怖がり少女が握るモノ
彼はいつも、そこで待っていた。
あの子が気がかりで、その場から離れることが出来なかった。
あの子との大事な思い出の場所。
会いにいこうとすれば、会いに行ける。
しかし、彼は、どうしてもそこであの子を待ちたかった。
あの子が、もし、この思い出の場所に来たら。
笑って、あちらへ行こう。
そう思っていた。
どのくらいの月日が経ったのだろうか。
まだ、あの子は来ない。
彼は待ち続ける。
マラソン大会が無事に終わった。
打ち上げ会という名のただのカラオケ大会に参加した灯は、夜道を歩いていた。
マフラーが必要な寒い季節。
冬の冷たい空気。
息は白い。
誰もいない。
住宅街を歩いてたはずなのに、気がついたら見知らぬ道にいる。
あたりを見渡しても、真っ暗で何も見えない。
大きな白い満月が、灯だけを照らしている。
灯は、身震いをした。
そして、抱えていたある物を強く抱きしめた。
特大サイズの亀のぬいぐるみだ。
マラソン大会で優勝したら貰える景品。
灯は、もちろん優勝なんか出来なかった。
優勝した友人に譲ってもらったのだ。
カーン
カーン
灯の後ろから、そんな高い音が聞こえた。
聞いたことがある音である。
カーン
カーン
また聞こえた。
カーン
カーン
灯は音が何か分かった。
“火の用心”といいながら、鳴らす拍子木の音である。
カーン
カーン
その音は、徐々に灯のほうに近づいてきている。
カーン
カーン
普通なら、火の用心、と言うだろう。
しかし、火の用心、と言わないソレに灯は、脅えた。
いたずらか、変質者か?
灯はマラソン大会で疲労している足に鞭打ち、音から逃げるように走り出す。
道の先に、ぽうっと光が見えた。
人だ!
そう思った灯は、その光のほうに近づく。
カーン
カーン
拍子木の音は、灯の真後ろにまで聞こえきた。
灯はもつれそうになる足を叱咤し、その光まで全力疾走する。
その光に近づくと、提灯も持っている着物の男性がいた。
灯は何も考えず、とっさにその男性の着物の裾を掴む。
カーン
カーン
かなり近づいてきた拍子木の音。
カーン
カーン・・・
徐々に遠のき、やがて聞こえなくなった。
なんだか分からなかったが、灯はほっと安心し、息をつく。
「送り拍子木か。珍しいな」
男性は、そう呟いた。
灯は男性の着物を掴んだまま、身長の高い男性を見上げた。
男性は、灯を見下ろして、にこっと微笑んだ。
「迷子だね?」
まだ心臓がバクバクしている灯は、周りを見渡すと、知らない場所であることに気づいた。
灯は、涙目で頷いた。
「送ってあげるよ」
優しくそう言う男性に、灯はなんの不信も抱かずについていった。
静かな夜の道を男性と2人で歩く。
男性が何も喋らないので、灯もただついて行くのに専念した。
「このまま、まっすぐ歩けば、元の道に戻るよ。気をつけてね」
男性が止まり、そう言った。
「はい。ありがとうございます」
灯は、笑顔でお礼を言った。
「どういたしまして。じゃあ、またね」
「うん、またね!」
手を振り、灯は言われたまま、まっすぐ歩く。
気がついたら、住宅街に戻っていた。
男性がいたはずの所を振りかえっても、そこには誰もいなかった。
「灯」
名前を呼ばれ、声の方を見る灯。
心配して迎えにきた灯の兄だった。
「お兄ちゃん!あのね、迷子になったんだよ!そしたら、火の用心の木のやつをカンカン鳴らしながら、追いかけてくる変質者がいたのね!逃げてたら、提灯をもって着物着た男の人がいて、ここまで送ってくれたの」
