5:バイバイ、ショーイチ
「うそでしょ……」
ヒカルは、目の前で起こっていることを、信じられない思いで見つめていた。
夜の庭に、淡い碧の燐光を放つ蛍たち。
ただし、それは小さな虫の群れだけでない。自らを“ホタル”と称した少女と少年――ホタルとケイもであった。
髪の先や服の裾、指先など先端に光を灯している。
まるで、本物の蛍のような光を。
「“ホタル”だもの。光るわ」
「うん、“ホタル”だし」
呆然とするヒカルを前に、光に縁取られた“ホタル”たちは、当然のように庭を歩く。
「やっぱり、お前たちは夜に映えるなぁ」
縁側に座る祖父も笑みを浮かべて。
ケイが、ぽかんと口を開けたままのヒカルに気づき、
「こういうときは、考えたら負けなんだってさ」
「前にショウイチも言ってた」
ケイとホタルで顔を見合わせ、頷く。
何か言い返したいところだが、ヒカルはちょうどいい言葉を持たなかった。
「それじゃあ、花火やるか」
祖父は気にした様子もなく、花火セットを取り出してヒカルたちに見せる。
ケイは途端にぱっと笑顔を咲かせて、
「ショーイチ、センコウハナビやりたい!」
昼間とは打って変わった、生き生きとした表情だ。
地味好みだなとヒカルが思っていると、祖父が「わかったわかった」とひとつの設置型花火を取り出す。
パッケージには「閃光花火」と書いてある。
三発連続で着火されたそれは、ヒカルの脳裏に大変刺激的な光景として記憶されることになった。
ケイが奇想天外な花火ばかりに興じている横で、ホタルも自分の世界を展開していた。
自身の周りをヘビ花火の残骸でぐるりと囲み、ネズミ花火を、ケイに当たらないくらい離れた地面に投げていく。
ケイは笑い声をあげて飛び跳ねる。つぎつぎ放られるそれを避けて、あるいは追いかけてから逃げる。
ヒカルは「理解しがたい……」という思いをありありと表情に出していた。
こういうときは、保護者である祖父が注意するものではないのか。そう思って、ケイのそばにいる祖父を見る。
祖父は鉄製のゴミ取りバサミでひょいひょいとネズミ花火をつまみ、危なげない場所に放っていた。
しかしそれをケイが追いかける。ホタルが新たに投げる。祖父がつまんで放る。またケイが追いかける。
こうなるのか。
「いくつあるの、ヘビ花火……」
ヒカルは火が消えた棒花火を、水入りのバケツに突っ込んだ。
次の花火は、燃え尽きる前の花火から火を移して、違う片手にもう持っている。
花火の火を絶やさないのがヒカルにとってのこだわりだ。着火待ちの花火は、あと数本控えているから忙しい。
なんだかんだで、ヒカルも花火に夢中なのだった。
そうして時間は過ぎてゆく。
ケイが跳ねるまわるたび、ホタルがネズミ花火を投げるたび、火花とふたりの光が尾を引いた。
庭の隅には、火を避けるように蛍たちが集まっている。
蛍と“ホタル”の優しい光。
花火の明るく激しい明滅。
夜空を満たす星の海。
そう広くはない庭に、ヒカルの視界に、数多の光が散らばっている。
意識がぼうっとなりそうで、ヒカルは慌てて頭を振った。
四人で散々遊び倒し、花火セットの在庫は早々に尽きた。
「ふたりは夕飯は食べたんか?」
祖父が、小さく切り分けた茹でトウモロコシの皿を、縁側に腰掛けているヒカルたちの間に置く。
「私は食べた」
「ぼくは食べてないよ!」
花火の興奮冷めやらぬといった様子で、ケイは答える。
今は夜の八時だ。スイカを食べたのが午後三時前。(巻貝の分を考えないとしても)たったあれだけで保つものだろうか。
そう思って、ヒカルは思わず問いかける。
「お腹空いてなかったの?」
