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AQWESS  作者:
あなたに空を
34/37

 白いハイソックスを履かなくなったのは、それが膨張色だと口にした誰かがいたからだ。

 幼いと称される年ごろを過ぎた少女たちにとって、髪の毛一本ぶんでも足を細く見せることは、成績の良し悪しより重きを置くべき問題だった。白は黒へ、あるいは紺へと――膝丈だったスカートの腰元を折り曲げ、裾をたくし上げることで、女子高生という生き物は作られてきた。イチカをとってもそれは同じだ。因習めいた同調圧力が働いていたことは否めなくとも、従うことは苦ではなかった。

(……白い)

 同様にイチカは知っている。白色がもたらす圧迫感と、息詰まるような閉塞感を。

 REBの換装は白塗りの部屋の中で行われ、施術を終えたイチカにたびたび病室を思い起こさせた。体を壊した経験のないイチカにとって病室は友人を見舞いに行く場所でしかなかったが、過ぎた清潔感と目を焼くような白に、避けて通るに十分な恐怖を与えられたことを憶えている。

 その白が、目の前にある。

 部屋は完全な立方体をしていた。壁や天井、床は間接照明を埋め込んだかのようにやわく発光しているらしい。イチカの過ごした教室と同程度の広さを持つものの、中にはひとつの影もない。椅子も、机も、それどころか埃や砂の一粒さえも認めることはできなかった。

 真白に保たれた一室に、イチカとエイトだけが色を落とす。そのことが、異物として放り出されたかのような疎外感をイチカの胸に湧かせていた。

「エイト、……エイト」

 イチカの手を握ったきり、彼は気を失っていた。腕を揺すっても目を覚ます気配はない。けれどもその呼吸が一定に保たれていることを確認して、イチカは座り込んだまま、ひとまず息をつく。

「アクエス、そこにいるの」

 問いながら、馬鹿げたことを口にしている自覚があった。

 都市であるアクエスに実体はない。彼女は幾重もの電子回路の間をたゆたう意思、水面に揺れる光にも等しいものだ。イチカが唇を引き結ぶ傍ら、白い部屋の半ばに、おもむろに青い光が立ち現れる。上下左右の平面から照射された光線が残した軌跡は、そこに少女の形を作り上げた。イチカは引きつった笑みでそれを迎える。

「……いい趣味じゃない。私を真似したつもり?」

『可愛いでしょう、私のイチカ。形も声もそっくりのはずよ』

 イチカの前で笑っているのは、彼女と瓜二つの少女だった。高校指定のカーディガン、第二ボタンまでを開いたブラウス、膝上に揺れるプリーツスカートと、その下に覗いた薄手のタイツ。鏡の中に見慣れた顔は、しかし彼女の浮かべることはない素直な笑みを返してみせる。

『ああ、イチカ! やっとあなたに会えた! ここに来てくれるのをずっと待っていたの。海に落ちたあなたを見つけてからの時間は、私にとってもずっと長いものだったのよ』

「……私もよ、アクエス。あなたに会いたかった」

『ふふ、本当はイチカとふたりきりで話がしたかったのだけど、余分なものを連れてきてしまったのね。まだ人を見分けるのは難しいみたい』

 少女の姿は視点の置き場としてそこにあるだけに過ぎないのだろう。アクエスの言葉は壁を起点として反響し、イチカのもとに届けられていた。

 同様に都市の目や耳は部屋そのものにあって、少女に付属するわけではない。全身を舐めまわされるような居心地の悪さに、イチカは小さく身じろぎをした。

「もう一度だけお願いするわ。下層から水を引いてちょうだい。都市であるあなたならできるはずでしょう」

『都市は人の願いに応えるものよ。人の手が私に届ける命令を、私はずっと聞き入れてきた……そのために作られ、こうして存在しているのだもの』

「口約束では聞き入れられない?」

『あなたの声と人の命令こえは違うわ』

 強情の裏に潜んだ下心を感じ取るには十分だった。イチカは「そう」とひとつ息をつく。立ち上がろうとしたところでエイトの掌を意識した。浮かび上がらせた尻を再び床に下ろし、改めて少女の映像を見据える。

「アクエス。私と取引をしましょう」

 少女の唇が弧を描く。それだけで彼女の顔は、仮面じみた虚ろさを宿した。

『可愛いイチカ、あなたが私に何をくれると言うの?』

「“私”をあげるわ。外に出ていくための体を」

 アクエスの像が目を細める。その反応に確信を得た。

 海に落ちたイチカをアクエスが救ったのは、体を運搬するための操舵主をそこに残しておくためだった。アクエスはイチカという意思を認識し、彼女に自分を認識させることで、都市の根幹が置かれたこの部屋までREBの体を運ばせようとしたのだ。

 ひととき置かれた沈黙は、イチカの言葉を待つためのものだった。間違うな、と自らに言い聞かせて、イチカは乾いた唇を開く。

「あなたに空を――体をあげる。だからアクエス、この都市を私にちょうだい」

 哄笑が降る。幼子のようにも老婆のようにも受け取れる声でひとしきり笑い終えたのち、少女の像はくるりとその場で身を翻した。

「わがままな子。いいでしょう、あなたに私をあげる。あなたと私の一番欲しいもの、ここで交換をしましょう」

 つないだまま放った手が、強く握られたような気がした。イチカはなだめるようにそれを握り返してから、アクエスに頷きを返す。うなじにあるREB端子の接続部が、ちりちりと熱を帯びるようだった。

