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AQWESS  作者:
「今」のためのこれから
28/37

 円柱状の一部屋には、肌をひりつかせるほどの冷え切った空気がとどまっていた。壁面に設置されたディスプレイに光はない。かろうじて点灯した頭上のライトも、どこかとぼけたようにうつろな明度を放っている。本来人数を収納することを想定していないのだろう、イチカが踏み入れた管制室は、五歩も進めば横切れてしまう一室だった。

 イチカは思わず呼吸を詰める。自分の息遣いまで反響していくようで、腹には自然と力がこもった。

「今まで何度もアクエスの声を聞いていたの。こんなことを言うと、笑われるかもしれないけど」

 ディスプレイに向かう椅子の背もたれに、イチカはそっと片手を置く。

「子供のころ、一度海で溺れたことがあって……きっとそのときからだわ。あなたから逃げようとしてアクアに落ちたときも、下層で海に飛び込んだときにも、女の人の声が聞こえたの。ずっと、歌うように私を呼んでいた」

 誰のものであるのかさえ明らかでなかった歌声に、恐怖を覚えなかったと言えば嘘になる。しかしその一方で、空っぽになった胸が満たされるような心地でいたことも事実であった。それも当然、彼女はただ、イチカだけを乞い続けていたのだ。

「都市はなにを?」

「空をちょうだいって言ってた。どういうことだかさっぱりだったけど、今ならわかるような気がする」

 ディスプレイに指先を走らせる。うっすらと積もった埃の膜を割き、一本の軌跡が走っていった。

「あの子、ずっと海の底にいたんだわ。上層でも下層でもない、誰の手も届かない、そんな海の底に」

 流れ星を落とすように掌を操作盤へ。椅子の手前に設置された制御端末がイチカに呼応して電子音を発した。浮かび上がった冷たい光は、幾百のキーの輪郭をひとつひとつなぞりながら伝播する。かれらは一室を包み込んで、あたかも星のように、あるいは太陽を溶かしたあぶくのように瞬いていた。

「アクエス」

 呼びかける。

 軽やかな笑声がイチカの鼓膜の上を転がっていった。

『なあに、イチカ』

 スピーカーから吐き出された声に伴って、ディスプレイがゆるやかに像を結ぶ。イチカは既視感に唇を噛んだ。水底を視点として映し出されているのは、はるか彼方に揺れる水面だ。

 イチカはそろりと背後を振り向き、エイトが天井を仰いでいるのを確かめる。どうやら今度こそ彼にも聞こえたらしい、と息をついた。独り言を訝られないだけでも十分だ。

「あなたの名前が呼べて嬉しいわ。一度だって教えてはくれなかったから」

『私がアクエスになったのは、まだほんの少し前のことでしかないもの。けれどあなたがそう呼ぶのなら、私はきっとアクエスなのね』

 彼女の示す“ほんの少し”が、人に適用されるはずもない。都市の機構が現代の技術で論じきれない以上、彼女自身の誕生が第一史実――すでに滅びた文明によってもたらされたものである可能性も否定しきれないのだ。彼女に名を付けたのが都市を作った人々であったとすれば、アクエスの成立を探るには千年単位の時を遡ることになる。

「あなたはずっとそこにいたの」

『ええ。イチカが生まれる、ずっと前から』

 アクエスは歌うように言い、声が聞こえるの、と続ける。

『人が生まれ、死ぬ、その情報こえが、海を伝って私に届く。私を構築した人たちが皆いなくなってしまったことも、この海が教えてくれたわ。それから長い長い沈黙があって、ひとりぼっちになった私に声をかけたのは、一体誰だったのかしら? ……きっと彼も、彼女も、もういなくなってしまったのでしょうね。代わりにたくさんの声が聞こえてきて、海はまたにぎやかになった』

 昔語りとして紡がれる歴史の重みに、イチカはめまいを感じていた。

 彼女は第一史実の終末を越え、第二史実の黎明を見たのだ。海の底に彼女を見つけた者たちが大規模な都市を作り出し、そこにアクエスの名を与えた。都市の核として再び見いだされた彼女は、それでもなお海の底から解き放たれることはなかったのだろう。

