終章 あるホールでの会話
目を覚ますとあのチャリティーホールの座席だった。
「うーん……良く寝た」
随分長い夢を見ていた気がする。こんなに休んだのは久し振り、いや生まれて初めてかもしれない。
不思議な事に観客は僕一人だけだ。舞台上の二つのピアノにはまだ誰も座っていない。ん……二つ?誰かが寄贈したのかな?
「今日の調査はと――あれ?」
手元には調査書類どころかプログラム表一枚無い。
「君が音楽鑑賞なんて珍しい事もあるものだ」
左側から歩いてきた男を見て、僕は瞬時に状況を把握した。
「君こそ居眠りしてる方がお似合いだ、昼行燈ジョウン」
「その渾名は好きだよ。隣いいかい?」
「どうぞ」
彼は憎たらしいぐらい死ぬ前と変わっていなかった。
「僕は死んだのか?」
「俺が出てきたから?まさか。ここは現世と常世の淡いだ。別に死んでなくたって来れる」
「とか言って、僕を連れて行こうとする天使の手先なんだろ?」
「君みたいな仕事中毒、連れて行ったら俺が怒られるよ。どうせ死んでも日長一日のんびりするなんてできないだろ?言っとくけど向こうには仕事も書物も、ついでにコーヒーも無い」
「激しくつまらない所だな。無い無い地獄に改名する事を提案するよ」
「まぁ、俺みたいな昼行燈には丁度良い住処だ。一日中ゴロゴロしていても誰の咎めも無い」
(現世でも散々ゴロゴロしてたのにまだ足りないのか)
「死んでも腑抜けているな昼行燈は」
「平和な内に目一杯サボっておくのが賢い処世術さエル。いいぞー、昼飯を食ってから公園の芝生でシエスタするのは。お日様がぽかぽかして最高の寝心地だ。うっかり夜まで眠らないように注意だがなー」
月に一度は昼餉に行ったまま行方不明、始末書を上げていた男が言うと実に含蓄ある言葉だ。
「ああジョウン。君の開発した術をちょっと使わせてもらったよ。術を自分に転移させる」
「?どうせあれだ、アムリが生まれる前に面白半分で作った黒歴史手帳に書いてあった奴だろ。あんな物使って勝手に取り返しのつかない事になられても、俺は責任取らないぞ死んでるし。一番最初に『取り扱いはあくまで自己責任で』ってちゃんと書いてあるんだからな」
やれやれ。この男が歴史的神童と呼ばれ、僕を超える魔力と天才的センスを兼ね備えていたなんて。大父神は気が狂っているとしか思えない。
「子供が生まれる前の君はもう少しマトモだった気がする」病院で新生児のアムリを抱えた帰りに政府館へ来、いきなり金輪際現場仕事は止める、食えるだけ給料の出る閑職に回してくれ、だ。穴埋めにどれだけ僕が奔走した事か。
「過去を顧みるのは暇人のする事、って誰かさんが言っていたぞ」
「あっそ。君、口『だけ』は本当達者だね」皮肉で返す。「そう言えばシャーゼに君の遺骨を返すよ今度」
「シャーゼ?」首を捻る。
「昼寝し過ぎてボケがきてるのかい?アムリの次に生まれた君の長男だよ」
「そうかそうかあいつか、はいはい。咄嗟に出て来なかった」
「あんなに可愛がってたのにかい?」
「そりゃずっと別の名前で、いやこっちの話。で、あいつがどうかしたのか?」
「遺骨だよ遺骨。僕の庭に埋めてあるのをフィクス家の墓に移すの」
「骨なんてどこに埋めてても同じだろ?」
「君は遺族の気持ちを考えた方がいい」
「そうなのか」
「そうだよ」
こいつの骨を十数年も黙って預かっていた自分がアホらしい。手帳以外にも謝礼が欲しい所だ。
ブ――――ッ!
