1
一応はスーツを着て、初出勤。
パンプスは低いもの。
どちらも向こうで替えるのだけれど。
「おう、奈々子。早い出勤だな」
二世帯住宅の隣の玄関から出てきた兄も出勤らしく、笑顔で声をかけてきた。
「うん。早くに子供預けにくる親御さんもいるからね。保育園だから」
「なるほどな。幼稚園とは違うんだな。うちの奥さんはまだ寝てるよ。幼稚園のお迎えバスは9時過ぎだからさ」
結構な身分だ。お兄ちゃんの朝食も用意してないってことだろう。
「じゃ、気をつけてな」
義姉の見送りもなく白いステーションワゴンで兄は安全に発進していった。
着替えをいれた大きなバッグを助手席に置いて、奈々子もオレンジの小型車を発進させた。
移動時間10分で勤務先である保育園に到着。
車を降りて緊張しながら職員出入り口を開け「おはようございま」まで口にしたのだがその後は続かなかった。その挨拶も泣き喚き走り回る幼児を追い回す保育士たちの騒動に掻き消されていた。
「あら土谷先生、早かったですね!早速で申し訳ありませんけど、着替えてお出迎えお願いしますね!」
やはりスーツもパンプスも全くの無意味だった。
奈々子は慌てて更衣室に走った。
園児のものとほぼデザインの変わらないスモックを被り、続々と到着する園児を保護者から預かり、時々初めましての挨拶を交えながら朝の登園騒動がそろそろ落ち着いてきた。
そんな頃に、門の前にどっさりと資材を載せたトラックが荷台をガシャガシャ鳴らして停止した。
それまではみな、徒歩、自転車、小型車で母親が小さな子供を連れてきて置いて行ったものだ。
そんな平和な保育園の門の前には場違いな働くトラックが停まって、運転席側のドアを開けて降りてきたのは、作業着を着てサングラスをかけた非常に長身の男だった。
園庭にいる保護者たちも子供たちも、見るからに荒っぽいトラックとそれに似合う悪そうな男に息を飲んでいる。
そしてその巨大な男はトラックの助手席のドアを開け、両手で小さな子供を持ち上げて降ろし、門の横に佇む奈々子の前まで子供の手を引いて歩いてきた。
「……新しい先生ですか?」
男が低い掠れた声を発した。
口を開けて巨大な男を呆然と眺めていた奈々子は、声をかけられ慌てておじぎをした。
「はい!はいそうです!土谷と言います!よろしくお願いします!」
「オレンジ組の健介です。よろしくお願いします」
巨大な男は、子供の頭にポンと手を置いて言った。
「じゃあな。帰りも俺が迎えにくるから」
子供が男を見上げて寂しそうな顔をした。
子供はまだ声を発しない。
男が子供の頭をクシャクシャとかきまわしてから踵をかえし、トラックに乗り込んでもう一度子供に右手を上げて合図して発進していった。
「健介、君?」
いつまでもトラックの走り去った後を見詰める子供に、奈々子は声をかけた。すると子供が振り返った。
「パパはトラックの運転手さん?かっこいいね!」
まずはおだててゴマをすって、子供を喜ばせよう。子供を味方につけ、子供の味方になる。それが保育士第一歩だ。
「いつもあのトラックでここにくるのかな?」
奈々子はにっこり微笑んで話しかけているのだが、子供の表情が変わらない。
「オレンジ組だとお友達は、」
子供の視線に合わせようと奈々子がしゃがんだと同時に子供が奈々子の後ろに走り去った。
「え?」
奈々子はしゃがんだまま、子供の後姿を目で追った。
結局子供の声を一度も聞かないまま、奈々子は健介君に走り去られた。
まずは初日なので全ての組のヘルプとして雑用を専らこなした。
子供と遊んだり布団を出したり紙芝居を用意したり。
一日は早かった。
すぐに日が落ち、子供たちが次々お迎えの保護者に連れられ帰っていった。
人数が減っても子供の世話は終わらない。
大広間でボールを片付けて、腰を伸ばしてため息をついた時に玄関から子供の絶叫が響いた。
「いや~~~~~~っ!!!!!」
慌てて玄関に走り見渡したが人影がない。
あれ?と途方に暮れていると
「いたっ……!」
と今度は大人の高い声。
「だ、誰?」
反射的に答えると、バタバタという足音と共に子供が泣きながら外から駆け込んできた。
「助けて……!」
子供が両手を広げて奈々子の膝元に飛び込んできた。
この子は、朝と表情が一変しているが、オレンジ組の健介君だ。
お迎えはあの巨大なお父さんが来ると本人が行っていたはずだが、まだ来ない…?
そしてその後、ゆっくりと大人が玄関に入ってきて、無言で健介の両肩を掴まえた。
一連の行動があまりに堂々としていたので奈々子も唖然としたまま、健介の体を手放した。
「いやだ~~~~!!!!」
再びの健介の絶叫に我に返り、また慌てて健介の体を奪い返し、相手の女に言った。
「何ですかあなたは!何のつもりですか!」
この女が誰なのか想像しようとした。
例えば別れて親権のない母親、例えば誘拐犯、例えば父親の彼女、いずれにしてもこの子を渡すわけにはいかない。
あの巨大な父親が自分で迎えに来ると言っていたのだから。
「警察を呼びますよ!」
それとこの女がちょっと見かけないほど美しい顔をしているから不快でもあった。
「出て行って下さい!」
すると女は、首を傾げて不思議そうな顔をして訊いた。
「新しい先生?」
「あら、秋ちゃん。お迎え原田さんじゃなかった?」
園長が奥から現れ、奈々子を見てから女を見て言った。
「そうなんだけど、急用ができたんだって。浩一」
女が美しい顔で微笑み、園長と対等に話している。挨拶も抜きだ。
「ほら健介君。秋ちゃんと帰らなきゃダメよ。あなたはいつも泣き叫ぶわね」
ほら!と美しい女は乱暴に健介の耳を引っ張った。
プ~ンと膨れてから健介は奈々子を振り返り、
「じゃあね、先生」
と言って、女を置いて走り出した。
「健介!あ、それじゃ、お世話様でした!」
女も、健介~!!と叫びながらその後を追った。
しばらく呆然とした奈々子が、去ろうとする園長に慌てて訊いた。
「あ、あの、今の人、あの巨大なお父さんと、」
「巨大なお父さん?原田さん?まぁ、確かに巨大なお父さんね」
園長が面白そうに笑った。
「ご夫婦ですか?」
ご夫婦?!と更に園長は笑った。
「一緒にお住まいだけど、夫婦じゃないわねぇ。健介君は父子家庭なのよ」
父子家庭…。
ないわけではないが、母子家庭に比べると圧倒的にマイナーだ。
幼児育成には女の力が必要だとされているからだ。
「一緒に住んで?でもそれじゃどうしてあんなに嫌がるんですか?」
「ね。お父さんを取られるとでも思っているのかもね」
そして園長が奥に戻っていった。
奈々子は複雑な思いで立ち竦んだ。
父子家庭に、妻ではない女が一緒に住んでいる。
父子家庭というだけで子供への負担は大きいのに、そこに父の愛情を奪いかねない他人の女が同居する。
健介の不憫な状況を思い、奈々子は勤務初日から世間を少し知った。