雑兵物語〜敵を知り、己を知らば、百戦危うからずの段〜
原稿用紙換算6枚の短編です。
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眼前に広がるのは、雲霞の如き人の原である。
林立する双方の旗が風にたなびき、地獄の剣山のような三間槍が、微かに揺らめいている。その空間を埋めるのは、人々の発する熱気である。初夏を過ぎたこの季節とはいえ、この暑さは尋常ではない。今は米粒程にしか見えないその一人々々が、己の野心を剥き出しにして、我等が陣営を食い破り、大将首を我が物にせんと、虎視眈々と伺っている。
かくいう庄衛門も、その一人である。戦の花とも言うべき最前列に身をやつし、今日が初陣と言う事を物語る、下ろしたての艶を帯びた胴丸に身を固め、自分の栄光を、己が手で勝ち取ろうと言う英気と、これまで鍛え上げてきた己の肉体を頼りに、開戦の時を今や遅しと待ち望んでいる。
隣では同じく初陣の小六が、鉢金を締め直したり、槍を右左と持ち替えてみたり、頬をかいたりと、せわしなく体を動かしている。真っ赤に充血した目は挙動不審に右往左往し、まるでべそを掻いているかのようだ。
小六とは同村で、幼い頃からの知り合いだが、いつも落ち着きが無く、自信も無い。臆病者の典型のような奴だ。同じ組の恥部といっても過言ではない。こういう奴が真っ先に命を落とすのだと、父上も言っておられた。別段小六が命を落とそうが、不具になろうが知ったことではないが、この男のせいで、他の組の者の嘲笑を買うことは腹に据えかねる。庄衛門は小六の首根っこを鷲掴みにすると、その脅えた顔を引き寄せた。
「この痴れ者が。儂が敵より先に、そっ首圧し折ってやろうか」
とたんに小六の動きは人形のように止まったが、今度は体全体が瘧のように震えだした。余りの不甲斐なさに、庄衛門の怒りは収まるどころか、高まる一方で、その手にさらに力をこめたが、小六の震えは何をしようが収まらない。庄衛門は大きく鼻を鳴らすと、苛立たしげに、その手を離した。
その直後、腹に響く太鼓の音がけたたましく、重奏に鳴り響いた。開戦の合図である、押し太鼓である。
庄衛門は小六に対する怒りも忘れて、その華々しい未来へと続くであろう一歩を、今まさに踏み出した。
後方で鳴り響く太鼓の音は、その激しさと速さを増し、否が応にも心を駆り立てる。具足が擦れ合う音と、人馬の足音が地を圧し、地鳴りを巻き起こす。それは庄衛門の眼前でも同じだった。こちらの動きに呼応するかのように、敵軍が進軍を開始したのだ。
その距離は瞬く間に縮まり、相手の顔が認識できる頃になると、ほぼ同時に双方の槍が雪崩の様に降り掛かった。
三間槍は、槍とは言え、突き殺す武器ではない。その長大な長さを利用し、相手に上から叩き付けるのである。
庄衛門の膂力は並の男の三人分と言われている。その長さゆえに扱い辛い槍をまるで小枝のように揮い、相手の得物を二本三本と叩き落としてゆく。庄衛門は自分の働きに酔っていた。得物の次は、まさしく獲物、すなわち敵兵の脳天に、己の槍先を叩きつけるだけだった。
庄衛門が、無造作に相手との距離を詰めようと、歩みを進めたその時、庄衛門の視界は光で一杯となった。次の瞬間、脳天に鈍い痛みが広がり、一度に全身の力が抜けた。
意識はぼんやりと有るものの、体のほうは痺れて、使い物になりそうに無かった。倒れた庄衛門の背には、敵味方の槍が襲い掛かり、体に次々と痛みが走った。
こんな筈ではなかった−
悔恨の念が頭をよぎる庄衛門の、やや薄暗くなった視界の先に、見覚えのある足ごしらえが映った。小心者らしく、念には念を入れて幾重も結び目を作った不細工な武者草鞋は、小心者らしい小六の物に間違いは無かった。
小六は庄衛門とは違い、まだ大地に足を踏みしめていた。
自信に満ち溢れ、三人力と持て囃された庄衛門が地べたに這い蹲り、臆病者で、組の恥部とまで言われた小六がいまだ五体満足とは、滑稽と言うより他はなかった。
薄れ行く意識の中で、庄衛門は戦に赴く前に、村の住職が言った言葉を思い出していた。
敵を知り、己を知らば、百戦危うからず−
所詮、己の自信等と言うものは、驕りに過ぎずなかったのだ。庄衛門は己を知らず、小六は臆病者という己を知っているからこそ、今もこうして、立っているのだろう。
庄衛門の意識は、己を嘲り笑ったところで、ことりと途切れたのだった。
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