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8:ヒカル

「ヒカル。これ何?」


 ある夕暮れ。

 ちゃぶ台に宿題を広げていたヒカルの眼前に、ホタルが何かをつき出してきた。

 それは丸っこい星形の飾りがついた、輪の小さなヘアゴムだった。


「髪ゴム……? ああ、きっと父さんだ。忘れ物だよ」

「ショウイチの子供の?」

「えっと、じいちゃんから見たら義理の子供。じいちゃんの子供は僕の母さん」

「ショウイチの子供じゃない方の子供のもの?」


 ホタルが、なかなかややこしい表現に言い直す。


「うーんと、母さんがそろそろ子供産むんだ。僕の妹か弟。父さんは『きっと女の子だ』って言ってて、女の子の小物とか集めてる。気が早いよね」

「ふうん」


 気のない返事だった。

 この話題は終わりかと、ヒカルが宿題に戻ろうとすると、


「これ」


 ずいと。

 ホタルが、ヒカルの顔の前にヘアゴムをつき出す。

 ヒカルは一瞬固まる。ホタルの行動の意味がわからない。


「えっと……」

「結んで」


 ホタルはさらに手を近づける。ヒカルは思わずのけぞった。


「え、結ぶって……え? 僕が、ホタルの髪を?」

「ショウイチには結べるところがない」


 さらりととんでもないことを言うホタルに、ヒカルはむせた。


「だって、ショウイチのあた」

「わかった! わかったから!」


 慌ててホタルの口をふさぎ、ヒカルは周りを見回す。

 幸い、近くに祖父の姿はない。

 スパァン! と、風呂場から景気のいい音が聞こえてきた。タオルを背中だかに打ちつけているのだろう。

 ヒカルはほっと胸をなでおろす。


「じゃあ、はい」

「え、うん」


 渡されるまま、素直に受け取ってしまった。

 見れば見るほど、小さなヘアゴムだ。輪も小さいし、なによりひとつしかない。せいぜい、細い房がひとつ結べるくらいか。


「じゃあ……ちょっと待ってて」

「どこに行くの?」

「櫛取ってくる。母さんのがあったと思うから」



「お待たせ」


 ヒカルが木の櫛を片手に戻れば、


「待ってた」


 大人しく座っているホタルが応える。

 ヒカルはホタルの隣にしゃがみこんで、


「じゃあ、やってみるね」


 ホタルの耳横の髪に櫛を入れた。

 黒く艷やかで、真っ直ぐな柔らかい髪。櫛の歯がすっと通る。

 少しだけ束を取って、慣れた(・・・)手つきで編んでいく。

 星の飾りが前にくるようにヘアゴムで結んで、細い三つ編みがひとつ、出来上がった。


「できたよ」


 ヒカルは、用意していた大きめの鏡をホタルに向ける。

 ホタルは三つ編みに触れつつ、角度を変えつつ。しばらく髪をチェックして、


「うん」


 どこか満足げに頷いた。



 それからホタルはことあるごとに、


「ねえヒカル。結んで」


 ヘアゴム(すっかり自分のものとして認識したようだ)片手にやってきたり、


「川に行かないの?」


 と誘いに来ることが増えた。

 祖父はそれを見て、


「お前たちはずいぶん慣れたなあ」


 頭のつるつるしたところをなでながら、はっはっはと笑う。

 ヒカルにとってもそれが自然で、日常のひとコマになっていた。


 それは日々のわずかな変化でしかなく、緩やかで。

 だからヒカルは気付かなかった。ホタルの様子に。

 その時が近づいていたことに。



「ヒカル、かくれんぼ。明日、私を見つけて」


 ある星の見えない夜のこと。

 ホタルはふと微笑んで、翌朝姿を消した。



 ◇ ◆ ◇



 昨夜の宣言通りに、ホタルが消えた。

 家の周りのどこを探してもいない。

 ヒカルは妙な胸騒ぎを覚え、


「探しに行かなきゃ……!」


 慌ただしくスニーカーを履いて家を飛び出す。

