3
翌日土曜日はお昼までの勤務だった。
兄は休みで一家揃って平日の出勤よりも早い時間に行楽に出かけた。
保育園でも親が土曜休みの子は登園しない。
オレンジ組の健介くんもきていないのであの父が休みなのだろうと奈々子は考えていた。
まだ全然園児の顔と名前が一致しない中、覚えた一人が登園しないのは寂しい気がしていた。
昼過ぎに勤務を終えて、その足で昨日母に頼まれた菓子を買いにデパートに向かった。
土曜日は交通量も多くろくにアクセルを踏めないまま繁華街の地下駐車場に車を潜らせた。
地下一階の食品売り場。
地下入り口付近にはまずフルーツショップが豪華な瑞々しい果物を並べている。
通り過ぎると老舗漬物店、その先に高級和菓子、洋菓子の店ごとのコーナー。
その一角を目指して、美しい可愛らしい色々な食品で目の保養をしながらゆっくりと歩いた。
八百屋や魚屋ではないので比較的静かな食品売り場に、特に奈々子の目当てである高級和菓子店は落ち着いた客層が好むディスプレイなのだが、まさにそこから子供の甲高い声が聞こえた。
「あのね!そっちじゃないの!赤いのじゃないの!」
目を向けると、長身で細身で長髪の男が子供を抱えて店員と相対している。
「えっとね、20個。それとね、5個」
抱えられた子供が注文している。奈々子は眉を顰めた。
なんと迷惑なことか。
親は社会経験をさせているつもりかも知れないが、相手をさせられる大人はたまったもんじゃない。
こんな子供でも客である以上一人前に扱う必要はあるが、敬語も使わせない親には不快な思いを抱く。
「お金はこれであるよね?」
支払いまでさせる気だ。
「おつりは合ってる?」
子供は抱いている大人に確認している。
計算もできないのなら、そもそもその大人が注文して支払いをすればよいのだ。
まるっきり不愉快になりこの二人を睨んでいると、店員が気付き声をかけてきた。
「お客様、お決まりでしたら……」
その店員の目線で二人も後ろを振り向いた。
「あ!先生!」
縮めていた眉間がパリっと開いた。
「……健介くん?」
今日保育園をお休みした、奈々子が名前を覚えている数少ない園児。
そしてその園児を抱いているのは、あの巨大な父親でもなければあの美形の彼女でもなく、若くて美しい男性。
栗色の長い髪の毛を無造作に一つに縛り、それと同じ色の色素の薄い瞳で奈々子を見詰めている。
耳には赤いピアス。恐らくどんな男性がつけていても下品にしか思われないようなルビーを、この色しかありえないような完璧なコントラストで飾っている。
こんな色が似あう男なんて日本にいるはずがないのに。
その美しい男性が奈々子をちらりと見つめたが、すぐに腕の中の子供に視線を戻した。
あら……。
同年代なのに少しくらい興味持ってくれない?
また奈々子が少し眉を顰めて俯いた。
その間子供が男性に説明していた。
「新しい先生。保育園の」
妙にゆっくりはっきりした声だ、と気付き奈々子が目を上げると、男性が微笑んで子供の前で片手を動かしていた。
ひらひらと。
それを子供も微笑んで見ていた。
そして二人ほぼ同時に奈々子に顔を向けて、子供が声を出した。
「可愛い先生だねって」
大げさでなく、血の気が引いた気がした。
この美しい青年は、聾唖者だ。
だから、健介くんが代わりに買い物をしていたのだ。
そんなことも気付かず内心文句を言っていた自分の浅薄さを知り、情けなくて曖昧に笑った。
奈々子が夕方近く帰宅すると、兄一家も家にいた。
リビングの扉を開くと足になにかがドカっとぶつかってきた。
「いたぁ~~~~~いっ!!!!」
叫び声に驚き下を見ると、甥の太陽が転がって被害状況をアピールしていた。
「ああ、ごめんごめん」
勝手にぶつかってきておいて太陽は謝る奈々子の足を一度叩いてからビ~~~と泣きながら母親の元に戻っていった。
「奈々さんにもお土産あるのよ」
義姉がそう言って袋を突き出した。
「あ、ありがとう。どこに行ってきたの?」
腕を伸ばしたまま有名な遊園地の名前を口にする義姉を、その膝に乗る太陽がいきなり叩いた。
「なぁに、タイちゃん。ママ痛いわ」
義姉は笑いながら太陽の腕を取り、奈々子へのお土産を放り出した。
ため息をついてそれを拾い、お礼を言おうとした奈々子に、わざわざ母親の膝から降りて太陽が飛び掛った。
「あらダメよ!タイちゃん乱暴なんだから!」
口だけじゃなくて体で止めて欲しいわ、と今度は腕を蹴られた奈々子はキッチンに逃げた。
「ああ、買ってきてくれた?ありがと」
そう言った母がため息をついた。
「明日、あの子らもいるんだって」
小声で付け足した。
「まぁアヤさんの話聞いたら、今時のあのくらいの子はみんなああだってね。うるさくて落ち着きがないんだって。太陽なんか大人しいくらいって言うけど、そんなもん?」
保育士である奈々子への質問。
いつもなら調子を合わせて、そんなわけない、太陽は特別うるさいよ、と言うのだが、今日はダメだ。太陽はうるさくて良いのだと思った。
「5歳くらいで分別なんかあっちゃおかしいよ。あれでいいの。子供なんかもっと我がままでもいいのよ」
帰り道ずっと健介を哀れんでいた。
「デパートで昨日言ってた父子家庭の子に会ったのよ。それが、お父さんでも彼女でもなく違う人に連れられてて、その人がね、耳の聞こえない障害者なのよ」
「あら……」
「すっごく明るく笑ってて、その人の代わりに買い物なんかもしてあげてて、まだ5歳でよ?」
「可哀想ねぇ……」
「そうでしょ?!」
わがままな太陽は幸せだと思った。
好き勝手に乱暴を働く太陽は健全だと思った。
「まだ5歳で、まるで介助者よ。あんまりだわあの父親……」
本気でそう思った。
同い年の太陽は家族に囲まれて我がまま一杯で育っている。
それを、事情は知らないが片親で、しかも気に入らない女が同居していて、そして障害者の介助まで健介君はさせられている。
「だけど保育園としてはきっと何もできないのよ。虐待なんかないんだから」
社会はこんなふうに難しい。
社会人一年生は痛感している。
「お前が保育園で優しくしてやればいいじゃない」
「もちろんそうするけど……」
「虐待?」
兄嫁がスキャンダラスな言葉だけ耳聡く聞きつけてくる。
「やっぱりあるのよね。私たち普通の家庭では考えられないことだけど」
したり顔で頷きながら語る義姉に、今日は腹を立てる気にはならなかった。