九、紅茶豆乳
「ねぇ」
「……何?」
「永倉さんのお父さん、自殺したんだって」
「……永倉さん? 誰?」
問いかけてきた石榴石の瞳に僕は微笑んで答える。
「君がこの間殺した同級生」
僕は、オレンジの傘をくるりと回した。
「傘屋の店主だよ」
ぽとり。
「え……」
彼の手から、水色の傘が落ちる。
「僕にこの傘をくれた──君にその傘をくれた、傘屋の店主だよ」
僕も、差していた傘を下ろす。
日暮れと、蒼穹と──二つの空色に散らばった桜が、泣き濡れていた。
◇◇◇
看板を見て、はっとした僕は、店に入って店主を呼んだ。
「どうしたんだい?」
柔らかく問いかけられて、咄嗟に言葉が出ず、口を噤む。
「娘さんと仲良く」……? …………そんなこと、言う資格、ない……
僕はその言葉を胸に押しやり、別なことを言った。
「あ、あの、僕、僕の前に来たっていう、僕に似た子を探しているんです!! 彼がどこに行ったか、聞いていませんか?」
少し強引に、意識を本来の目的に戻す。
店主は虚を衝かれたようにきょとんとし、それから記憶を探っているのか数秒視線をさまよわせたあと、あ、と答えた。
「あの子が来たとき、まだ降りだしてなかったから、さしていこうとしたあの子に言ったんだ。降ってないよ、って。そうしたら、"桜の雨を見に行くんです"って言ってたなぁ。桜並木かねぇ」
桜の、雨。
そうだね。僕らはいつも
出会うのは、桜の雨の下だった。
桜も紅く見えるような紅い夜の下だったから、全部が桜の色だったかは、知らないけれど。
「ありがとうございます」
僕は店主に丁寧にお辞儀をして、また店を出た。
店主がひらひらと扉の向こうから、僕の影が見えなくなるまで手を振り続けていたのを、僕もオレンジの傘の中から見つめていた。
あの生徒が殺された桜並木は、あれから警察によって閉鎖されている。犯人である彼がわざわざその渦中に飛び込んでいくとは思えなかった。
だとすれば、思いつく桜並木は一つ。
けれど、なんとなく別れを告げるため、先日の桜並木に行った。
どうせ目的地に行くためにはバスと電車を乗り継いでいかなければならない。
それなら、と商店街の方に戻り、あの桜並木を覗く。
綺麗な夜桜が街灯によるライトアップで寂しく咲き誇っていた。
遠くから、サイレンの音が聞こえてきた。
夜なのに、ガヤガヤと街がざわついた。
僕は夜闇に紛れるように人を避けながらも、耳をそばだてた。
「何? この騒ぎ」
「なんでも、傘屋の永倉さんが、首吊りだって……」
「ああ、別居してるけど、七重ちゃんの……」
「お気の毒にねぇ……」
ああ、やっぱりそうなんだ。
言ってたもんね。「娘に会いに行く」って。
……やっぱり、そういうことだったんだね。
「娘さんと仲良く」
僕はそんな一言をこぼし、駅前行きのバスに乗った。
◇◇◇
思ったとおりの場所に、日暮くんはいた。
「待った?」
「待った」
まるで待ち合わせでもしていたかのように、言葉を交わす僕と彼。
お詫び、とレジ袋から紅茶豆乳を出して手渡す。ありがと、とごく普通に受け取る。
「ねぇ」
…………と、繋がるわけである。
◆◆◆
「そっか、あの子、そういう名前だったんだ……」
俺はあのとき殺した少女を思い出す。
「……へえ、──、そうだったんだ」
「うん。でも、今もお母さんとは仲良くやってるし、幸せだけど。やっぱり……別に、仲が悪くてってわけじゃないから。嬉しいな」
「へえ、そんなもんかなぁ……あたしなんて、最近父親うざくてうざくて。うちらの年頃って父親離れするっていうけど、まじだわって実感してるとこ。──はそういうことないの?」
「んー、私は、あんまり顔合わせることがないからかな。今のところ、ないよ」
「──、反抗期なさそうだもんね。なんか逆にそれ心配かも」
「心配って、大袈裟だよ。お母さんじゃあるまいし」
