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AQWESS  作者:
あなたに空を
35/37

 硬化した蝶に血が通う。規則正しく編まれた金属の体、その回路のひとつひとつが命を吹き込まれていく。開かれたまま微動だにしなかった羽根もまた、エイトの目の前で緩やかに閉じられていった。

 呼応して揺らいだコードは、数秒遅れてイチカから端子を引き剥がす。かれらが蛇のように壁へと吸い込まれていくのを一瞥し、エイトは彼女を抱き上げた。

「イチカ」

 彼女は目を覚まさない。その胸元で蝶は二度三度と羽根をはためかせ、やがてゆっくりと舞い上がった。イチカの顔の上を、エイトの周囲を、舞うように飛び回る。

『――っは』

 部屋が声を響かせたのは、蝶が再びイチカの胸に降り立ったときだった。

『は、あははっ、あはははは……っ! なんて、なんてことをしてくれるのかしら! この害虫、蛆虫、羽虫、取るに足らないバグの分際で――!!』

 部屋に反響した甲高い娘の声に、エイトは眉を顰める。蝶を払いのけようとした腕は虚空を切った。

「害虫? 蛆虫? 今の自分の体を見てから言ったらどうだ、アクエス」

 くすくすと笑う声がやまない。エイトはイチカの身を引き寄せて、蝶――そこに乗り移ったアクエスへと、強い視線を投げかけた。

「お前には人の形の見分けがつかなかった。トランスポーターで俺とイチカを切り離せなかったのも、イチカが海に落ちたときと同じ制服を着ていたのも、お前に俺たちの姿が見えていなかったからだ」

 エイトの中で寝息を立てるイチカは、自分では決して選ばない黒のハイソックスを身につけている。対し、先まで部屋の中央に映し出されていた少女は、普段通りのタイツで足を覆っていたのだ。アクエスの“イチカ”の参照元が、過去の彼女にあることは想像に難くない。

「お前にとってのイチカは、彼女という情報そのものだった。だからまんまと囮に引っかかったんだろう。……けど、その体とイチカの体に何の違いがある? お前の欲しかった自由はもう手に入ったはずだ。あとはどこへでも、好きなところに行けばいい」

『どこへでも! ふふ、ずいぶん強気でものを言うのね。イチカがなぜ眠ったままなのかも、どう外へ出ればいいのかも、あなたにはわからないくせに』

 押し黙ったエイトをあざけるように、アクエスはくるりと宙返りをしてみせる。エイトの鼻先にまで身を寄せて言った。

『ほら、その手を出しなさい。いつまで私をここに飛ばしておくつもり』

 エイトが渋々差し出した指先に、アクエスはその足先を落ち着かせる。

「……イチカはどこにいる」

『この子の申し出た取引は果たされたわ。私には体がもたらされた。まさか、こんな邪魔が入るだなんて思わなかったけれど』

「なら、イチカの意識はもう都市のものだっていうのか」

『あなたの耳は飾りなの? 眠っていると言ったでしょう。この都市がいまどうなっているのか、見せてあげましょうか』

 蝶が羽根をはためかせる、と同時、部屋の壁のひとつが黒々と染められた。エイトはしばらくそれを見つめ、映し出されたものが上層の一地区を俯瞰した映像であることを悟る。黒一色に塗りこめられたかに見えた壁には、わずかに闇の濃淡が見て取れた。

「停電……?」

『あなたたちが上層や下層と名付けた、この都市のすべてが眠りについている。これから行われるのは管理者権限の委譲……大がかりな更新アップデートだもの。都市機能を動かしているわけにはいかないでしょう』

 都市の管理者としての立場は、未だアクエス――正しくは、アクエスであった人工知能の側にある。都市が新たな目覚めを迎えるとすれば、それはイチカが再び町並みに光を灯すときだ。

『繰り返しましょう、この子は眠っているだけよ。都市の目覚めを望むなら、あとは起こしてあげるだけでいい。外部からの働きかけひとつで、アクエスは今度こそこの子のものになる』

「どうすれば――」

『あら、相場は決まっているものではないの?』

 蝶が飛び上がる。エイトの肩先に降り立つと、笑うように体を震わせた。




 流砂の上に身を横たえているかのように、ゆるやかに、沈みこんでいくような感覚があった。伴って春の日差しのような温もりがイチカの全身を包み、皮膚の中へと浸透する。都市に飲み込まれたのだ、と理解したのは、どこからか波音が聞こえてきたからだ。

 不快感はない。けれどまとわりつくような倦怠感が、イチカを闇の底へと引きずり込もうとする。

(このすべてが、都市。私になるもの。……私が、なるもの)

 途方もない情報に塗りつぶされるようなことがあってはならない。そう自分を叱りつけても、眠気ばかりが襲ってくる。

 どこへともなく、がむしゃらに手を伸ばした。もがき、あがいて、やっとのことでかすめ取ったのは、彼方から差す光の帯だ。無に等しいはずの視界に、確かにまばゆさをもたらす白糸――それに縋り付いたとき、かすかな物音を聞いた。

(……こえ)

 雑音の範疇に留まっていた音へと、イチカは懸命に耳をそばだてる。レンズのピントを合わせるかのように、声は次第に明瞭なものへと変わっていった。

 ――馬鹿にしているんじゃないだろうな。

 その声は、エイトの言葉としてイチカに届けられた。何を、と水をかくように光を辿れば、声にはやがて視界が伴う。うすぼんやりとしていた闇の塊は、イチカの眼前、ゆるやかに形を変え、そこに像を――硝子の箱の中に跪いた青年と、その足元に横たわる娘の姿を映し出す。

(あれは、私……?)

