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翌朝、建てたばかりのきれいな家をさらに掃除して、建築士の到着を一家で待っていた。
甥の太陽はおかまいなしに暴れている。
スナックを与えておけば少しは大人しくなるが、そのスナックをどこにでも放り出すので目が離せない。
かといって義姉が見張っているわけでもなく、奈々子が結局あとを追って玄関を開けると、門の前に人影があった。
予定通りの時間だったので呼び鈴を押す前に奈々子が、今開けますと声を掛けて門を開けに行った。
「こんな休日の朝から勝手な申し出を受けて頂いて申し訳ありません」
そう言いながら建築士が下げた顔を上げて、奈々子の顔を見て言葉を止めた。
紺のスーツを着た長身の青年。
多分二十代後半。
今時珍しい真っ黒な髪。メガネの奥には知的なつり目。
母の言うように中々のイケメン。
その初めましてのはずの相手に
「……あれ?先生」
と呼ばれた。
初めて出会う明らかに年上の男性に、先生などと慣れない肩書きを呼ばれて奈々子は呆然としていたが、相手は構わず独り言のように横を向いて言葉を続けた。
「ああ……就職でお戻りになる娘さんって先生でしたか」
その端正な横顔を見つめたまま、私をせんせえって呼ぶのは園児だけよね、とまず考えた。
「まぁ、奇遇ですね」
そう言って建築士は奈々子にわずかな笑顔を向けた。
それにやられてグラリと思考が停止した。
「お~い。健介」
建築士が聞き覚えのある名前を呼んだ。
そして子供の走る小刻みな足音が近づいてくる。
「あー!先生!ここ、先生のお家?」
奈々子が顔と名前を知っている数少ない園児が走ってきて、建築士の足元で停止した。
「そうだって。そういえば土谷邸だった」
建築士が健介の頭をかきまわした。ああ、その動作は。
「父さんが先生の家建てたの?」
あのときのトラックの運転手……!
「あっ……!え?……あの、」
疑問を声に出そうとしても、言葉にならない。
あの時はサングラスをしていたから、作業着を着ていたから、だってトラックの運転手だとばかり思ったから、
健介と建築士が奈々子の言葉を待っている間にもう一人、二人の横に近づいて止まり、建築士が紹介した。
「それから、うちの会社の役員も同行してます」
そして会釈したのは、昨日会った美しい聾唖の青年。
奈々子は驚いてただ言葉を鸚鵡返しした。
「……役員……?」
「取締役」
いえ、あの、語句の意味とかではなく、と慌てている奈々子を見てあの美しい青年も驚いている。
「あ、あのね、昨日先生に会ったんだよね!デパートでね!」
健介がその表情の説明をした。
「ああ……それはまた、奇遇でしたね」
建築士が少し頭を傾げて笑った。
奈々子は落ち着こうと手で胸元を押さえて、しかし頭に浮かんだ単語を漏らしてしまった。
「……取、締役……?御曹司……?」
それを聞いた建築士は一度瞬きをして視線を上に動かしてから、また少し笑った。
「なんだか、クラシックな単語ですね。確かに御曹司って言えば資産家の御曹司ですけど、とっくに自分で稼いでますからただの金持ちです」
奈々子はまた呆然として言葉を失った。
その時玄関から母親が顔を出して奈々子を呼んだ。
「そんなところで失礼でしょ!入っていただいて!」
「あ、そうですね、ごめんなさい、どうぞ」
やはり慌てて門を開け、奈々子は客人を玄関に招きいれた。
その時にもう一人遅れて走ってきた。
そして玄関には太陽が飛び出してきた。
「なんで置いていくのさ!」
と甲高い声で叫びながら玄関までノンストップで駆け込んできたのは、健介を保育園に迎えに来たあの時の美しい女だった。
彼女とも顔見知りであり、やはり奈々子の顔を見て驚いたのだが、その直後太陽の姿を見て女が怒鳴った。
「なんて格好してるの!一昨日風邪で病院に来たくせにこれじゃまた熱出すでしょ!」
太陽がその声に文字通りビクリと飛び上がった。
「お母さん!何度も言ったでしょ!暖かくして栄養のあるものを食べさせなさい!こんなお菓子を握らせておかない!」
そして女が突進して太陽の体を抱え込み、お菓子を取り上げた。
