四、分かたれて
「………………………………ありが、とう」
長い沈黙の後、日暮くんはそう言って、紅茶豆乳を受け取った。
ぴり、と付属のストローを出す。僕は慌てて訊いた。
「まさか、ここで飲むの?」
……自分でも、ずれた問いだとは思ったけれど、その感覚が理解できなかったから、訊いた。
「うん」
日暮くんは何でもないことであるかのように平然と頷き、ぷっ、とストローを差し込んだ。
「……飲まないと、やってらんないよ」
どこのサラリーマンだよ、と思うような台詞を溜め息とともに吐き、一口吸う。
「……美味しい?」
「うん」
どうでもいい会話だ。彼の足元の同じ制服の死体なんて気になってもいないような──あるいは、そこから目を背けたいというような。
僕だって、訊きたくて訊いているわけじゃない。でも、今訊かなければ、僕はもう彼と紅茶豆乳を飲むことができなくなってしまう。そんな予感があった。
──訊いても、もう一緒に飲めるかなんて、わからないけれど。
もう一度、口にする。
「君は、誰?」
ストローをくわえた状態で、彼が硬直する。口を開く様子はない。
僕ははあっ、と息を一つ吐き、鞄から筆入れをまさぐり、その中のある文房具を出した。それを彼に突きつける。
「月出、くん……」
ぎりり、と固い音を立てたのは、カッターナイフ。その刃先が向くのは紅茶豆乳の向こう側にある、日暮くんの首。
「君は、誰なの?」
僕は再び、その問いを口に乗せた。
ようやく、日暮くんがストローから口を離す。
「そんなに知りたいの? 俺が何か」
自虐的な笑みを浮かべて彼は言う。その白い顔は月のない紅い闇の中では、紅茶豆乳と同じ色だった。
「違う。僕が知りたいのは、君が誰かってこと」
ねぇ、日暮 湊くん?
「君は物じゃないだろう?」
「うーん、どうだろ?」
「物は紅茶豆乳を飲まない」
「はは、それは言えてる」
でもね、と彼は続ける。
「親には化け物って呼ばれてるよ」
紅茶豆乳色の顔には、乾いた笑みが貼りついていた。
「化け物は、物じゃないのかい?」
暗に彼はこう言ったのだ。
俺は化け物だよ──と。
◇◇◇
次の日、日暮くんは学校に来なかった。
別に、僕は彼に何かしたわけじゃない。何もしていないし、何かする気なんてなかった。
「君は誰?」──それ以外、彼に何も訊いていない。訊かなくてもいいと思ったから。……訊きたく、なかったから。
「久しぶり……って、言えばいいのかな?」
なのに。
「君は、覚えているよね。じゃなきゃ、そんな物騒なもの、俺に躊躇いなく向けるはずないもの。……そうだよ。俺は、あのとき君の父さんと母さんを殺した、通り魔」
それなのに、彼は自分から、そんなことを明かした。
わかっていた。もしかしたら、なんて、あそこで彼の姿を見たときから過っていた考えだ。
僕の顔を見た瞬間のあの顔で、あの声で、充分にわかっていたことなんだ。
だから……だから、だめ押しの一手のように、認めなくたって、よかったんだよ……!
僕が、カッターナイフを出したのがいけなかったのかな。
あれを、敵意だと、君は認識してしまったのかな。
違う。違うんだ! 僕はね……知りたかったんだ。ただ、知りたかった。僕が知らない、君の真実を。
君が偽りなく話してくれるように、偽りなく全てをさらけ出せる、それが友達だろう? それで友達だと……本当の友達だと、信じたかった。信じていたかった。
「俺は、人殺しなんだ」
そんなこと、言ってくれなくても、よかったんだ……
「そういえばさ、知ってる? 昨日近くの桜並木でうちの校の生徒が死んでたって」
「え、マジ? 誰だよ、それ」
「さあ? 詳しいことはわかんね」
「もしかして、日暮くんとか? 今日来てないよね?」
「えっ、なんで日暮くんが!? いやぁっ……」
「わ、ちょっと、まだ推測だってば! ほら、泣かないの」
「この子、日暮くんのこと、好きだったからねぇ……」
遠巻きに、そんな光景を見る。「ひぐれって僕のこと?」なんて、馬鹿な問いかけはしなかった。そうだよ、僕は"ひぐれくん"じゃないんだ。みんなにとっては"つきいでくん"。僕を"ひぐれ"と呼ぶ人なんて、いない。
もう、いない──
「あ、つきいでくんなら、彼のこと知ってるんじゃない? 隣の家だし、仲いいじゃない。確認してみなよ」
「え、あ……うん」
ぎっ
瞬間、僕は席を立った。椅子の足が床を擦る耳障りな音が教室中に響きわたり、みんなの視線が僕に向く。僕は突き刺さる視線を振り払うように身を振って、教室を出た。
訊かれたくなかった。
今は、訊かれたく、ない……
なんて答えればいいの? 日暮くんはどうしたの? って訊かれて。彼は無事だよって? でも人殺しなんだって? 死んだのは別な人で、殺したのが日暮くんなんだよって?……そう言えば、よかったの?
廊下を足早に歩いていきながら、僕は答えのない問いを繰り返していた。階段を駆け降りて、擦れ違う教師にもおざなりに答え、僕はただひたすらに、逃げるように学校を出た。
「日暮くん」
足は、昨日のピンクを探して、あの場所へ向かう。
「日暮くん」
いるかどうかもわからない、その人物の名を呟きながら、僕は歩いた。
「日暮、くんっ……!」
ぶわり。
淡いピンクが、突如視界を覆う。
その向こう側に、黒い服の人が何人もいて。
花咲かす木の根に転がった黒い塊に群がっている。……まるで、死体に群がるハイエナのよう。
それもそうだろう──黒い塊には見覚えがあった。当たり前だ。昨日見たばかりの死体なのだから。
同じ制服を着た、死体。──昨日、日暮くんが殺した、人《死体》……
「おい、君、何をしているんだ!?」
黒服のうちの一人が僕に気づき、声をあげる。僕は、答えられない。──ハイエナが、寄ってくる──自分で考えた比喩を引きずって、そんなことを思ったら、吐き気がした。やめて、来ないで、お願い──
「おい、どうした? 大丈夫か? 君っ!!」
僕はその場に蹲り、頭を抱えた。本当は耳を塞ぎたかったのだが、自分の耳がどこか、わからなくなった。だから、ただひたすらに、事実を見ないように、見ないように──
紅茶豆乳のように見えたピンクから、僕は目を背けた。