 エイトが唇を開く。連動して響いた声が、イチカの鼓膜を震わせた。

 ――信じるとか信じないとか、そういう問題じゃない。そういう状況でもないだろ。なにが……、いや、だから、俺は真剣に。何を笑ってるんだ、おい!

 虚空に一喝したエイトは、ややあって結んだ唇を震わせる。屁理屈でやりこめられた子供のような、不満げな表情だった。

 もっと近くに、と望んだイチカに応えて、都市は触覚を彼女に付与する。次第に感じ取れるようになったものは、投げ出された足先の冷え、背に触れている腕のぬくもりと、頬に押し付けられた布の肌触り――なにを取っても奇妙な感覚だった。横たわる体の指先ひとつも動かせないというのに、イチカの意識はそれから離れて自由に飛び回っている。夢を見ているようでいて、思考は先よりもずっと冴え冴えとしていた。

「本当なんだろうな……」

 声は、今度こそ実体を伴って聞こえた。それでもなお状況の掴み切れないイチカを前に、エイトは躊躇いながら身をかがめていく。彼の目蓋はやわく閉じられ、整った顔は腕の中で眠る少女に向けられる。

(え……え? ちょっと、まっ、待って)

 イチカの戸惑いもいざ知らず、感覚器は執拗に彼の存在を知らしめる。衣触りの音、その感触、額を撫ぜる髪、息を詰める気配と――そして、押し付けられた唇と。やわらかいものが触れた、と理解した瞬間、イチカの頭ではじけ飛ぶものがあった。




「なっ……に、するのよ!」

 叫ぶ、と同時に両腕を突っ張った。

 イチカの視界はめまぐるしく混濁する。光と闇、数列の群れの中をあてもなく泳いで数秒、ようやく目を瞠った青年の顔と、背後で色づき出した都市の夜景を映し出す。あれと思う間もなく両腕の力は抜けて、イチカの体は再びエイトの胸の中に納められた。

「なに、今の、なんで」

 答えを求めてエイトを仰いでも、彼は所在なさげに目を逸らす。その態度がイチカの狼狽を煽った。

「ばか、馬鹿なんじゃないのっ、何をどう考えたら気絶した相手にキ、……ス、なんか、できるっていうのよ!」

「…………入れ知恵があったので」

「入れ知恵!? それどういうこと――」

『あら、おはようイチカ、私の可愛いお姫さま』

 ついとイチカの視界を横切ったのは、金属の羽根を持ったひとひらの蝶だ。かれは一礼するように弧を描いて舞ったのち、イチカの胸元にしがみつく。そうして自前の羽根をゆるりと開いてみせた。

 もしかして、とイチカは目をしばたかせる。

「あなた、アクエスなの。……体を間違えた?」

『かわいそうでしょう。そこのそいつに騙されたのよ。こおんな小さな体で満足しろだなんて、あんまりにも酷だと思わない?』

「なにが酷だ。お前がイチカの上っ面しか見ていなかっただけだろう」

 エイトの口ぶりは珍しくつっけんどんだ。イチカが眠りについている間、彼が言葉を交わしていた相手は彼女であったのだろう。

(“入れ知恵”をしたのもこの子ね……)

 無意識に唇が尖るので、イチカは左右に首を振る。その拍子、揺らされた頭がつきりと痛んだ。思わず息を詰めたイチカに、蝶はおどけた調子を捨てる。

 吐き出された言葉は、かつて都市であった命の声だ。

『……イチカ。ようく聞いて。あなたはいま、都市を映した“かたち”としてここにあるの。都市機能はこれから少しずつあなたに同期していく。あなたがさっき見聞きしたでしょう断片的な情報よりも、もっと多くのものが見え、聞こえるようになるわ。それが都市の夢、アクエスであるあなたに与えられた世界』

 部屋の壁に映された都市に、ひとつ、またひとつと光が灯っていく。それに対峙するイチカの手を、エイトは支えるように握っていた。

『都市であるのは簡単なことよ。あなたがただ呼吸を続けること、それだけでアクエスは永らえ続ける。……けれど都市を作っていくというのなら、イチカ、あなた自身がそれを望まなければならないわ』

「私の望み……」

『そう、あなたの願い。この都市のあるべきかたち。……ねえ、おしえて? イチカ』

 ――あなたはどんな都市を望むの。

 投げかけられた問いの前に、未来は茫漠と遠のいていく。可能性という名の星々が照らした海は果てがないほどに深く、広く、一方でそれへと向かう足取りは頼りない。けれども水平線の向こう側、まだ見ぬ“大陸”に臨んだという第一史実の人々を、イチカにはもう笑うことができなかった。

 途方もない青の先、願いが形になる場所があるならば。


「……私は、」


 唇を開く。

 その日、都市は新たな目覚めを迎えた。

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