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AQWESS  作者:
プラスチックに噛みついて
24/37

 愛想程度にシーツの敷かれた硬いベッド、ぬくもりの一端も感じさせない金属質な天井。目を覚ましてしばらく、イチカは呆けたままで呼吸を繰り返していた。仮眠室だ、と悟ることができたのは、過去にも何度かそこを訪れたことがあったためだ。

 上層に居を置く警察署が内蔵した、いくつもの仮眠室のうちのひとつ。幼少のころ、海に落ちて意識を失ったイチカが目覚めたのもその部屋だった。公共の一室とはいえ、ほとんどレイシが独占しているようなものなのだろう、他の仮眠室に積み重なりがちな私物の数々も見て取ることはできなかった。

(兄さん、か)

 細く息を吐き出して、眠りにつく前のことを思う。

 ほの暗い下層を照らし出した、目を焼くほどのライトの光を覚えている。けれどもその持ち主までを視界に映した記憶が、イチカの頭の中にはなかった。岸辺にたどり着いたふたりを見つけ出したのが上層の手の者であったのか、はたまた下層の手の者であったのかの判断もつけられないままで、意識は闇に振り落とされたのだった。

 下層の人間に取り押さえられたとすれば、監禁用の一室に再度籠め直されていたのだろう。一方それが上層だったなら、ふたたび自宅に連れ戻されるだけのことだとばかり思い込んでいた。

 しかし、現状は。

(警察の仮眠室……家に帰すつもりはないってことかしら)

 思えば当然のことだった。元通りの日常を遅らせようものなら、いつ何時下層の人間に目をつけられるかも定かではないのだ。

 イチカは腹に手を置いて、ひとつ深呼吸をする。選んだことだ、と自分に言い聞かせた。

 ――無理を通すなら、伴う対価まで背負ってこそだ、と。

 踏ん切りをつけて起き上がる。仮眠室に備え付けられているのは、ひとつのベッドと連絡用の端末機器、そして簡素なテーブルと、それに寄り添うように並べられた椅子がふたつのみだ。

 片方の椅子にエイトの姿を認めて、イチカはほっと息をつく。彼はテーブルに突っ伏したまま、静かに寝息を立てていた。

 腕の隙間からうかがえる寝顔には、濃い疲労の色がにじんでいる。イチカは躊躇したすえ、結局彼の肩に手を置いた。揺さぶって、呼びかける。

「エイト。ねえ、起きて」

 長い睫毛がうっすらと浮かび上がる。何度かの瞬きと息の詰まるほどの沈黙ののち、エイトは重たげに顔を上げた。

 霞がかった眼差しに、イチカを収めてしばらく。

 仮眠室の照明が、ようやくエイトの瞳の中に映りこむ。

「……イチカ」

 確かめるように名前を含んだ口は、言葉の続きを見つけられないまま、わずかに開閉する。直後、彼の唇は一直線に結ばれた。

 そうしてこらえられた衝動の余波が、イチカの胸を突いていく。けれどもふと我に返り、二度ずつ自分の両耳を叩いて、手ごたえのないことを確認してから息をついた。エイトが目をしばたかせる。

「イチカ?」

「気にしないで。……ちょっと、聞き耳を立てる虫がいないか確認しただけ」

 どうやらカナメは役目を果たして、イチカの傍を離れていったらしい。絶えず鼓膜を揺らしていた羽音がなくなれば、他人の声もはっきりと届くようになる。

 せいせいしたわ、と一度唇を尖らせてから、イチカはエイトに向き直った。

「警察に投降したのね」

 問えば、エイトは首を縦に振る。

「イチカがどこまで覚えているのかわかりませんが……最初に俺たちを見つけたのは、イチカのお兄さん――八神警視が指揮を執っていた突入部隊のひとりでした。すぐに本人が駆けつけて、俺たちを捕らえるようにと命令を」