灯の兄は、灯の両頬を両手でつかみ、ひっぱった。
「ひ(い)、ひたいほう(いたいよぅ)」
「このバカ!知らない人についていくなって言ってるだろ!」
頬を痛いぐらいにひっぱられている灯は、口答えせずに、必死に頷いた。
兄はため息をつき、灯の抱いている特大サイズの亀のぬいぐるみを持った。
そして、灯の手をつかみ歩きはじめる。
「それにしても、この無駄に馬鹿でかい、気持ち悪い亀はなんだ?」
「気持ち悪いだとぉ!?」
「気持ち悪いだろ、これ」
「気持ち悪くない!ばかばかばか!」
「は?お前がばかだ」
「ぐっ」
そんな会話をしながら、2人は家への道を歩く。
灯と灯の兄は、家に帰ってきた。
父親が帰ってきており、母の手料理の夕食を皆で食べる。
「今日ね、途中で迷子になってね。そうしたら、後ろから火の用心でよく鳴らす木のやつをカンカン鳴らしながら、追いかけてくる変質者がいたんだよ!怖かったー」と笑いながら言う灯。
「へぇ、送り拍子木だな。それは」灯父。
「送り拍子木って?」灯兄が聞く。
「“火の用心”て言って拍子木を打ちながら夜見回りをする人がいるでしょ?あの人達が打ち終えたはずの拍子木の音が同じような調子で繰り返して聞こえるのよ。けど、背後を振り向いても誰もいないの。まぁ、そんないたずらをする奴で悪い奴ではないわ」灯母。
「へぇー、いたずらっ子だったのかぁ。あ、あのさ!冬に着物って寒くないのかな?」灯が急に話を変えた。灯は自慢じゃないがO型だ。彼女の頭の中で話はつながっているのだが、他者から聞いたら急に話がとんだように思わせる。けど、しょうがないO型なのだから。
「そうそう、灯が迷子になったときに提灯をもった着物の男が助けてくれたんだってさ。親父、お袋、心当たりある?」灯の兄が灯を無視して、そう言った。
「提灯をもった着物の男・・・まさかな」
「あはは、そんなまさか」
灯の父と母は、顔を見合わせて、ひきつった笑みを見せた。
そして黙り込む。
その様子をみた灯の兄は、眉をしかめた。
灯はテレビを見て爆笑している。灯兄は、その灯を見て、ため息をついた。
特大サイズの亀のぬいぐるみを持ち、灯は公園にいた。
亀が大量繁殖している池がある、公園だ。
何故来たかと言うと、この公園には、灯が小さい頃から知り合いの老人がいる。
灯が亀好きなのを知っている、彼にこの亀のぬいぐるみを見せたかったのだ。
灯は池にいる亀の数を数えていた。
「あれ、35匹しかいない。一匹どこ行ったんだろう?」
灯は首を傾げて、池を見て、1匹を必死に探す。
この池には36匹の亀がいる。
いつも、この36匹の亀を数え終わった時に、あの老人が現れるのだ。
彼に会いたかった灯は、必死であと一匹探す。
「もー。いない。どこだろう?」
「何か探してるの?」
そんな灯に声をかけた人がいた。
灯は振り返り、その人物を見る。
細身で優しそうな、眼鏡をかけた大人の男性だった。
「亀を探してるの」
「亀?池の?」
「うん。36匹いるんだけど、今日は35匹しかいないの」
きょとんとした男性は、次に微笑んだ。
「そうなんだ・・・。僕が小さい頃も、数えてたんだよ。僕以外もいたんだね、数える子」
「あ、お兄さんも数えてたの?きぐうって奴だねぇ」
「うん、奇遇だね。僕の記憶では、35匹だったんだ。一匹増えたのかな」
「へぇー!お兄さんの時代は35匹だったんだ!面白い!」
「あはは、面白いね」
「お兄さんは、何を探してたの?」
灯がそう言うと、お兄さんは目を見開く。
