十一、月出 叶人
視界が紅くなっていく。目が痛むこの感覚には、覚えがあった。
紅が目に入ってくる感覚。
額が熱い感覚もある。痛いというより熱い。咄嗟に飛び退いていなければ、この程度では済まなかっただろうが……
振り下ろされる日暮くんの刃に引き寄せられるようにカッターを持ち上げた僕。当然持ち替えるなんて余裕もなく、左手のままだったのがいけなかったのだろう。
なんとか、カッター自体は手の中に留めておくことはできたが……出した刃のうち二枚ほどは、先程の鍔迫り合いで折れ飛んだ。
折れるだけならいい。折れ飛んだのだ。飛んだ刃は僕の眉の少し上を掠めていった。掠めただけだから大したことはないだろう、とたかを括っていたのだが、さすがはカッター。綺麗に、必要以上に深く額を切り裂いていったらしい。
血止めをする暇も惜しい。僕は日暮くんと距離をとる。日暮くんの石榴石の瞳には、狂気の色が滲んでいた。
日暮くんは愉快犯ではないと思っているのだが、僕の血を見た瞬間から、楽しげな様子に空恐ろしいものを感じる。ぞわり、と皮膚が粟立つような不快感を覚えるのだ。
ぎりり、と滑らかにカッターの刃を出す。出しすぎないようにしているつもりだが、どうにも警戒心のために刀身を長めにしてしまう。
視界が紅い。この紅、どうにかならないか? そう考えて、額を拭う。
その動作を合図に、日暮くんが一瞬で間を詰める。
身を低く沈め、ナイフを突き出す。僕は身を半分返してかわす。しかし、かわしながら驚愕する。
空いていた日暮くんの片手にもう一つの銀の煌めき。……もう一本、隠していたのか。
さすがに、避けられない。相手が低い位置にいるから、かがむのは悪手すぎる。
なら──僕は迷いなく、カッターを捨てた。
残念ながら、僕にはもう一本、なんてないけれど。真っ直ぐ伸びてきた手首を捕まえて、引き寄せる。もちろん、ナイフが刺さらないように。
体育は、得意じゃないんだよなぁ……
そんな、日常の思考を過らせて、僕は苦笑した。
すどん。
コンクリートの地面に日暮くんの体を叩きつける。
背負い投げ……というような立派な型ではないけれど、なんとか成功した。
「……刺さないの?」
固い地面で受け身をとった日暮くんが、にっこり呟く。
「……僕、カッター捨てちゃったし」
「俺の手からとればいいじゃん」
「うん、でも」
僕は掴んだままの日暮くんの腕を捻る。日暮くんの微笑みに若干の苦悶が滲み、力の抜けた手から銀色のナイフがからん、と落ちる。
「……でも、それだと僕の願いを叶えてくれないだろう?」
僕は落ちたナイフを拾う。すとん、と日暮くんの手を放し、もう一本のナイフを渡す。
「これで対等。……抜け駆けはなしだよ?」
「……どっちが」
僕は額を拭った。
……袖にべったりと、紅が染みる。
「君だって、結構狡かったんだから、これでおあいこにしてよ」
「月出くん……」
泣きそうな顔で、彼は笑う。
狡い。狡いよ。
そんな顔されたら、殺したくなくなる。
でも、願いを叶えたいと思ってしまう。
狡いよ。君は、本当に……
だから
だから、僕の「刺し違えて」って願いくらい、ちゃんと叶えてよ?
◇◇◇
桜が舞う。
花を巻き上げた風は、彼の祈りを届けるように、もう一方の少年へと吹き抜けた。
もう、戻れない──
◆◆◆
責め立てられているような気がした。
「これでおあいこにしてよ」
そして一緒に逝こうよ。
どうしてだろう?
あの子に殺意を抱いたとき、俺は彼を他の誰にも渡さない、と、俺だけの彼なんだ、と、そう思っていたはずだ。
だから、彼の言葉は俺が望んでいた以上のものだった。
そのはず、だった、のに……
何故だろう? 違和感が拭えない。
彼は俺と同じところにまで来てくれた。俺の願いを叶えるために。俺と一緒に逝くために。
俺が望んだこと、俺が願ったことのはずなのに。
俺は今、彼が茶色に見えない。
感じている。
彼を殺したくないと、感じている。
石榴石の瞳を、なくしたくないと感じている。
「ははっ……」
俺は彼を見た。
「はははっ……」
彼は微笑んで、ナイフを構えていた。
「はははっ、ははっ……ははははははははっ……!」
殺る気満々じゃないか。
よかったよ。嬉しいよ。俺を殺す気になってくれて。ありがとう、月出くん。
俺を理解してくれて、ありがとう。
でも、さ──
「本当に神様って酷いやつ」
どうして彼が俺を理解して、殺してくれるってなったときに
俺に、彼の気持ちを、理解させるかなぁ……?
俺も、ほとんど諦めたような心地で、ナイフを構える。
最後の人殺し。──最期の人殺し。
彼は傷ついた額を無造作に拭う。……痛みはもう、ないのだろうか。
桜が舞う。
風が吹き抜ける。
それを合図に俺と彼は
最後の一歩を踏み出す。
「迷えていたら、よかったのにね」
いつか、自分が言った言葉が脳裏に蘇る。
その問いに答えるように、擦れ違う彼の唇が動いた。
「今度は、一緒に」
頷きかけて、俺は気づく。
俺のナイフは、彼の胸を確かに刺し貫いていて、
彼のナイフは、俺の首筋を僅かに薙いでいっただけ。
目の前が、真っ暗になった。
それは、茶色の暗闇ではなく、初めて感じる真っ黒な世界。
見えない。
見えない、よ?
月出くん。
見えない。
君は、何をした?
俺は何をしたんだ?
見えない。何も見えないよ。
見たく、ない。
首の傷の痛みはない。ただどくどくと紅い血が、いつもの茶色い臭いを放つだけ。
それよりも、胸が痛い。苦しい。かきむしりたい。実際、俺はかきむしった。でも、痛みも苦しみも、和らぐことはない。
……彼が、後ろに倒れていく。
俺は慌ててその手を捕まえた。かくん、と彼の体の傾斜が止まる。
彼が少し、石榴石の瞳を開いた。
「日暮くん……?」
「月出くん。約束じゃないか。一人で逝かないでよ。君が俺を殺してくれるんだろう?」
「そう、だね……」
へら、と彼は笑った。
「俺を」
やるせない。
「俺、を」
掴んだ腕から急速に体温がなくなっていくのを感じる──
「俺を一人に、しないで……」
「うん……」
連れていってあげるよ。
彼の最早色のない唇は、そう動いた。
「日暮くん」
「……何?」
「夕陽が、綺麗だね」
「夕陽?」
顔を上げると、雨を降らせていた雲はすっかり晴れ、空が薄明かるくなり始めていた。
東の空からオレンジ色の光が注ぎ始めている。
「違うよ、これはあ──」
振り返り、答えて──絶句した。
彼は、月出 叶人は
土気色の顔で眠っていた。
息絶えていた。