「あなたはそれに従って?」

「はい。下層の人間に比べればまだ信頼が置けたのと、なによりイチカの休める場所が必要だったので。それから……これは後付けの理由ですが、八神警視は、上層議員ともいくらか距離を置いているようでした。数日は俺たちをここに留め置くつもりだそうです」

「兄さんが……」

 兄妹の情ではないのだろう、とイチカはレイシの面影を記憶にたどる。おそらくはより公的な、一警察官の判断によるものだ。その目論見までは定かではないが、上層や下層から一定の距離が置けたことについては不幸中の幸いといっていい。

 イチカは思考に歯止めをかけて、険を宿しかけた表情をゆるめる。

「ありがとう。丸投げしておいてなんだけど、あなたに任せてよかった」

 エイトが目を丸くする。なに、と問いかければ、彼は曖昧に笑って見せた。

「まさか、イチカにお礼を言われるとは思いませんでした。責められるならまだしも」

「もう十分責めてやったでしょう。横っ面をひっぱたいて、唇を噛み切って。これ以上何をしろっていうのよ。鬱憤は晴らしたし、私にそういう趣味はないわ」

 言い切ってから、イチカは鼻を鳴らす。

 何事か言おうとしたエイトも、結局言葉にすることはできなかったようだった。しまいには眉尻を下げる。

「そう、ですか。……うん、そうでした」

 わがままを通した子供を見るような顔に、イチカが文句をつけようとしたのもつかの間。前触れもなく開かれた扉から、二つの人影が姿を現した。

 ひとりはイチカの兄、八神礼志。相も変わらず鉄面皮に覆われた顔で、イチカとエイトとをそれぞれ一瞥していく。

 その背に並んでいたのは、イチカにも見覚えのある女性だった。鋭い印象の美人――イチカが自宅で顔を合わせたことのある相手だ。ならば彼女が要志鶴、下層で再三言葉を交わした兄の部下なのだろうと見当をつける。肩にかからないようにと切りそろえられた黒髪が、イチカの目の前でさらりと揺れた。

「イチカ」

 呼んだのはレイシだ。

「状況は理解しているな。お前たちの身柄は今、警察で預かっている」

「……兄さんの独断で、が頭につくんじゃないの」

 空気がぱちりと弾けるのを、イチカ自身も感じていた。カナメが目を逸らし、エイトが身を固くする。切り込んだイチカと言葉を受けたレイシだけが、しばらく互いをねめつけていた。

 レイシはひとつ息をつき、頷く。

「その通りだ。上下層の議会からは繰り返し解放が求められている。それに従ってお前たちを引き渡すことを、解放と呼ぶかは甚だ疑問だがな」

 今度はイチカが面食らう番だった。レイシに無言で眉を寄せられるので、なるほど兄妹には違いない、と先の自分の言動を思い出すこととなる。

「そんな冗談を言うとは思わなかっただけ。続けて」

「冗談も何もない。本心だ」一本調子で答えたのち、レイシは腕を組む。「警察内部でも、役の上下を問わず対立が起こっている。不要な問題を起こしたくないならあまり外を出歩くな」

「兄さんはどうするつもりなの」

 イチカは問いかけてから、ちら、とエイトを見やる。添える形で口を開いた。

「下層で自分のことを聞かされたでしょう。都市の中枢に近付くために、上層も、下層も、私を――セキュリティへの優越権を求めている。そうやってお互いを食い潰そうとしているって。兄さんはどこまでを知っていて、これからどうするつもりでいるの」

 兄に自身の体質のことを伝えた記憶はなかった。だがカナメの通信を通じて、下層の目論見の最たる部分は知らされているはずだ。その上でイチカをかくまうのであれば、彼の思惑を疑わないことには気が置けなかった。

 レイシは数秒の沈黙を置いて、そうだな、と呟く。

「警察は司法組織として存在している。上層と下層の対立に干渉することは管轄外だ。警察官の義務は、一に市民の生活を保障すること、危害から市民を保護することにある」

「わかっているわよ、そんなこと」

「理解していないから言っているんだ。警察はアクエスに住むすべての人間を指して市民と呼ぶ、そこに上層と下層の別はない。下層市民が上層市民の生活を脅かすのであれば、当然俺たちはそれを食い止める。逆もしかりだ」