 向かう先はただひとつ。ホタルが向かうならあそこしかない。

 ヒカルは確信を胸に、河原へと向かう。


 背の高い草に隠れた浅い水の帯。上流へ遡るにつれ、水流は細く深く、足元の岩肌は鋭く角を尖らせ苔むして。

 足早に辿って行けば、やがて、暗い洞窟へと吸い込まれるように姿を隠す。ヒカルは躊躇わず踏み込んだ。


 闇が優勢の洞窟の中。しかし明かりはいらない。念のために持ってきた懐中電灯も、暗順応に邪魔ですぐ消してしまった。

 明るすぎては、きっと螢火が霞んでしまう。それに、洞窟内にはいたるところに金緑色の光を反射する苔がある。それで十分だ。

 そしてヒカルは、天然のドームに辿り着いた。



 ドーム内をちらほら照らす金緑色。

 淡くまばらな、碧の光の蛍たち。ちらちら、ちらちらと舞い踊る。


 幻想的な光景のなかで、少女は燐光の中心にいた。

 白いワンピースを着た少女ホタル。両膝をついてひざまずき、祈るように両手を組み目を閉じている。

 その輪郭は、髪の毛先、指先、白いワンピースの裾――ホタル自らが灯した螢火によっても照らされている。

 日焼け知らずの白い肌に細い身体。肩下までの黒髪に、細くひと房だけ結われた三つ編み。


 碧、黄、白。すべてが螢光けいこう

 苔と蛍と“ホタル”が作り出した、この世との境目が曖昧な空間。


「ホタル――」


 ヒカルの口から、自然と言葉が零れ出す。


「見つかっちゃった、ヒカル」


 ホタルは、長い睫毛に縁取られた目蓋を開ける。

 露わになった虹彩は、燐光で照らされてなお、蒼い。


「ねえ、ホタル。これってどういう――」

「約束。あげる、螢石ほたるいし


 ホタルは、柔らかに微笑んで。ヒカルは、目を見開いて絶句する。


「だってそんな、こんなに、急だなんて……」

「楽しかった」


 ヒカルの言葉を遮るように。


「大人になるって、楽しくて素敵なことだって、ケイも言ってた。私たちはわかってた。“ホタル”はみんな、知ってることだった」

「――」


 何も言えないでいるヒカルに、ホタルはゆっくりと近づいてくる。


「ヒカル。いつかきっと、大人になれる」


 ひんやりした手でヒカルの手を取って、ホタルは螢石をひとつ、乗せた。

 ホタルの虹彩と同じ、澄んだ蒼の八面体。ホタルがのこし、ヒカルに託した“ホタル”の卵。


「先に、大人になるから」


 全身が淡い螢光に包まれ、声はそこで途切れた。

 ホタルの形をした光は一瞬で形を失い、散り散りになって宙に溶けていく。

 あたりを飛んでいた蛍たちも、いつの間にか姿を消している。

 星の飾りがついたヘアゴムがひとつ、居場所をなくして地面に落ちた。


 苔が反射する光源を失い、ヒカルただひとりと螢石を残したまま、ドームは暗闇に包まれる――はずだった。

 しかし、苔はいまだに金緑色の光を反射している。


「大人に……」


 ヒカルの手の中の螢石は、碧の光(・・・)に照らされていた。



 ◇ ◆ ◇



「おお、光明みつあきくんか。そうか、無事に……夏菜かなも元気か」


 その夜。昭一は、末娘かなの夫の光明からかかってきた電話で、無事出産が終わった報告を受けていた。


「ああ、ヒカルもまだ起きて……よし、代わるか。おーい、ヒカル!」


 昭一が呼ばわると、すぐに濃灰色の虹彩を持つヒカルがやってきた。

 落ち着いた様子のヒカルに、受話器を渡す。


「あ、父さん? うん、うん。じいちゃんの声聞こえてた。そっか、ほんとに女の子だったんだね。え、母さんと話せるの?」


 少し間をおいて、


「うん、僕だよ。ヒカルだよ。……え、そんなに大変だったんだ! がんばったんだね」


 そうやってひとしきり話したあと、


「本当におつかれさま。おめでとう――カナ(・・)

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