五、茶色い過去
見えたのは、オレンジ色だった。
その中に、黒い人影。
それが誰か、すぐにわかった。
だんだんと、僕に近づいてくる、石榴石の瞳。少し長い髪を一瞬だけ鬱陶しげに見やり、それから僕を真っ直ぐ見つめて、迷いなく歩み寄ってくる。
「日暮くん」
僕はその名を呼んだ。
「日暮くん」
「月出くん」
彼の声も、聞こえた。
答えてくれた。なんだ、いつも通りじゃないか。オレンジ色の、いつもの夕暮れ。いつも通りに応じてくれる日暮くん。彼はここにいる。人殺しだと言って、いなくなったなんて、嘘だ。
「日暮くん」
「月出くん。ごめんね」
「……え?」
彼は、あと数歩、というところで止まった。
「ごめん、俺は、人殺しなんだ。人殺しで、君の大切な人を奪った。君の父さんと母さんを、殺したのは俺だ」
向き合うと、彼は
「だから、」
白を入れ忘れた紅茶豆乳色で、泣いていた。
「だから──」
「やめて!」
やめてくれ、その続きはどうか言わないでくれ、昨日も聞いた。嫌だと言った。駄目だ嫌だやめて──僕にできっこないことくらい、君ならわかるだろう……?
「俺を、殺して……いいんだよ……?」
◇◇◇
「いやだああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
僕はそこで飛び起きた。
絶叫が轟く。叫んだ自分が、頭に響き、蹲る。
「……っぐ、」
何をやっているんだろう、僕は。
頭が、痛い。
白いベッド、白いシーツ、少し薬臭い、白い匂いの部屋。──知らない場所にいることが、どうでもよくなるくらい、僕は頭を抱えていたかった。
驚くほど、黒がない。
僕の求める石榴石の色がない。
この部屋で黒いのは、僕だけ。
のろのろと顔を上げる。白いカーテンのかかった窓に近づく。はらり、とカーテンを払いのけ、窓を見る。
外の馬鹿みたいに青い空と、大きな垂れ柳の緑が向こう側にある。
それに重なりうっすらと、部屋の中も映る。真っ白な部屋に真っ黒な僕。……確かに、僕は彼と同じ顔かもしれない、なんて、ぼんやり思った。実際、そんなにはっきりと見えるわけではないから、そんなことを思ったのかもしれない。僕と彼は、全然似てない。
僕には僕を慈しんでくれる両親がいた。
けれど彼には彼を化け物と呼び蔑むような親しかいなかった。
僕は平凡を絵に描いたような人間だ。絵に描いたような平凡な生活を、幸せに送っていた。
彼は非凡を絵に描いたような人間だ。人並み外れた身体能力で人を殺し、茶色い世界に生きている。
あの茶色い世界に、僕は入っていけない。
彼が境界線を引いてしまっている。
感じてしまったその瞬間から、境界線の向こう側は、とても遠くなってしまった。
◇◇◇
「俺の親はね、二人とも天然の茶髪でね、目も、茶色だったんだ」
茶色い臭いを纏わせたまま、黒い瞳の彼は言った。
「わかる? ……俺は、生まれるはずのない子供だったんだよ」
「そん、な……」
「だってさ」
彼は、ナイフを握った手を持ち上げて、その切っ先で自分の目を示す。どきり、と心臓が跳ね上がった。──刺すのでは、ないかと……そんな考えが過ったから。
綺麗な、石榴石の色を。
「君には、何色に見える?」
その質問は二回目だ。紅茶豆乳のときと同じ。
「俺の目、君には何色に映っているんだい?」
「石榴石」
僕は間を置かず、答えた。
「石榴石の、色」
黒くて、透明な、宝石の、色……
「石榴石……紅茶豆乳のときも思ったけど、君って結構変わった感覚してるよね。石榴石、石榴石かぁ……」
彼の口元に笑みが零れる。
「変わってるって言っときながら、気にいってるんだから世話ないや。……話反れたけど」
彼がナイフを下ろし、続ける。
「茶色い親から黒い子だよ? ……亀裂が走らないわけ、なかった」
遺伝とか、難しいことはよくわからなかったけれど、なんとなく、言わんとするところは察した。
生まれてきた彼を見て、彼の両親はいがみ合ったに違いない。父は、お前、裏切ったんだろう、と。母は、裏切ってなんかいない、と。
証拠がなくて、堂々巡りになりかけたその争いの矛先が、根拠となった息子に向いたのは、想像に難くない。
「俺、物心ついた頃、自分の名前は"化け物"っていうんだと思ってた。お前は鬼子だって、生まれてくるべきではなかった化け物だって、そう教えられて育った」
生まれてくるはずのなかった子供。──だから、絶望しか与えなかったのか? 我が子に? たった一人の自分たちの子を、"化け物"と蔑んで?