「んーん、ちがうよ」
「ケイはもう、必要ないから」
喜色を浮かべるケイとは対照的に、ホタルは、乏しいながらもどこか決然とした表情を浮かべているように見えた。
ヒカルは、なぜか胸にざわりとしたものを感じる。
「……そんな頃か」
祖父がぽつりと零す。
その声にも、さきほどまでの楽しさが感じられないように思えて、ヒカルは違和感を覚えた。
「ショーイチ。ぼくは楽しかったよ」
「ああ、よかったな」
祖父が応えて、ケイはまた笑った。そして、握りこぶしを、祖父に向かって突き出す。
「ショーイチ、これ」
祖父は「ああ」と、ケイに歩み寄る。
その背中がどこか寂しそうに見えて、ヒカルの胸のざわめきはさらに大きくなる。
何かが起きようとしている。
「ケイ、大人になったのね」
「うん」
ケイはホタルに短く返し、笑った。
「……どれ、じゃあじいちゃんが受け取るか」
祖父はケイに向かって、掌を受け皿のように差し出す。
ケイが手を開き、何かをそこに落とした。
小さな石を。八面体の、それを。
「じゃあね、ショーイチ」
そう言った途端、ケイの全身は明るい光に包まれた。
ケイの形をした螢火は、輪郭を崩して無数に散り、星の瞬く空へと昇っていく。
さきほどまでそこで笑っていた少年は、あとかたもなく消えてしまった。
絶句しているヒカルに、祖父が掌の上の石を見せる。
「ヒカル。これが“ホタル”の卵だ」
透き通った、深緑色の螢石。
ケイがのこした卵だった。
◇ ◆ ◇
田舎に滞在中、いつも使う自分の部屋。
ヒカルは電気も点けず、部屋の隅で、抱えた膝に顔をうずめて座り込んでいた。
「お風呂、沸いてるって」
部屋の入口、開けっ放しのドアから、ホタルが声をかけてくる。
「布団敷いたら入れって、ショウイチ言ってた」
「……ホタルは知ってたの?」
返事はせず、顔をうずめたままヒカルはホタルに問う。
「知ってるっていうのは、さっきのこと?」
ホタルの声の調子は変わらない。
河原で会ったときのように、平坦で、平静で。
ただ、その様子が、ヒカルにはどことなく饒舌に感じられた。
ホタルは言葉を続ける。
「“ホタル”は大人になったら何も食べない。食べられないから。それで、卵をのこす。のこして消える」
さっきのケイみたいに。
「……蛍みたい」
「それとは違う。けど、“ホタル”だから」
ホタルは淡々と続ける。
「……大人って、“ホタル”たちはどうやったらなれるの」
「心よ」
ホタルは短く言い切る。
「心……?」
ヒカルはわずかに顔を上げた。
廊下の明かりが逆光になって、ホタルは人の形をした影にしか見えない。指先や髪の先など、“ホタル”の光は、人工灯には負けてしまうようだ。
「心を通わせるの。“ホタル”は誰かの心に触れて生まれて、心を学んで、大人になる」
「それで、最後に卵をのこす……」
ヒカルが最後の言葉を継いだ。
そして、ゴールデンウィークに祖父が言っていたことを思い出す。
――会いたいと、強く願うんだ。
「ホタルは、ケイがいなくなって寂しくないの?」
「全然。それが“ホタル”だもの。私はケイがうらやましい。私も早く大人になって、卵をのこしたい」
「消えちゃっても?」
「それが“ホタル”だから」
ホタルは再度、淡々と言い切った。
「ヒカル。あなたは大人になりたくないの?」
ヒカルは、ホタルの言葉を反芻していた。
――大人になりたくないの?
それを、どうしてヒカルに問うたのだろう。
「僕と“ホタル”は、違うじゃないか……」
ヒカルは頭を振って、洗面台に映る自分――濃灰色の虹彩を持つ少年を見た。