「そんな建前なんかじゃなくて――」

「建前が、なぜ理由にならない?」

 あたかも当然のことのように告げられたその問いを、一体どれだけの者が、はばかりなく口にできるというのだろう。

 言葉を飲まずにはいられなかった。それがレイシの胸の奥底から表層までを貫く芯であることを、疑うことなどできなかった。イチカは黙り込んだまま、自分の指先が小さく震えたのを感じているばかりだった。

「政治が未来を勝ち取ろうとするなら、司法は今を守るためにいる。お前を引き渡すことで多数の市民が危険にさらされることが明白である限り、俺は上層にも、下層にも、お前を明け渡すことはしない」

 説明は以上だ。そう締めくくり、レイシはカナメを伴って仮眠室から立ち去った。

 自動扉が駆動音を鳴らし、締め切られるのを目にした後も、イチカはしばらく呆然と立ち尽くしていた。廊を去る足音を耳で追い、それが完全に消え去るのを悟る。

 ――なによ、と。

 漏らしたのは、エイトが探るような瞳をイチカに向けたときだった。

「人を散々放っておいて。妹のことなんか気にもかけなかったくせに、風邪をひいたって心配ひとつしなかったくせに。なにが市民よ、馬鹿じゃないの……」

 指の爪を、きつく、きつく、掌に押し付ける。そうして固く歯を食いしばらなければ、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。けれども寄りかかることだけは、かろうじて残ったイチカの矜持が許さなかったのだ。

 慎重に息を吸い込んで、胸を鎮めるように、震えながら吐き出していく。下手な深呼吸を繰り返してようやく、イチカは肩から力を抜いた。

「悔しい。泣きそうになった」

「イチカ?」

「馬鹿みたい、期待するものが初めから違っていたんだわ。あの人が兄さんじゃなかったら、……ただの知り合いだったら、苦しい思いをしなくてよかったのかもしれないのに」

 エイトに語り掛ける形をとりながら、その実、自分に言い聞かせていた言葉だった。言い切ってから、イチカは軽く首を振る。

「ううん、前言撤回。ただの知り合いでもごめんだわ、あんな不愛想」

 それよりも、とエイトを振り返る。

「兄さんはああ言ったけど、そう安心しているわけにもいかないわね。外がどうなっているかもわからないし、いつまでもかくまってもらえるとは限らないし」

(それに、学校がどうなったかも気になるもの)

 胸中に隠した憂慮を、エイトが読み取ったとも知れなかった。彼は考え込むようにそらを見てから、そのことですが、と声を潜める。

「イチカが目を覚ましたら、渡そうと思っていたものがあったんです」

 エイトがポケットから取り上げたものに、イチカははっと息をのむ。

「私の端末じゃない……! ずっと持っていたの」

「イチカを軟禁している間、俺のほうで預かっていました。それぐらいの介入は許されていたので……八神警視に渡してしまうのもはばかられて」

 イチカは端末を立ち上げると、機能に故障がないことを確かめる。エイトともに海に浸りこそしたものの、防水型であったことが幸いしたのか、不調はどこにも見当たらなかった。

 充電も十分だ。これはエイトの管理のおかげだろうと、イチカは心の中で礼を言う。

 数十通と届いていた通知を辿れば、友人の名前がいくつも見つかった。思わず端末を握る手に力をこめてしまってから、イチカは画面から顔を上げる。

「ねえ、エイト。これがあれば、もしかしたら、外に出られるかもしれない」

「外に? 外で何を」

「知らなきゃいけないことがたくさんあるの。でもそれは、ニュースなんかが教えてくれるものじゃないってわかったから」

 一度、言葉を切る。端末を下ろして、空いた手を握りしめた。

「だから探しに行く。誰かに利用されるんじゃない、怖がって逃げるわけでもない。……私自身が、私を、使うのよ。自分の願いをかなえるために、ね」

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