしている。……はずなのだけれど、わたしは出迎えたきりその顔を見られなかった。
斜め後ろに控えている侍女のリリが物言いたげな雰囲気でこちらを窺っていることは分かっていたけれど、どうしても顔を上げる勇気は出そうになかった。
「私の婚約者は今日はご機嫌斜め? ちっともこちらを見てくれないね」
「……ご機嫌、斜めでは、ありません」
「いつもは駆け寄ってきてくれるのに?」
ぴかぴかに磨かれている床だけだった視界に、靴が入ってきた。アドルフ様の靴、足だ。それは一歩また近づいて、すぐ前で止まってしまう。
「声が少しおかしいけれど、風邪かな」
「……いいえ……っ」
「じゃあ顔を見せて」
流れるような動作で顔を上げさせられることに抵抗する暇と余裕がなかった。
「……何で泣きそうになってるんだ?」
わたしは涙を堪えるために今、唇にぎゅっと力を入れているからきっと見ていられない顔になっている。
声を出すのにも一苦労で、苦しいくらいだ。
視界に映ったアドルフ様は目を見張って矢継ぎ早に問いかけてくる。
「何かあったのかな、もしかして私が何かした?」
迂闊に首も振れなくて、息も詰まる。
「何かはあっただろう? 何でもいいから言って」
柔和な笑みを浮かべて、温かみのある琥珀色の瞳で、優しい声で尋ねられる。
ああ、いつものアドルフ様だ。
「夢で……っ」
「ゆ、夢? 夢がどうかしたのか? 悪い夢でも見たのか? それならえーっと、誰に頼めばいいんだろう。呪い師かな、それとも……心当たりがないや」
一気に慌て落ち込むアドルフ様の姿は見慣れない珍しい姿だったのに、わたしは頭の中がいっぱいだった。
「とりあえず私が内容を聞こう。そうすれば怖くないよ?」
「……っ」
「息、ゆっくり吸って落ち着いて言って。余程怖い夢を見たんだ……」
わたしは背中を撫でられ、
「夢で、アドルフ様がわたしと、」
「私が、ティナと?」
すっと息を吸って一思いに言う。
「婚約破棄なさると、おっしゃったのです……っ」
背をゆっくりとさする手が止まった。
同時にアドルフ様の顔も固まってわたしは息をすることを忘れる。
まさか、
「僕がそんなこと言うと思う?」
アドルフ様が素を出しながら言った。
それから、強ばった顔のままで見上げるわたしと目と目を合わせて、困ったように首を傾ける。
「婚約破棄だなんて……夢だろう?」
「でも、でも……っ」
「うん」
「もしかすると、アドルフ様がおっしゃるかもしれないと、思って」
「不安だったんだ?」
「はいっ」
ぎゅうといつの間にか背中に回っていた両腕に力が込められたことを感じる。
「僕はティナのことをこんなに愛しているのに、本当は不安に思ってた?」
「いいえっ」
「うん、泣かないで、ティナ」
ぶんぶんと首を横に目一杯振ると、ぽろぽろと涙が落ちてしまった。
その涙を落ちる先からアドルフ様が拭ってくれる。
「じゃあね、ティナ。こうしよう」
「どうするのですか……っ?」
「僕はティナのことを愛しているよ」
「わたしも、あ、あああ愛して」
「真っ赤だけど大丈夫?」
「はい……っ。――わたしもアドルフ様のことが大好きです」
「うん、一生懸命ありがとう。だからね、ティナ」
「は、い」
「早く結婚してしまおうか?」
思わず頷いた。
結婚したい。
すると、アドルフ様は満足そうに頷いた、かと思うとわたしの手を握ってどこかに歩きだそうとした。
「そうと決まれば話をしに行こう」
「えっ」
「僕と結婚したくないの?」
「したいですっ」
「じゃ、しよう。僕の奥さんになってくれるかな、ティリミナ」
さらりとわたしの名前を愛称でなく呼んだ婚約者に、わたしはプロポーズされました。