「・・・人、かなぁ」
「人探し?」
「人探し、みたいなものかな。本当は、ここに来たくなかった。思い出の場所だけど、僕には嫌な場所でもあるから。けど、いつまでも、引きずってたら、おじいちゃんが報われないって、嫁さんに怒られてさ。背中を押されてやっと来たんだ」
「そうなんだ。じゃあ、おじいちゃんを探してるの?」
「あはは、そういうことになるかなぁ。僕は本当におじいちゃんっ子でね。両親が忙しいかわりに、いつもおじいちゃんが、ママチャリに僕を乗せて、どこでも連れて行ってくれたんだ。電車が見たいって言ったら、線路沿いを自転車で走行したし、公園に行きたいって言うと必ず、ここに連れてって、一緒に遊んでくれた。ここで、おじいちゃんが作ったおにぎりを食べて、2人で亀を数えてたんだ」
「そのおじいちゃん、私、知ってるよ」
「え?」
「あなたの名前、ヒロ君でしょ?」
「なんで、それを・・・」
男性は、ヒロ、という名前だったらしく、灯を見て驚いている。
「いじめられっ子のヒロ君でしょ。いつも、じぃじが助けてあげてたって、よく言ったよ」
「他には!他には何て言ってた?」
ヒロは、灯の肩をつかみ、そう言った。
「ええと、ヒロ君は泣き虫で、高い高いをしたら泣きやむ。ヒロ君は電車が好きで、線路沿いを自転車で走ると、すごく喜ぶ。ヒロ君は寂しがりやで、いつもじぃじの手を掴んで、じぃじに甘えてた。とか」
ヒロは、灯の肩から手を離し、悲しそうに顔をゆがませてうつむいた。
「あ、じぃじが、よく言ってる言葉があったよ。さすがに何回も言うから覚えちゃった」
ヒロはもう一度、灯を見る。
しばらく黙り込み、そして口を開いた。
「教えてくれないか、その言葉を・・・」
「え?うーん・・・。もうすぐ、来るから、直接聞けばいいと思うよ」
「いや・・・。君から聞きたい」
灯は首を傾げる。
そして、灯は、お爺さんがよく言う言葉を言った。
『 』
彼は、灯の言葉を聞き、静かに涙をこぼした。
ヒロは、4人家族だった。
両親と、一人っ子のヒロ、そして祖父。
医師として働く両親は忙しく、ヒロの世話をするのは祖父だった。
保育園の見送り、お迎えも。
運動会の応援も。
お弁当作りも。
参観日も。
休みで遊ぶのも。
何かを教えてくれるのも。
全て、祖父がやってくれた。
ヒロが泣いていると、祖父がすぐに来る。
「何があったんだ?」
「ヒック、ヒック、あ、あのね、ぼくはみんなよりちっちゃいから、ヘンなんだって。だからね、ヒック、ヘンなやつはなかまにいれないって!じぃちゃん、ぼくってヘンなの?」
祖父は穏やかに微笑み、日に焼けた、しわくちゃの大きな手のひらで、ヒロの髪をくしゃくしゃにして撫でた。
「ヒロや。よく考えてごらん。この前、お前は、紫陽花がなんで紫陽花には赤や青や紫の色があるのか、聞いてきただろう。その時おじいちゃんはなんて言ったか覚えているか?」
「うん、つちがちがうと、いろがかわるんでしょ?」
「そうだ。えらいぞ、よく覚えてた。さすが、私の孫だ。紫陽花は土の内容が変わると色も変わる。ヒロ、お前の友達は皆同じところから産まれて、同じところで住んでいるのか?」
「ううん。みんな、ちがうところでうまれて、ちがうところですんでるよ」
「うんうん、そうだろう。紫陽花と一緒なんだよ、人は。紫陽花が場所によって、赤、青、紫、と色を変える。それとおなじで、ヒロや他のみんなも産まれたところや住んでるところはみんな違う。おおきい子もいるだろう。ヒロみたいにちいさい子もいるだろう。ヒロは、紫陽花をみて、綺麗だねぇと言ったね?」