太陽の泣き叫ぶ声と同時に義姉が現れ、あ、あら、病院の、と慌てて愛想笑いを作って太陽を引きずって行った。
「この子には本当は薬も注射もいらないんだよ!そう言ったでしょ!」
また怒鳴る女の足を建築士が蹴った。
いい加減にしろ、と口が動いた。
「あの~、こちら、看護婦さん?」
母が本気で愉快そうに女に訊ねた。
女が一瞬眉をひそませてから
「看護師です」
と答えた。
「すみません。お騒がせして。あの、すぐ帰りますのでお願いします」
建築士がその返事を遮って母に頭を下げた。
「えぇえぇ、まぁ上がって下さい。まだ日が経ってませんから、そんなに物も入れてませんしご自由にどうぞ」
四人揃ってまずリビングで父と兄に挨拶をして手土産を渡し、建築士とその息子、役員と同居人という紹介を済ませてからリビングを一回りして、階段を登って二階の見学に行った。
「あああ……!雪の華20個!……負けた!」
母が小声で感嘆する。
「そうか……!昨日これを買いに行ってたんだ!」
いまさら奈々子が気付く。
「じゃ、昨日言ってた虐待の父子家庭って、もしかして、」
まだぐずる太陽を転がして義姉が挟まってきた。
「まぁとにかく、二階にお茶とお菓子持っていってよ」
母が奈々子に頼んだ。
「まさかあんたのところの園児の親だとはねぇ……」
「てゆ~かまさか、あそこの看護師とは……」
母と義姉が同じようにため息をついた。
急いでお盆を持って二階の空き部屋に行って見ると、四人が楽しそうに窓から外を眺めていた。
「ここから落ちると死ぬ?」
「落としてみようか?健介」
女と健介が窓でじゃれている。
それを建築士と役員が眺めている。
「お茶、お持ちしました」
建築士だけが振り向いた。
じゃれている二人と聾唖の青年には聞こえない。
「やめてよ!秋ちゃん!」
叫ぶ健介の腕を役員が掴んで体を抱えた。
「なんでそんなにいじわるなのさ。秋ちゃんは」
健介が膨れて女を責めた。
女が美しい笑顔で健介の頬をつねると、健介も笑った。
お盆をテーブルに置き、向かい合った形になった建築士に奈々子がつい訊いた。
「看護師さんなんですね。同居されてるとお聞きしましたけどご結婚はされないんですか?あの、秋ちゃん、だと秋子さん?アキナさん?それとも……」
「秋彦です」
建築士を凝視した。
秋彦。
男。
この、顔で男。
男だとしたら、同居しているとしたら、ご結婚なんて、この二人はもしや、
「違います」
「えっ?!」
「一応先回りしてみました。大抵誤解されるので。うちの内情は園長にきちんと伝えてあるんですけどね。お聞きになってないですか?」
落ち着いた声で説明された。
「健介が二歳で母親が死亡。一人で育てるのは無理だったので、あいつに来てもらって育児を頼んだ。それだけです」
「は、いえ、聞いてなくて、」
「一応国家資格を持った看護師なんでね。子供を扱えるかと思ったんですが思いの外……」
建築士が顔を顰めていた。
「それであの、役員さんが……?」
「はい。彼の方がよっぽど健介が懐いてる」
懐いてるなんてそんなあっさり、こんなに若くてしかも障害者に我が子を預けるなんて、と奈々子はその端正な横顔に育児に無関心な冷徹さを見た気がした。
「でも、あの方ってその、耳が」
不自由なんですよね?と続けようとして一瞬躊躇った。
その合間に建築士が続けた。
「そうです。耳聞こえないんでね。だから健介が懐いてる」
「え?」
全く予想外の答え。反応のしようがない。ただただ相手を凝視した。
「どれだけ健介が奇声上げても、どんなに癇癪起こしても、彼だけが平気で健介を抱いていられる。だから健介も一番彼を信用してるんじゃないですかね。一番粘り強く健介の相手するのが彼です。一番意地の悪いのがあいつです」
建築士が役員と看護士を順番に指差した。
健介は、役員の首にぶらさがっていた。
「そう……ですか。それじゃ、お話できないのが残念ですよね」
自分の持っていた差別意識を隠すためにおもねったつもりだった。
「いや、話してますよ。健介は手話が得意です。私は全くダメなんですけどね。子供は吸収が速いです」
健介が、父さん!と建築士を呼んだので奈々子に会釈をしてその場を離れた。