二、桜の中の紅い記憶
僕がいた街で、僕は平凡を絵に描いたような生活を送っていた。
父さんと母さんと一人っ子の僕は三人暮らしで、学校には友達がいて、街の人たちも良くしてくれて、治安のいいその街で、平凡で、平和な日常を送っていたんだ。
そんな僕に突如降りかかった非日常。
治安は国内でもぴか一のその街に唐突に現れた通り魔。
それが、父さんと母さんを、殺した。
僕の日常をさらっていった。
それが、小学二年生の春の出来事だった。
それから僕はしばらく近くの親戚をたらい回しにされ、僕が行く先々の人々が何かしらの問題を起こし、僕はいつまでも安寧を得られずにいた。
それを拾ってくれたのが、遠くの街──今住んでいるこの街にいた叔母さんだ。
そして、今に至る。
僕は、あの日、両親が染まった紅を、忘れられずにいる──
◇◇◇
僕はようやく取り戻した他愛のない日常が好きだった。
隣の家のちょっと不思議な同級生、日暮くんとは、友達になっていた。他の誰よりもよく話した。
夜には互いの部屋の窓を開けて、紅茶豆乳を手に他愛のない会話をする、あの不思議な習慣も続いていた。不思議とあの時間が落ち着くんだ。ああ、僕はここにいるんだ……って、ぼんやりと実感できる。
紅茶豆乳のミルクティーとは違うまろやかさとその香りが、僕は生きているんだ、と実感させた。
紅の悪夢を、白が溶かしてくれる──
そんな日常を過ごし、僕らは中学生になった。
「日暮くん」
「ん?」
昼休み。僕は後ろの席の日暮くんに紙パックを差し出した。
「飲む?」
「ありがとう。……わざわざ買ったの?」
「ん、まあ。いつもはもらってばっかだし」
「スーパーで買うから百円もしないのに……」
税抜きで七十円代。確かに、安いし美味しい。だからって奢られてばかりというのは、抵抗がある。
だって、どんなに安くても、一ヶ月、ましてや一年なんて、買い続けたら大変な値段だ。
「……ん、君は真面目だね。……そういうとこ、好きだけど」
「むふっ……!?」
日暮くんがあっさり言った一言に僕は危うく口に含んだ紅茶豆乳を吹き出しそうになった。
「どうしたの、月出くん」
「……う、うん。いや、好き……って?」
「深い意味はないよ。いや、うん。俺も君と話すの楽しいから」
日暮くんは紅茶豆乳のパックに付属のストローを差す。
さらりと告げて、彼はストローに口をつける。
「……月出くんは、俺のこと、好き?」
石榴石の瞳が真っ直ぐ問う。僕は、その瞳に吸い込まれそうになり、言葉をなくす。──俺のこと、好き?
「男に聞かれてもなあ……」
僕はへら、と笑ってそう答えた。
それを聞いた日暮くんはそう、とだけ答えた。瞳はあんなにも煌めいていたのに、意外と淡白なものだ。
「紅茶豆乳、好きなの?」
僕は代わりに別な問いを口にした。日暮くんはちら、と僕を見上げ、しばらくぼーっとストローを吸い、パックからきゅう、という音がすると、口を離して答えた。
「好きだよ。これさえあれば、俺は生きていけるもの」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟じゃないよ」
紙パックを丁寧に畳みながら彼は続ける。
「俺、普通とは違うんだ。飲んだり食べたりしなくても、生きていける生き物なんだよ。本当だよ。試したことある。試したかったわけじゃないけどね。……一年経っても、二年経っても……六年経っても大丈夫だったから、俺はそういう生き物なんだよ」
……変な冗談だ。
僕は率直にそう言おうとしたが、彼の次の言葉の方が、早かった。
「親には、化け物って言われたけど」
出かけた言葉は喉の奥へかえり、飲みかけの紅茶豆乳も、通らなくなった。
──とても、冗談などとは言えなかった。
彼は──日暮くんは言いながら笑っていたのだ。石榴石の煌めきが失せ、その色を深い深い闇に落としながら。
◇◇◇
通り魔に、両親が殺された日。
あの日、本当に殺されるのは、僕のはずだった。
僕のはずだった。
まざまざと思い出す。
あの日の夕暮れは、鮮やかなオレンジ色だった。
夏の終わりに咲く、名前も知らない花と同じ、明るいオレンジ色。春で、昼の空も澄んだ水色だったからかな。空なのにに水色というのはおかしいかもしれないけれど。
僕はそんな空の下で、淡く色づいた花を咲かせる桜並木を歩いていた。父さんと母さんが一緒だった。その日は夕飯を外で食べることになったから。
僕は綺麗なその景色にはしゃぎながら笑っていた。父さんも母さんも笑っていた。
僕は楽しくて、繋いでいた母さんの手から離れて、桜並木を走った。
そのとき。
視界の隅にきらり、と鈍く光るものが入った。
同時に父さんが叫んで僕の方に駆け寄る。距離的に近かった母さんは僕を抱え込むように抱きしめ──
ぐさり。
現実味のない、アニメの効果音くらいでしか聞いたことのないような音が、母さんからした。
僕を抱えたまま、母さんが地面に倒れ伏す。幼い僕の力では母さんから抜け出すこともできず、成す術なく、僕も倒れた。やけに温かいものが、母さんから伝ってくる。僕がそれを何か認識する前に、父さんが絶叫した。母さんの名前を叫ぶ。──僕はもう覚えていないが。
そんな父さんの絶叫はすぐに止んだ。
ざしゅ、というまたも現実味のない音に。
母さんの腕と腕の間から、ようやく顔だけ抜き、僕はその光景を目にした。
母同様、倒れ伏す父。絵の具で塗り潰したような、冗談みたいな量の紅色が、父の倒れる地面を濡らしていた。淡い色の桜が、濃すぎる紅に落ちていく。桜は淡いから綺麗なのに、と危機感のないことを考えた。
ふと、目に痛みが走る。水泳でプールの水が入ったときのような痛み。しばし目をしばたかせ、痛みが抜けたところで目を開けると──世界の半分が、父の地面と同じ、紅になっていた。
視線を父の方から、自分側に移す。──この辺一帯の地面も、紅に変わっていた。──鉄臭いことに、今更ながら気づく。
地面を這わせた視線は、ただ一人、茶色の地面に立つ人物の姿を捉えた。顔は見えないし、背丈もよくわからない。ただ……僕と年が近いような気がした。
確かめようはない。通り魔はすぐにいなくなってしまった。そんなことはどうでもいい。僕は苦しかった。紅が、茶色に変わっていく。
地面の土色ではない茶色に──
そんな光景が、僕を今も時折苛む。
◇◇◇
両親。
日暮くんの口から出たその単語に小学生時代の茶色い思い出が蘇る。
「両親に……って」
「ん?」
「日暮くんの、両親って……?」
僕はとうとう、その問いを口にした。
日暮くんの顔を見る。
「知りたい?」
石榴石の揺らめきが、僕に問う。
僕は、
僕、は──
ゆるり、と首を縦に振った。
日暮くんはそれを見て、畳んだ紙パックを、もう一度ぺしゃりと潰した。