「うん、きれいだった!」
「そう、紫陽花は、どんな色でも綺麗だっただろう?紫陽花のいいところはそこだとおじいちゃんは思ってる。おおきい子もちいさい子も確かに周りとは違う。だけど、みんな、紫陽花と一緒で、絶対いいところがある。みんなはまだヒロのいいところがあることに気づいていないんだ。おじいちゃんは、ヒロのいいところをいっぱい知ってるよ」
「ほんとう?ぼくのいいところってなに?」
祖父は、目尻にしわをいくつも作り、笑った。
「ヒロが大きくなったら・・・そうだな、ヒロが結婚したら教えてあげるよ。それまでは、ヒロ、みんなに変だと言われて泣く前に、こんな風に考えてごらん。ヒロの小さいところも、紫陽花の色が違うのと同じで、変ではない。そうは思わないか?」
泣き止んだヒロはこくんと頷いた。
そして、夕焼けに染まった道を祖父と手をつなぎ、帰る。
かさついた、でも大きい、日に焼けた大きな手。
優しい眼差しと、しわがたくさんある目尻。
低くて、静かな声。
ヒロは、そんな祖父が大好きだった。
母よりも、父よりも、ほかの誰よりも。
小さい頃の思い出は、ほとんど祖父とのものだった。
そんな大好きな祖父との別れは、いきなりだった。
それは、ヒロが原因だった。
ヒロが8歳になった時。
学校が休みで、祖父と一緒に、いつも行く公園にいた。
駄菓子屋でもらったスーパーボールを地面に叩きつけて、バウンドさせて遊んでいた。
ヒロは、スーパーボールを地面に強く叩きつけた。
そうすると、スーパーボールは勢い良くバウンドして、ヒロのそばから離れてしまった。
ヒロは、祖父のそばから離れて、スーパーボールを追いかけた。
スーパーボールは、公園の外の道路まで転がった。
ヒロも道路に勢い良く飛び出した。
「ヒロ!!」
祖父の叫び声。
そして、車のタイヤのすれた音。
ヒロの目の前に、車が突進してきている。
ヒロは目をギュッとつぶった。
温かいものに抱きしめられる。
ドンッという強い音と、振動。
温かいものが、ヒロを巻き込んで倒れる。
倒れたヒロは、目を開く。
温かいものは祖父だった。
祖父が、ヒロを抱きしめている。
祖父は、血だらけだ。
女性の悲鳴が聞こえる。
ガードレールにつっこんだ車が煙をあげている。
お
おじいちゃん?
血だらけの祖父の服をギュッと掴み、その顔を見る。
祖父は苦しそうに顔をゆがませていた。
祖父の、大好きなしわくちゃの日に焼けた、大きな手をつかむ。
祖父は、かすかに口角を上げた。
なにか言おうとして、祖父は口を開けた。
しかし、何も言わず、いや言えなかったのかもしれない、口を閉じた。
そして、ヒロの小さい手をギュッと力強く握った。
祖父は、ヒロを見つめながら、ゆっくり目を閉じた。
握った手の力が緩まる。
ヒロは、祖父の手を強く握り返す。
「おじいちゃん?おじいちゃん!寝ちゃ、ダメだよ。おじいちゃん、起きて。おじいちゃん、起きて!」
救急車が来た。
祖父と引き離された。
泣いてる父と母に、おじいちゃんに会いに行くと言われ、暗い部屋に入った。
横たわり、顔に白い布をかけている祖父。
ヒロは、白い布をとり、祖父を起こそうとする。
大好きなしわくちゃの日に焼けた大きな手を握り、祖父に声をかけるが、起きない。
何度も何度も呼びかけるが、変わらなかった。
両親がヒロを抱きしめて言う。
おじいちゃんは天国に行ったの。
じゃあ、ぼくもてんごくにいく!
ヒロは行けないの。
なんで?なんで?