「俺はね、紅茶豆乳ばかり飲んで育った。母さんが好きだったんだ。安いから。俺は、赤ん坊のとき、ミルクを飲まなかったんだって。全部吐いたんだってさ。本当かどうかは知らないけど、紅茶豆乳を飲んだんだって。母さんが飲みかけで置いていた紅茶豆乳を。……母さんは、自分のものをとられたことに怒ったあと、紅茶豆乳が飲みたいんなら、紅茶豆乳だけ飲めばいいって、それから俺に紅茶豆乳を与え続けた。その結果が、今の俺」
僕が渡した紅茶豆乳をかちゃかちゃと振り、一口飲む。ほぅ、と一息吐いて、続けた。
「やっぱり、いいなぁ。不思議だよね、紅茶豆乳って。茶色いのに、茶色い味がしない」
君にとっては、ピンクなんだっけ? と、彼は謝った。
「……俺が、最初に殺したのは、茶色いあの人たちだよ」
抽象的な物言いだったが、それが誰を示すかなんて、火を見るより明らかだった。
「父さんと、母さんが、話してたんだ。子供ができたって。……俺、嬉しかったよ。自分に兄弟ができたんだって。嬉しかった。でもね」
きゅ、と彼の手の中の紙パックが少し潰れる。
「だから、あの鬼子はもういらないって、言われたんだ」
「な……」
絶句する。
いらない……なんて。仮にも、実の親から、しかも両親から、いらない、なんて……
「化け物なんか、家に置いておくものかって……」
僕は、彼の顔を凝視した。
すると、さあっ、と彼の黒い絹糸のような髪を風が凪いでいく。少し長い髪が風にたなびき、その表情を隠してしまう。──どんな顔をしていたか、わからなかった。
「聞いた瞬間、目の前が真っ暗になった。あれだけ蔑まれたのに、俺はまだ親の愛情を信じていたんだ。どこかに、欠片でも、愛してくれる感情が残っているはずだって、信じてた」
ピンクの花弁も、彼を隠してしまう。僕から、遠ざけるように。
「真っ暗になったけどね、真っ黒ではなかった」
風が、止まない。どうどうと、僕の空洞のような胸に冷たく吹き込んでくる。
「茶色かったんだ。セピア、というには、些か赤みの強すぎる茶色が、俺の視界を覆って……気がついたら、実際、その色に覆われていた」
この色に、と、彼は軽くナイフを振って、足元の黒い塊を──彼が作った死体を示した。
忘れかけていた、現実。彼が人を殺したという現実。──忘れかけていた自分が少し、怖かった。
「無我夢中だった。──とはいえ、子供の俺が、抵抗したはずの大人の二人に、どうして敵ったんだろうって、不思議だった。……それで、気づいたんだ」
風が止む。
顔が、見えた。
「俺は本当に化け物だったんだ……って」
桜色の向こう側。
彼は、笑っていた。
笑って、いた。