七、日暮 湊
僕はいくつ、質問に答えられただろうか。
刑事さんが何か訊いてきたことは覚えている。でも、自分が答えたかどうか、覚えていない。
日暮くんのことを、喋ってしまったんだろうか。
わからない。けれど、僕はやけにすんなり家に帰された。
家に帰って、隣の家を──日暮くんの家を見る。別に、誰かがいるような気配はしない。調査が入っていないのは、僕が何も言わなかったんだろうか。
「殺してほしかったんだ」
彼の声が、耳の奥に蘇る。
やめて。
僕にできるわけないだろう? 君を知って、何年になると思う? 出会ったのは、小学三年生、今、僕らは中学三年生──六年になるんだよ? 本当に出会ったのは、小学二年生の春──ねぇ、それで、僕が君に絆を感じていないとでも思っているの? 君が僕の父さんと母さんを殺した──僕の普通を奪った。それを知ったくらいで揺らぐほど、僕は軽い存在だと思われていたの?
「日暮くん、僕は」
僕は
「君の石榴石の瞳が、好きなんだ……」
瞼の裏に、闇色の姿が蘇る。紅茶豆乳のパックをぺしゃりと潰して、ピンクの中で、佇む彼が。
「迷えていたら、よかったのにね」
脳裏を過るその姿に、僕は静かにこう返す。
「僕も一緒に、迷いたかった」
「「君と一緒なら、きっと……」」
こんな想いはせずに、済んだのにね……
僕は、音もなく立ち上がった。
窓を開けて、閉じられた自分の部屋の扉を見つめる。
──叔母さん、ごめん。
僕は黒い夜に、飛び降りた。
◆◆◆
なんとなく、わかっていたんだ。会った瞬間に。
壊れた俺が、人を殺して、殺して、殺して…………ただ一人、殺せなかった子供。
普通の家庭に生まれて、普通の幸せに恵まれて。俺には決して手に入れられないものを、簡単に手に入れてしまう。
そんな子供を見たら、俺はいつも、正気を失って、家族ごと、子供を殺していた。
気がつけば俺は通り魔なんて呼ばれていたっけ。
"幸せな家族に訪れた突然の悲劇。正体不明の犯人、その目的はいかに!?"
新聞などの各種メディアは俺の殺人をそんな風に取り上げていた。
──ただの見世物だ。
大した見世物だ。まさか、それを演出しているのが、こんな小学生だとは、誰も思わないだろう……
俺の駄々は、虚しいばかり……
けれど、あの日。
オレンジ色の日暮れが照らしたあの日。
俺が殺した幸せな家族の幸せな子供を
俺は殺せなかった。
初めて俺は、俺の本当の想いを知った。
本当は、俺
殺してほしかったんだ。
「……なとっ……!」
俺が子供に刃を振り下ろしたとき、その父親が叫んだ名。
俺はほんの一瞬、相手にとっては一瞬にすらならないほどの一瞬、俺は動揺した。
だってこの人、俺の名を呼んだ……?
みなと、って……
そんな動揺が走っても、俺の刃が止まることはなかった。
ぐさり。
ナイフが深く深く、刺さった。……彼ではなく、彼の母親に。
「みなみっ──!!」
父親が絶叫する。この母親の名だろうか。
絶叫したいのは、俺だ。
父親に、母親に、愛されて、庇われて──なんて幸せな、子供。
茶色に塗れた手の臭いが目に染み込んで、痛い。
痛い、痛い、痛い──!!
見せつけるな!! 俺の前で、幸せを見せつけるんじゃない!! 俺が、俺が……
俺は直前、彼の持った鞄に刺繍された名前に気づいてしまったんだ。
"ひぐれ かなと"
俺を呼んだんじゃなかった。
俺を呼んだんじゃ、なかった……
君を見つけなきゃ、俺はこんなに惨めになんか、ならなかった……!
ざしゅ。
父親を刺すその手に、躊躇いは生まれなかった。
あとは、子供だけ。
"ひぐれ かなと"という、子供だけ。
子供だけ。
「……え?」
小さな、微かな、呟き。
茶色に染まった母親の死体から、むくりと顔を出して、紅い日暮れを黒い瞳に映す子供が、俺を見た。
無垢な眼差しが、俺を刺し貫く。
俺は
俺は
視線がかち合った瞬間、
逃げた。
殺せなかった。
いや、殺さなかった。
俺は、あの瞳に出会ってしまった。
愛された子が、あんなに綺麗だなんて思わなかった。
石榴石の瞳が、あんなに刺さるなんて、思っていなかった──
◆◆◆
「月出くん、早く来てよ」
オレンジ色の夕暮れを、石榴石の瞳に映しながら、日暮 湊は呟いた。
「俺は、嬉しかったんだ、君に出会えて」
愛されなかった黒い髪を弄びながら夕陽に微笑む。
「だから、幸せなまま、逝かせてほしい──もう、迷う暇などないのなら、いっそ」
夕陽に消えた、闇色の言の葉。
「君の手で、終わらせて──」
◇◇◇
……できた。
僕は今、自分の部屋の窓から、向かいの家の窓に──日暮くんの部屋に飛び移って、中に入った。
鍵は開いていた。まるで、僕が来るのを予期していたように──僕が来るのを、待ち望んでいたように。
それは思い上がりか。
僕は暗い部屋の中で、赤茶けた小さい電球を点け、彼の机の上にあった手帳を読んでいた。
彼の日記のようだった。日付のない、無秩序な日記。
「そっか」
僕の口からは、自然と笑みが零れた。
「君も、同じように想っていてくれたんだね」
茶色い電球を見上げ、僕は決意を口にした。
「じゃあ、君のお願いを、聞いてあげないとね」
ああ、全部が茶色に見えるよ。
電球のせいかな……うん、多分、きっとそう。
「卑怯だよ、日暮くん」
こんなの見せられて、断れるわけ、ないじゃないか……