ヒロがそう言っても両親は、悲しそうに首を横に振り、何も答えてくれなかった。
祖父のそばにいれない。
それを知ったヒロは泣いた。
事故らしいわよ。
ヒロ君が道路に飛び出したみたいで。
それを守って亡くなったんですって。
葬儀で、そんなふうにヒソヒソと話している女性たちの会話がヒロの耳に入った。
おじいちゃんは、ぼくのせいで
てんごくにいかないといけなくなったんだ。
ヒロはそう思った。
白い箱に入ってしまった祖父。
箱に入った祖父をどこか連れて行こうとする大人たち。
どこにおじいちゃんをつれていくの?
てんごくだよ。
おじいちゃんはてんごくにいくんだよ。
やだ!やだ!
おじいちゃん!
おじいちゃん!
暴れて、祖父の元に行こうとするヒロを抑える大人たち。
ぼうっと、祖父の入った箱は炎に包まれた。
ヒロは、その炎を呆然と眺めた。
家に帰ると、おかえり、と言ってくれた祖父がいない。
祖父の作ってくれる、形がいびつなおにぎりも、もう食べれない。
2人で、こたつに入り、みかんを食べながら、紅白をみた。
それも、一人だ。
それから、ヒロはふさぎ込むようになる。
祖父はヒロのことを恨んでいるのではないか。
やり残したことがあるのではないか。
対して、孝行もしてやれなかった。
不幸な人生の終わり方をさせてしまった。
自分のせいで。
ヒロは、祖父との思い出の公園に行けなかった。
祖父の最後を思い出してしまう。
そして、あそこには祖父がいるような気がしたからだ。
そんなはずはないが。
自責の念が強いヒロは、いくことができなかった。
そんなふさぎ込むヒロを健気に支えてくれる一人の女性が現れた。
彼女は、祖父のような性格をしていた。
穏やかで、賢くて、ヒロの背中を押してくれる、そんな優しい女性。
彼女が、いつもそばにいてくれた。
ヒロは彼女を愛した。
籍を入れ、彼女のお腹に2人の子供が宿る。
ヒロが28歳になった時だった。
大きくなる彼女のお腹をみて、ヒロは呟いた。
自分が幸せになっていいんだろうか、と。
なっていいに決まってる、と彼女は笑った。
そんな彼女に初めて、祖父のことを話した。
共に、泣いてくれ、そして怒った。
ヒロ君がそんなんだと、おじいちゃんはずっと心配してるよ。
もしかしたら、本当に思い出の公園にいて、ヒロ君を心配しているかもしれない。
早く、おじいちゃんに、幸せの報告をしてきなさい!
そう喝を入れられた。
そして、20年ぶりに公園にきたのだ。
あの事故のあった、そして、祖父とよく来た思い出の公園。
やはり、祖父はいない。
いるはずはないのだが。
亀がいる池に、でかい亀のぬいぐるみを抱いた女の子がいた。
その後ろ姿が、池を眺める祖父の姿に似ていたため、つい声をかけたのだ。
そうして話していくうちに、女の子が祖父を知っている、と言った。
そんなはずはなかった。
女の子は明らかにヒロより10歳以上は年下だ。
祖父が死んだ頃に、まだ女の子は産まれてきてないだろう。
しかし、話を聞くと、ヒロが他人には話したことのない祖父との思い出を話す。
本当に、死んだ祖父と会って話しているようであった。
祖父がよく言う言葉があるらしい。
ヒロへの恨みか。
残りの人生の悔いか。
そう思ったヒロは、それを聞くか、悩んだ。
しかし、ヒロは、聞く決意をする。
祖父の、聞くことができなかった、最後の言葉が聞きたかった。
言葉を紡ぐ女の子の優しい笑顔は、祖父のような笑顔だった。
彼は泣いた。
灯は、いきなり子供のように泣きはじめたヒロに、驚く。
