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1:“ホタル”・ノ・タマゴ

 時はゴールデンウィークまで遡る。



 春も終わりかけた、雲ひとつない暑い日。外で遊ぶには、いささか空の青が鮮やかすぎる。


 緑濃い季節の長い休みは、祖父の住む田舎を訪れることがアサギ家では恒例になっている。

 十歳の男子小学生アサギヒカルは、今回のゴールデンウィークも、両親に連れられて祖父の家に滞在していた。



 両親が昼食の材料を買い出しに行っているあいだ、ヒカルは、伯父か叔母のものだった部屋で本棚を物色していた。

 ふと、視線を感じて振り返る。開けたままの部屋のドアから、窺うようにヒカルを見ている少女と目が合う。


 薄茶色の長い髪で、ヒカルよりも少し年上に見える。少女は何も言わずにぱっと身をひるがえし、ぱたぱたと廊下をかける音だけ残していく。

 またか、とヒカルは思った。


 毎年この頃から夏にかけて、祖父の家には子供が増える。

 親戚というわけではない。近所から遊びに来ているのだと、祖父が言っていた。

 ヒカルもここに来るたび誰かに遭遇するのだが、この家で会う子らは、なぜか皆人見知りらしい。

 ヒカルも人見知りなところがあるために、毎年顔ぶれの変わる彼らと遊ぶどころか、名前すら聞いた覚えがない。


 いつものことだなと、意識を少女から本棚に戻す。そして一冊、本を引き抜いた。

 かつてこの家に住んでいた、誰かの持ち物だった昆虫図鑑。ヒカルの最近のお気に入りだ。


「おーい、麦茶飲むか」


 畳に腹ばいになって図鑑をめくっていると、さきほど少女が顔を出したドアの隙間から祖父が顔をのぞかせていた。そしてそのままヒカルを手招いている。


「ん、今行く」


 ヒカルは短く返事をして、図鑑を持って立ち上がる。

 そのまま祖父のあとについて廊下を歩いていると、


「ヒカル、“ホタル”をかえしてみるか?」


 突然、祖父がそう言った。


 ホタル。夏の夜に飛び交う、光る虫。

 毎年夏頃、このあたりの田んぼや河原で見かける身近な存在だ。


「ホタルって減ってるんじゃなかったっけ。飼えるの?」


 返事をしながら居間に入り、麦茶のビンと切り子のグラス三つ(ひとつは少女の分だ)が置かれたちゃぶ台に図鑑を広げ、パラパラと捲る。そして「ホタル」のページを開き、軽く目を通す。


 “五月から六月に孵化する”


 大きく色鮮やかな写真の下に、そんな説明書きを見つけた。

 今は五月上旬。まだ間に合うだろうか。


「じいちゃん、ホタルの卵持ってるの?」


 ヒカルは期待に胸を躍らせ、禿頭はげあたまの祖父を見る。

 祖父はにやりと笑ってヒカルの横を通り過ぎ、縁側に座った。そしてぼりぼりと、つるりとした後頭部を掻く。


「まあ、実際孵すとしたら来年になるけどな」


 白いステテコに腹巻きという、いかにも「田舎のおじいちゃん」といったスタイルで、祖父は今度は腹を掻いた。


「実はじいちゃんな、毎年“ホタル”を孵してたんだよ。でも年のせいか、最近疲れてきてなあ。だから、ヒカルに手伝ってもらおうかと思ってんだ」

「なんで僕?」


 図鑑を持ったまま、ヒカルは祖父の隣に腰掛ける。

 縁側は陽射しが暑くて、見える空の青が濃い。そよりと風が吹いて、ヒカルたちの頬を少しだけ涼しく撫でた。


「虫、好きだろう。図鑑それもよく見てるし」


 祖父は、「ほれ」とヒカルが持つ昆虫図鑑を指さす。


「たしかに見てるけどさ」


 ヒカルは図鑑に目をやり、意味もなく開いたり捲ったりしてもてあそぶ。


 虫は嫌いではない。しかし、特に好きというわけでもない。

 たまたまこのあたりに虫が多くて、そしてたまたま祖父の家で見つけた図鑑を気に入っただけ。

 ヒカルの虫好きとはその程度だ。

 それでも、「ホタルを孵す」というのはなかなか魅力的に思えた。


「ま、やってみろ。今年はまず、育てるところからだな。それなりに手間はかかるが、終われば楽しいもんだ」


 祖父はぱしんと、自分の膝を叩く。祖父の癖だ。

 以前、「リズムをとっている」というよくわからない理由を聞いたことがある。


 そういう言動の祖父だから、今回も半信半疑だったのだが。どうやら本気であるらしい。

 そんなことを思ったヒカルの目の前に、ずいと、弾力に乏しいてのひらが差し出された。

 掌の上には、淡い碧色をした石が乗っている。


螢石ほたるいしだ」

「ホタルイシ……?」


 困惑しながら、ヒカルはまじまじと八面体の石を見る。

 きれいな色形をしたそれは、ヒカルの好奇心を刺激するものではあった。しかし、それ以外に感想はない。

 そういえば、どこかに鉱石の標本もあっただろうか。


「これがどうしたの?」

「きれいだろう。これが“ホタル”の卵だ」


 さらりと発されたひと言に、ヒカルは絶句した。

 そして、ホタルのことは冗談だったのかと、いくらか落胆する。


「なに言ってるのじいちゃん……」

「まあ、そう言うよな」


 祖父は、手を自分に引き戻す。

 掌の螢石を大事そうにそっと撫で、一瞬、どこか遠い目をした。

 ヒカルは少し戸惑う。祖父のそんな様子は初めてだったからだ。


「ヒカル、夏休みはまた来るんだろ?」

「うん。でも今年は父さん、母さんにつきっきりになるみたいだけど」

「そうか。ヒカルは兄ちゃんになるんだな」


 祖父の目尻に、くしゃりと皺が寄る。七十歳の笑い顔は、ヒカルの知っている誰よりもしわくちゃだ。


「夏はヒカルだけか。だったら、じいちゃんのとっておきの秘密を教えてやろうな」


 はっはっはと、祖父はゆったりとした笑い声を上げたのだった。

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