 滅んだ文明の生きた遺構、都市の根源にして海の主――それがアクエス、意志を与えられた作り物だった。人々は彼女を海に沈めたまま、都市の建設を続けてきたのだ。

「私に力をくれたのもあなたね」

 イチカは慎重に問いかける。くすくすと笑い声が降った。

『力だなんて。イチカが呼んでいるから、私への道を開いてあげているだけよ』

「どうして私を選んだの」

『何度も私に会いに来てくれた。それだけでじゅうぶんでしょう?』

「海に落ちる人間なんて、ほかにもいたはずだわ。私でなくてもいい」

 たとえば、繰り返し海に飛び込んでいたというエイトのように。助けを求めて振り返るも、彼は神妙な表情で目を伏せている。しばらくの無言の後、おもむろに口を開いた。

「イチカがREB、……機械の体を持っていたから」

 イチカははっと息をのむ。スピーカー越しの含み笑いが答えだった。エイトは天井を見上げ、再び口を開く。

「あなたの声は人の体には届かない。俺がたった今、スピーカーを媒介することで初めて会話を行っているのが証拠です。でもイチカに対しては違う。海から“声”……電子情報を聞き取っていたように、REBの体からなら個人情報を読み取ることもできた。だから海という回路を伝って、イチカに呼びかけ続けていたんでしょう」

 REBが海に落ちることは、人が酸のプールに沈むも同じことだとされていた。REB技術が誕生して以来、口うるさいほどの注意喚起を行っていたのは誰だったか、と考えて、イチカは唇を噛む。

(保健管理委員会。議会の直轄機関だわ)

 しかし三度の水没を経験したイチカの体に、死に至るほどの影響が出たことはない。それも偶然ではないのだろう。

「海がREBに障るだなんて、議会の流させた嘘なのね。上層議会は最初からアクエスの居場所を知っていた。だから市民は海へ潜ることを禁止されたんだわ」

 誰も――下層の人間、ひいては他の市民が、まかり間違ってもアクエスに触れることのないように。彼女を海の底に沈め続け、都市の存続を図るために、だ。イチカの出した答えに、アクエスは沈黙を保つ。「待った」と口をはさんだのはエイトだった。

「上層議員がアクエスを探していたわけじゃないなら、下層との協約を結ぶ必要はどこにあったんです?」

 首をひねったイチカに視線を返し、思い出してください、とエイトは続ける。

「下層が協約を呑んだのは、そのかけ橋として選ばれた相手がイチカだったからでしょう。俺たちの目的はイチカを下層に誘拐して、アクエスの居場所を探り出すことにあった。……なら上層は? 一度アクエスと繋がってしまったイチカを差し出してまで、下層とのコンタクトを取った理由は」

『イチカ』

 遮って、アクエスが呼びかける。

 放り置かれたことに気を害したのかもしれない、とイチカは謝ろうとしたものの、その口は終始開くことのないままだった。かしましい着信音が、すぐにエイトの端末から発せられたからだ。

 イチカは咄嗟に自分の端末を取り上げる。尾行を避けるためにと電源を落としていたはずの液晶が、素知らぬ顔で操作画面を立ち上げていた。

 驚くべきはそれだけではない。そもそも水面下に立つトランスポーターに電波の類は届かないはずなのだ。イチカの動揺をからかうように、ディスプレイの水面がさざめきを見せる。

『機械を通さないと言葉を交わせないなんて。まるで私とイチカのようね。可哀想、ふふ』

 アクエスが電波を繋いだことは明らかだった。エイトの険しい目を受け止めて、イチカは一度だけうなずいてみせる。

 エイトは端末に操作を加えてから耳元にあてがった。すぐに管制室に漏れ出した雑音は、彼の端末から発せられたものだ。

『エイトか』

 押し殺された声には聞き覚えがあった。肩を揺らしたイチカに代わり、タカキ、とエイトが友人の名を呼ぶ。

『今どこにいる?』

「上層のトランスポーター。イチカを探しに来た場所だよ、そっちが憶えているかわからないけど」

『ああ……なら、とにかく下層にはいないんだな。よかった』

 叩きつけるような環境音に混じり、荒々しい足音と怒声が届く。エイトが顔をしかめた。

「なにかあったのか」

『ニュースになってないのか? 下層の水面がどんどん上がってきているんだ。もう数日もしないうちに、ここは完全に海に沈むって』

 エイトの目が見開かれる。誰が、と吐き出された問いは掠れていた。

『さあな。ただ、トランスポーターはきっちり封鎖されたままだ。今度は上層の側が、俺たちの避難を拒んでいるんだとさ』

「ぜんぶ父さんたちが……?」

 思い当たる節はある。イチカを奪還すべく救出部隊が下ろされたときのことだ。議員の密命を受けた部隊の一員は、混乱を利用して下層へ潜りこんだのだろう。

『お嬢様もそこにいるのか。なら――』彼はそこで口をつぐむ。一呼吸の後に苦笑した。『いや、なんでもない。とにかくエイト、お前はそっちにいた方がいい。海に潜ったりするんじゃねえぞ、いいな』