どうしようかとオロオロしていると、一人の妊婦がゆっくり歩いてきた。
「ヒロ君、おじいちゃんに会えたの?」
妊婦はヒロの背中を撫でる。
ヒロは、頷いた。
妊婦は穏やかに笑った。
彼の嫁だろうか。
灯が妊婦の大きいお腹をみて、すごいなぁと感心してたら、妊婦がその視線に気づいて、お腹をさすり、笑った。
「この子ね、もうすぐ産まれるの。はやく出たいって、元気よく動くのよ」
「へぇー!」
灯が目をキラキラさせて、妊婦のお腹をじっと見る。
「さわってみる?」
「え、いいんですか?」
灯が聞くと、妊婦が笑いながら頷く。
灯は、そっと妊婦のお腹を触る。
お腹は張っていて、灯が触ると、体動した。
「あ、ほら。動いたでしょ?触るときに偶然動くのは、珍しいんだけど」
妊婦がそう言って、灯は嬉しくなり、お腹を撫でた。
そして、お腹を見つめながら、灯は口を開き、言葉を紡いだ。
『君は男の子だね。赤ん坊や。元気に産まれてきなさい』
妊婦が目を見開き、そして、目をこすり、再度灯をじっとみる。
灯は、見つめてくる妊婦に、首を傾げた。
落ち着いたヒロと妊婦は、しばらく池を見てぼうっとしていたが、日が暮れると2人仲良く帰っていった。
灯は、また亀を数え始めた。
「33、34、35、36!あれ、全員いた!よかったぁ」
灯は手を叩いて、喜んだ。
「灯のお嬢ちゃん。こんばんは」
気配なく灯の隣に立っていた老人が灯に声をかけた。
「ひいっ!びっくりした!じぃじ、こんばんは」
灯は小さい頃から、暇さえあればこうやって亀の数を数えてきた。
出会いはいつか忘れたが、この老人は灯が亀を数え終わると必ず現れて灯と話す。
いつも、この老人の怖い登場には慣れずに、灯は心臓をばくばくさせる。
祖父や祖母を知らない灯は、この老人が祖父のようなものだった。
親しみを込めて、じぃじと灯は呼んでいる。
彼は灯が抱いている亀のぬいぐるみをみて、微笑んだ。
「可愛いぬいぐるみさんだね」
その言葉を聞いて、灯はパァッと満面の笑みを浮かべた。
「可愛いでしょ!昨日の夜、お兄ちゃんに馬鹿にされたんだよ!あのね、じぃじならきっと可愛いって言ってくれるんじゃないかと思ってきたの!」
「そうか」
2人は微笑み合う。
「さっき、ヒロ君がじぃじに会いにきたよ」
その灯の言葉を聞いて、彼は目を細めて、笑みを深める。
目尻のしわが、彼を優しく見せた。
「ヒロ君のお嫁さんも後から来たよ。お腹に赤ちゃんがいたの。さっき帰ったから、追いかけたら、会えるよ。私が探してこようか?」
灯がそう言うと、彼は首を横に振る。
「いいんだ。灯のお嬢ちゃんとヒロが話しているのを実はこっそり見てたんだよ」
「そうなの?来たらよかったのに。私、お嫁さんのお腹触ったんだよ。そうしたら、ちょうどその時、赤ちゃんも動いたの」
「うん、そうだね。元気が良さそうな男の子だった。灯のお嬢ちゃんのおかげで彼にも挨拶が出来たよ。ありがとう」
「そっかぁ」
よく意味がわからなかった時に、適当に笑って返事をする。これは灯の悪い癖だ。
「じぃじ、曾孫が産まれるの、楽しみだね」
「そうだね、楽しみだ」
「またヒロ君が休みの時に来るってよ。もしかしたら、次は赤ちゃんを抱っこして来るかも。じぃじ、いつもみたいにここにいればヒロ君たちに会えるよ」
「灯のお嬢ちゃん、私はね、もうここには来ないよ」
「え?なんで?」
「遠くにいる、婆さんに会いに行かないと行けなくなったんだ」
「お婆ちゃん、遠くにいるの?」
「そうなんだ。ずっと一人で待たせてしまった」
「そっか・・・。じゃあ、さみしくないように、早く行ってあげないとだね」