(都市、アクエス)

 長く籠められ続けた彼女の意志が、興奮に打ち震えているのを感じ取る。イチカは黙って目蓋を下ろす。ほどなく後頭部に小さな衝撃を受けて、体の力が抜けていった。


   *


「……デコイ?」

 そう尋ね返したことは、まだエイトの記憶に新しい。

 捕らわれたイチカを探し、REB換装を担う施術所に乗り込んだときのことだ。襲撃を受けるとは夢にも思わなかったのだろう、一人二人の警備員は軽々と取り押さえられ、施設はレイシの指示の下、端から占拠されていった。

 彼に従って飛び込んだのは立ち並ぶ施術室のうちのひとつだ。そこには眠りについたイチカの体と、彼女の傍らに佇むひとりの技師の姿があった。降伏の姿勢を示した技師は、やむなしと施術の進行の度合いを明かしたのだった。

「そう、デコイ……正確には、そのようなもの、と言うべきだろう。私たちが一卵性の双子に攪乱されるように、機器は同一の情報に騙される。複写した個人の情報は、ならば十分囮としての役割を果たすだろうということだ。むろんこれはあくまで仮説、REBで試みたことはないけれどね」

 銃口を向けられながらも、技師はさほど怯える様子を見せなかった。それどころか幾分かほっとした様子で両手を掲げ、求められたとおりに説明を行うのだ。まるで阻止されることを望んでいたかのような、良心の呵責と相対していたふりをするかのような彼の態度が、エイトにとってはことさらに不愉快だった。

「それを作って、なにをしようというんですか」

「イチカの中身そのものを別の器に入れ替えろ、というのが上のお達しでね。おそらく彼女のそれが複製不可能のものであるとでも思い込んでいるんだろう」

 嘘っぱちだよ、と技師は首を振る。力の抜けた声には、彼の達観が現れていた。

「代わりはいくらでも作れる。原型になるひとつを用意したら、あとはそれをなぞるように情報を組み上げてやるだけだ。それを止めたのが法律であり、過去“大樹”に顔を並べた人々であったわけだが」

「あなたはそれを行ったと?」

「イチカの標本が欲しいのなら、複製品をくれてやれば十分だろうからね。意思を失くしたカタログだけを。アクエスが見つめているのは、イチカの輪郭に過ぎないのだから……なあきみ」

 技師は声を落とす。影の落ちた瞳でエイトを見つめ、問いかけた。

「きみは一体、何が欲しい? ……何を求める?」




 ――この都市を私にちょうだい。

 茫洋とした意識の彼方、凛と発された声を聞いた。

 体はひどく重い。トランスポーターを渡る際、ひどく打ち付けられたに違いない。イチカがエイトを伴っていたことは、アクエスにとっても予想の範囲外であったのだろうと思わされた。

 だが小さな害虫一匹を放り置いても、彼女の望みは叶えられる。あたかも大樹の議員たちが、下層を切り捨てて上層の繁栄を得ようとしたように、だ。

 凝り固まった胸に、エイトはやっとのことで酸素を送り込む。薄目を開けば、差すような光が視界に飛び込んできた。

 帰ってくると言った。

 傍にいてほしいと言った。

 曖昧に曇った真実によって、イチカの思惑は覆い隠される。身に覚えのあるやり口だった。それも当然、ほかでもないエイトが、彼女を攫いだすために使った手だ。決して嘘は言わない――言えない。そうすれば胸は痛まない。けれども懇願はあまりに一方的だ。

(都市として生きて、俺たちを見守って。それで満足なのか)

 白塗りの壁から這いだした端子が、イチカの後頭部に接続される。ぐったりと虚脱した彼女の体を、コードたちは壊れ物を扱うように横たえた。

(触れ合えなくても、声を交わせなくても、憶えていてくれればいいだなんて、また自分を抑え付けて、妥協して)

 そうして当の本人が、自身の残酷さに気付いていない。エイトは歯を食いしばり、床に空の手をついた。表情の削ぎ落された顔、投げ出された四肢、薄い呼吸を繰り返すばかりの少女の体――霞がかった自分の視界に、イチカの姿を閉じ込める。

「イチカ、俺はあなたが欲しい」

 つないだ手と手の指を絡める。祈りの形を取ったてのひらに、イチカの力がこもらなくとも。

「あなたがあなただと言うものすべて、なにもかも。俺は誰にも渡さない。相手が都市であったとしても」

 威嚇するようにうねるコードたちを一睨みし、エイトはイチカの胸元に視線を下ろした。羽根を開いて凍り付いたままの金属の蝶に触れれば、ひやりとした感触が返る。ほうと息をついた。

 眠りについているのは蝶も同じだ。イチカの写し身として作られた機械虫は、起動しない限りただのブローチと変わらない。エイトは技師の言葉を思い出し、手の上で踊らされたかのような不快感を唾と共に飲み込んだ。

 そうしてひとつ口にする。


「……再起動リバース


 そう、赤子に名前を与えるかのように。


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