三、君は誰?
「紅茶豆乳が好きなんだよ。紅茶豆乳しか飲まなくてもいいくらい。それ以外のものも、食べたり飲んだりできるけど、長いこと口にしてないな。もう、十年近くは、紅茶豆乳以外は口に入れてない」
楽しげに日暮くんは話した。僕が聞いたこととは全く違う話だけれど、僕は黙って聞いた。多分、いきなりは話しづらいことなんだ。
「……初めて飲んだのは、いつだったかな……そう、俺の記憶の始まり。あれは四歳だったかな。そこから」
それ以上潰れることはないのに、彼はぺしゃり、ぺしゃりと紙パックを弄ぶのをやめない。
「ねぇ、月出くん」
「何?」
「紅茶豆乳って、何色だと思う?」
ぺしゃり、ぺしゃり。空の紙パックが空の音を鳴らす。日暮くんが僕の返事を急かしているようだ。
「やめなよ、それ」
僕は苦笑いを浮かべて言った。うん、と気のない様子で日暮くんが答える。
ぺたん。静かにもう一度潰されたパックは、茶色い机の上に無造作に置かれた。僕はそれを確認し、あまり間を置かないように、口を開いた。
「紅茶豆乳の色は一言で言うとピンクだと僕は思う」
手持ちぶさたになり、紙パックをつつこうとしていた彼の手がぴたりと止まる。僕は続けた。
「しかし、一般的なピンクではないかもしれない。ピンクというと、桃色を思い浮かべるだろう? けれどあのピンクは、血のような……月食の日の夕暮れのような、あの暗さを帯びた紅に濁った白を溶かしたような……そんな色なんだ。僕の中では、赤を白で薄めた色がピンクだ。だから、紅茶豆乳のその色も、ピンクと呼べるんじゃないかと思っている」
ちらりとあの桜並木を思い出す。両親と最後に歩いた桜──あの色を、本当はピンクと言うんだろうけれど。
「へえ、君にはピンクに見えるんだ」
日暮くんの声に、僕は彼の顔を見た。聞いたことのないくらいの彼の嬉しそうな声。見ると、彼は笑っていた。言葉を濁す代わりに話を反らしたなんて、わからないくらいに、明るく。紙パックを潰すような、退屈や苦悩など微塵も感じられない。
彼は言葉を紡いだ。
「俺にはね……茶色に見える。紅茶ってさ、蒸らしすぎると茶色になるんだよ。味も渋いし。その渋味をごまかすための、中途半端な俺の色なんだよ。紅茶豆乳の薄茶色って」
からからと、彼は笑った。自嘲の色が宿るのに、からからと、楽しそうだった。
「それで、ね。俺──俺は」
そこで、言い澱む。口を閉ざし、僕を見て、躊躇いながら、再び言葉を紡ぎだそうと──
「日暮ー、日暮 湊ー」
「あ、はい」
──したが、教室に担任教師が入ってきて、日暮くんの名を呼んだ。日暮くんは弾かれたように立ち上がり、すたすたと先生の方へ行ってしまった。
──聞けなかったな。
僕は聞きそびれた彼の言葉の続きを思い、眉をひそめた。でも、先生から呼ばれたのだから仕方がない。
そう考えて、前を向いて座り直そうとしたとき、茶色い机に灰色が見えて、僕はそこを見た。
「ごめん、月出くん」
シャープペンシルの走り書き。
「気にしなくていいよ」
僕は既に去った友の気遣いに、そっと呟いた。
その「ごめん」の本当の意味なんて、知らなかった。
真実を隠していたなんて、知らなかった。
知らなければ、よかった。
知らなければ、普通だと、それで満足できたのに。
君の悲しい顔なんて、見ずに済んだのに。
「迷えていたら、よかったのにね──君と一緒なら」
本当だよ。
どうして僕らはもっと早く、出会えなかったんだろう?
もっと早く、真実を知れなかったんだろう?
こんなに深く想う前に出会っていれば
こんなに辛くはなかったのにね──
思い通りにいかないね。
神様はなんて勝手なんだろう。
世界はなんて、残酷なんだろう──
◇◇◇
結局、その話は記憶から流れて、触れられないまま、時が過ぎた。
中学三年の、春。
その年は寒い春で、四月だというのに、雪がちらつくことがあった。
何年かぶりの皆既月食がある、ということで盛り上がっていたあの日。
僕は、日暮くんを知った。
紅茶豆乳を買い、それを飲みながら話す、という習慣は相変わらず続いていて、近頃は二人で交互に買うようになった。
その日は、僕が買う日だった。
帰り道、スーパーに寄って、税抜き七十円代の紅茶豆乳のパックを二つ買い、店を出た。なんてことない日常。
しかしその日──
桜並木で僕は、
数年前の通り魔と
日暮 湊くんと
再会を、果たした。
◇◇◇
学校から、こじんまりとした商店街を抜け、外れにある大きなスーパー。そこから僕の家がある方へ向かう道は、桜並木になっていた。春になると淡いピンクが木々を彩る。
今は正にその季節で、けれどちらつく季節外れの白雪がより柔らかな雰囲気を醸し出し、見る人々の心を優しく包む。
冷たい雪なのに、僕はこの光景に心温まるような気がするのだ。
けれど。
皆既月食の、紅い夜。
月の出ない日暮れに、僕は
ぴちゃり、という音を聞いた。液体が地面に落ちて、跳ねる音。
雨も降っていないのに、桜並木でそんな音がした。
僕は音のした方へ目を向ける。桜の木の影に、ちらりと同じ制服を着た人物が見えた。
「誰?」
僕が口にした問いに、その人の肩がびくん、と震えた。
「ひ、ぐれ……くん?」
「え?」
怯えるような声で答えたのは、日暮くんだった。間違いないはずだ。僕を"ひぐれ"と呼んでくれるのは彼だけなのだから。
「なんだ、日暮くんか。そんなところで何してるんだい?」
僕は桜に歩み寄る。買ったばかりの紅茶豆乳をスーパーの袋から取り出し、渡そうと、した。
来ないで、という小さな叫びも聞かず、僕は日暮くんと相対した。
言葉を、失った。
そこには、紅、紅、紅……紅しかなかった。まだ残る淡雪に降り注ぐ紅。桜と同じ色になるためには、些か紅が濃すぎる。まるで、紅茶豆乳だ。濃い紅を乳白色で溶かした、あの不完全なピンク……
日暮くんからは茶色い臭いがした。そう、鉄錆の茶色い臭い。彼の色に変化はない。制服が黒いから、紅がわからないのかもしれない。ただ、今にも力がなくなりそうなほど震えた手に握りしめる鋭い銀色には、べっとりと紅がまとわりついていた。先程の音はそこからのようだ。ぴちゃり……とそこから紅が零れる。
その紅い一滴を目で追うと、最早動かぬ人の塊。
黒い、黒い、人の塊。気のせいかな。同じ制服を着ている気がする。誰だろう? わかんないや。……まあ、いいか。
鮮やかに広がった紅は、徐々に土色に溶けていく。茶色に、茶色に──土に還るって、こういうことなんだ、と全く関係のないことを考えた。
……うん、違うよね。僕は現実逃避をしたいだけなんだ。日暮くんがここにいること、ここで、何をしていたか……僕は、訊かなくちゃ、いけない。
紅茶豆乳を、差し出す。
「日暮、くん」
あれ、おかしいな。僕の手も震えている。怯えているように。……怯えて? 何に?
──真実に。
だって、似ている。
桜並木で、殺された、僕の両親のときと。
現実味のない光景の中、僕は問いを口にした。
「君は、誰?」