「ああ、灯のお嬢ちゃん。今まで、本当にありがとう。君のおかげでヒロをまってる間、私は寂しくなかったんだ。全部、全部、君のおかげだ。言葉も伝えられたのも、ヒロの息子に触れることができたのも。君は私の2人目の孫娘のようなものだった。君も幸せになれるように願ってるよ」
彼は、しわくちゃな日に焼けた、灯より少し大きい手で、灯の手を掴んだ。
その手は、どことなく温かかった。
灯は、その手を握り返す。
「じぃじ、私もじぃじに会えてよかったよ。元気でね、お婆ちゃんと仲良くね」
灯がそう言うと、彼は、微笑んだ。
『本当に、ありがとう。さようなら』
ざぁっと風が強く吹く。
枯れた木の葉が飛んできて、灯は、目をつぶった。
次に、目を開くと、そこに彼はいなかった。
灯は呆然とした。
そして、自分の頬が濡れていることに灯は気づく。
泣いてるんだ。
それに気づいた灯は、ふいに悲しくなり、亀のぬいぐるみに顔を埋めて、静かに泣いた。
「あの子の笑顔が、おじいちゃんの笑顔に見えたんだ」
ヒロはそう呟いた。
「わたしも、お腹撫でてもらった時に、一瞬おじいちゃんの顔に見えた」
彼女もそう言う。
2人は何かを考えるように黙りこみ、静かに歩く。
ヒロは、女の子が紡いだ言葉を思い出す。
『私にはヒロという孫がいる。
泣き虫で寂しがりやで甘えん坊の小さくて幼い男の子だ。内気やら、静かやら、周りはなんやかんや言うが、私の自慢の孫だ。ヒロは、私の長い、そして子供には難しい話を最後までちゃんと聞く。こんな素直な子供は他にいない。素直で、感情が豊かで、こんな老人を慕ってくれる。最高の子供だ。私の大好きな、孫だ。
私は、そんな孫を守ることが出来た。それは、とても誇らしいことだ。しかし、やはりヒロが心配でここにいる。
ヒロ、幸せになれ。
そうすれば、安心してあちらにいける。
私の大事な、大好きな孫。
幸せになれ』
ヒロは、その言葉をかみしめる。
そして、隣にいる幸せーーー身重の妻の小さい手を握る。
妻は、嬉しそうに、優しく笑い、握り返す。
夫婦は、夕焼けに染まる町並みを、ゆっくりと2人で歩いた。
「ここにいたのか」
そんな声に灯は、顔をあげた。
灯の兄だった。
泣いている灯を見て、兄はギョッとする。
「なにがあった!?」
「じぃじが、遠くに行っちゃった。お婆ちゃんのところに行くんだって」
灯がじぃじと呼ぶ老人のことは、兄は知っており、会ったこともある。
「そうか、やっと行けたのか・・・」
瞳に涙を浮かべている灯の髪を撫でる、兄。
「灯、実はな」
灯の兄は真剣な顔つきで灯に言葉をかける。
「昨日は馬鹿にしたが、その亀、よく見たら可愛いな」
「でしょ!」
灯は、パァッと満面の笑みを浮かべて、そう元気良く言った。
それを見た、兄は安心したように息を吐き、笑った。
その頃、灯の家では。
「やばいぞ、母さん」
「どうしたの、お父さん」
電話をしていた灯の父が、青ざめて灯の母に声をかけた。
「俺の実家から、冬に帰って来い、と命令が・・・」
その言葉に、灯の母は、顔をひきつらせた。
灯が迷子になったときに提灯をもった着物の男が助けてくれたんだってさ。親父、お袋、心当たりある?
ええ、ありますとも。
考えたくもなかったけど。
「灯・・・あの子、会っちゃダメな奴に会ったのね」
「ただいまー」
亀のぬいぐるみを抱えて、能天気に笑いながら帰ってきた灯と、灯の兄。
それを見て、灯の父と母は、ため息をついた。
そんな灯が
拍子木を鳴らして追いかけてくる、いたずらっ子と
じぃじにびびった
そんな2日間の話。