「あたしは──見てるとおかーさん気分になっちゃうなあ~。うん、おかーさん名乗ってもいいかもね! まずは天然なこの子の嫁の貰い手が心配です!!」
「~~っ!? な、何言うの!?」
「えー? なんの話~?」
「──ちゃんの嫁の貰い──」
「それはいいから!!」
「あはは、今日はこれくらいにしといてあげる。──のお父さんの話だよ」
「──のお父さん?」
「うん! 今度ね、帰ってくるの」
日常会話。
そう、それは日常会話だった。
俺は紅茶豆乳のパックにさしたストローを噛みしめる──そうやって、芽生える殺意と戦わなければならなくなる、日常の会話。
彼女たちは悪くない。──何一つ、悪くない。
俺が勝手に羨んでいるだけ。
嫉妬せずにはいられないんだ。"家族"の話を笑顔でするやつのこと。
でも、彼女は俺の過去を知っているわけではないし、知ることは今後もないだろう。
俺は俺の過去を、誰かに明かすことなんてないと思う。
話すとすれば──
俺はストローに口をつけたまま、前の席を見る。
今は誰もいないその席に座す生徒の名前は"月出 叶人"……"ひぐれ かなと"。──ただ一人、殺せなかった子供。
明かすとすれば、彼にだけだ。彼には、色々なものを背負わせてしまうけれど、俺が懺悔できる相手は彼しかいないし、これからも彼以外にはいないだろう。……こんな俺のために紅茶豆乳を差し出してくれる人なんて。
「ひ、日暮くん」
俺が物思いに耽って窓の方を眺めていると、俺が誰一人として名前を知らない女子三人組のうちの話題の中心だった少女が話しかけてきた。
「ん?」
俺は顔を上げて応じた。
「日暮くんって、紅茶豆乳好きなの?」
「うん」
即答すると、少女はもじもじと口の中で言葉を紡ぐ。その仕草に苛々する。後方に控えた彼女の友人たちも苛立っているのか──いや、それよりも多分にからかいが含まれた声で「がんばれー」などと気のないエールを送っている。その様子にも、苛々した。
しかし、ストローから口を離すのが億劫で、うんとかすん以外の言葉を言う気にはならなかった。
悶々とした思いが募る中、少女はようやく本題を口にする。
「あの、つきいでくんも、好き、かな? その……紅茶豆乳」
……………………
そんなことか。
「うん。多分ね」
俺は素っ気なくそう口にし、俺の手元に注がれた視線がやけに痛い気がして、ストローから口を離した。
「…………やらないよ」
「え!?」
少女は顔を真っ赤にする。取り巻き二人はひゅーひゅー、と鳴らない口笛を口で言っている。……苛々する。
俺の紅茶豆乳はやらないという意味だが……まあ、誤解を解くのも面倒だから、関わるのはよそう。
そうして、再び視線を窓の方に戻しかけたとき。
「つきいでくん、ちゃんと本当の"ひぐれ"くんって呼んだら、喜んでくれるかな?」
そんな、問いかけ。
その問いかけで、俺の目の前は真っ暗になった──茶色に、染まった。
「月出くん」
彼をそう呼べるのは、俺だけだと思っていた。
俺だけの特権だと思っていた。偶然だけれども、同じ苗字を持つからこそなんだ、と。
"ひぐれ かなと"。
その名を呼ぶ人を奪って、似た名前だけど全く違う俺だけのものだと、思っていた……
「やらないよ」
もう一度、宣言した。
何を言っているんだろう?
あの名前は、名前だけは、俺のものだ。誰にもやらない。
俺は何を考えている?
やるもんか。
この子はただ、名前を
もう大切なものを失ってなるものか。やらない。やるもんか。
名前を呼びたいと、言っているだけ──
奪うなら
奪われるくらいなら
殺ってやる……!
俺は、ぐちゃぐちゃになった頭に、その子への殺意以外を思い描けず。
その割、学校の授業は普通にやり過ごして。
偶然かな。
あのときと同じ、皆既月食の紅い日暮れの桜並木の下で。
空から降り注ぐ白い花も混じるその下で。
俺はまた、罪を重ねたんだ。
◆◆◆
「そしてとうとう、君と会ったんだ……また」