「タカキ」

『……罰が当たっただけさ。上に行こうだなんて変なこと考えずに、ここで満足していればよかったんだ、俺たちは』

 声が途切れる。エイトは小さく毒づくも、イチカを一瞥して口をつぐんだ。

(最初からこれを狙っていたっていうの)

 だとすれば、高校への襲撃が行われた際、警察がみすみす犯行グループを逃がしたことにも納得がいく。リスクを承知でイチカを送り出したのは、下層の崩壊を目論む上層議員の指示であったのだ。イチカは縋るようにディスプレイを見上げた。

「アクエス、あなたの力で止められないの」

『沈めてほしいと願ったのは人のほうでしょう。都市はそれに応えているだけよ。あるべき姿に戻ろうとしているだけのことじゃない、おかしなイチカ』

「アクエス!」

『ねえイチカ、どうして人はその体にこだわるの? 呼吸をしなければならないの、海の底にはいられないの? あなたたちが私のもとに来てくれるなら、私だってイチカだけに頼らずに済むというのに』

 そうでしょう、と問う、アクエスの声はあくまでも無垢だ。人の生が、死が情報に帰される限り、彼女が命を質量としてとらえることはないのだろう。

「あなたと同じよ」

 イチカはこぶしを震わせる。明滅を始めるディスプレイを、渾身の力で睨みつけた。

「声を上げなくちゃ、声を聞かなくちゃ、そこに誰かがいることに気付けなかった。だから私たちは空の下にいるのよ、アクエス。寂しくてたまらなかったから!」

 届かないと知っていても、どんなに呼吸が苦しくとも、それでも叫んでいたかった。誰かを呼んでいたかったのだ。そうでなければ、忍び込んでくる孤独に耐えられなかった。

『それなら、イチカ。都市をすべて海に沈めてしまったら、あなたは今度こそ、私のところに来てくれるのかしら……?』

 つぶやきを最後に、管制室の照明が落ちる。イチカもまた、吊る糸を切られたかのようにその場に崩れ落ちた。そうしてしばらく、一言として発することができなかった。

 自分を支えてきたものが、ひとつずつ、音を立てて砕けていくのを感じていた。冷え切った床はイチカの膝から体温を奪っていく。静けさが寒さを伴うことを、揺さぶられるようにして思い出した。

 エイトが傍らにかがみこむ。しかしイチカの名前を呼んだきり、一直線に唇をつぐんでしまった。彼もまた視界を閉ざされたことに違いはないのだ。イチカは力なく膝を抱え、息をついた。

「どうすればいいの……」

 ディスプレイは沈黙し、答えを返さない。アクエスがそれ以上の対話を無駄と判断したのだろう。彼女からの接続が途絶えてしまえば、受け取る側でしかないイチカには、それを繋ぎ止めておく手立てがない。

 関係はすがすがしいまでに一方通行だった。それを今になって気付かされ、イチカは歯噛みする。

「……座っていられないわ。ことは下層だけの問題じゃないもの」

 アクエスの目的はイチカを自分のもとへ招きよせることだった。下層を海に沈めようとする上層の目論見に手を貸したのも、イチカの逃げ道を塞ぐためでしかない。一度それを成し遂げてしまえば、今度は上層に水を流し込むことさえ辞しはしないのだ。

 イチカはエイトの手を借り、やっとのことで立ち上がる。そうして端末の画面をにらみつけた。

「他のトランスポーター、は駄目ね。使わせてくれるわけがない。下層の人たちを退避させるなら、今から兄さんに頼み込むんじゃ時間がかかりすぎる」

「……イチカ」

 気遣わしげなエイトの声に、イチカはこわばった笑みを返す。

 自己問答を重ねるまでもない――頼る先など、初めからひとつしかなかったのだ。イチカは鋭く息を吐き出すと、端末を握る手に力を込める。

「犠牲になるつもりはないわ。助けに来て。……約束」

 エイトがうなずくまでに、数秒の間もいらなかった。それで十分だ。イチカは彼を管制室に残し、早足でトランスポーターを出る。中天を過ぎた太陽は、今から少しずつ空を歩み下りようとするところだった。

 端末には長く眠りについたままの連絡先がある。登録してこの方、使ったことのなかった番号だ。操作画面を立ち上げ、それを手元に引き出したところで、イチカは一度だけ躊躇する。

 ――すう、と。

 息を吸って、吐き出した。

 端末を耳に寄せる。何度かの呼び出し音の果てに、『イチカ』と返す声を聞いた。それだけで震えかける指先を、イチカは固く握って抑え込む。

「父さん、話があるの。今からひとりで“大樹”に行きます。……迎えに来て」

 返事は聞かないままで通話を切る。

 目を背けたはずの胸の片隅が、思い出したようにじくりと痛んだ。

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