開演のブザーが鳴り、舞台袖から誰かが出てくる。
「っ!?おいジョウン!!」
全く同じデザインの白いドレスを纏った双子姉妹が、静々と左のピアノの前まで歩いて来る。その後ろに燕尾服を着て指揮棒を持った先生が続く。
「術は、美希は死んだのか!?」
「だからここは淡いなんだって。生きてるか死んでるかは現世へ帰らないと確かめられないよ」
僕はせめて近くで彼女を見ようと席を立ち、転がるようにステップを降りた。後ろからジョウンものんびりと付いて来る気配。
「表情が変わったなエル。彼女君のこれ?」腕を伸ばして小指を立てて見せる。
「ああ」
「嘘吐け。まだ返事貰ってないだろ」
「何で君が知ってるんだ!?」
ああそうだ。僕はこんな所で死んでる場合じゃない。美希を現世へ連れて帰らないと!
「焦る必要は無い。ここでは時間は殆ど力を持たない」
「目覚めたらとんでもない年月が経過しているかもしれないって意味?」
「逆に数秒の可能性も同等にあるぞ」
最前列中央に僕とジョウンは座った。斜め上五メートル程の所に美希と美佐さんが手を繋いで立っている。相違は欠けた三本の指のみで、それさえ無ければ全く見分けがつかない。
「美希」
僕の呼び掛けに反応したのか双子がこちらを向いた。鏡に映ったようにそっくりな微笑を浮かべて浅く礼を返してくれた。
「素晴らしい舞台だよ二人共。本当に綺麗だ」
現実にはもう起こり得ない光景に素直な感動を覚える。きっと僕はこのピアノデュオの最初で最後のファンだ。
袖からもう一人誰かが現れた。ある意味生と死の混在した場に最も相応しい人間。
黒いドレスの彼が向かって右のピアノの前まで来ると、四人は観客へ深く一礼。思わず二人で拍手を返す。
三人が左右のピアノにつき、ヘイト・ライネスがこちらに背を向けて右手の指揮棒を練習で振る。
「わくわくするなー。演奏会なんて学校の課外学習以来だ」
ふとヘイトの動きが止まった。振り返って僕等を見る。差し出した左手の人差し指をくい、と曲げた。
「上がれって?」
「面白そうだなー。どうせ客は俺達だけだ。舞台で演奏を楽しもー」言うが早いがジョウンは階段を駆け上る。「エル、さっさと来い」断る理由も無く僕も彼に続いた。
舞台は思った以上に広く、真上からスポットライトが当たってとても明るい。
ヘイトが指揮棒を僕に差し出した。「できないよ、音楽は齧りもしてないんだ」
「ぶっちゃけノリだぞ音楽は!楽しめれば万事解決だ!」どこから持って来たのかタンバリンを手に友人は極めて上機嫌。ヘイトもいつの間にか年代物のギターを持っている。
「全く……リズムが変でも自分達で何とかしてよね」左右のピアノを交互に見て「君達も、くれぐれも指揮は当てにしないように」
全員から等間隔になる中央に立ち、指揮棒を構える。
「一、二、三、四!」
一気に音が溢れ出す。この曲は――『もぐらさん』だ!三つのピアノパートに伴奏のギター、そして軽快で不規則なタンバリンの音が重なり合う。余りの楽しさに指揮棒が感情に合わせてうねり、跳ね飛ぶ!
―――♪♫、♬♩、♪♫♩、♬♩♪、♫♪♫、♬♪♫♩♩♪、♫――!
皆が笑っている。とりわけ姉と一台のピアノに座って仲睦まじく弾いている美希と言ったら!どんな宝石よりキラキラと輝いて魅了されずにはいられない!
「ジョウン!」
「何だ!?」
僕は肺活量の限界を超えて叫んでいた。
「最高の舞台だよここは!!」
「先生、お話って何です……?」
詩野 美佐は不安そうに呟いた。
「レストランでは仰れない事なのですか?」
「ああ」
今日、美佐はコンクールで優勝し正式なプロピアニストになった。先程まで行きつけの店で予約したコース料理を堪能していた所だ。普段少食な彼女も安心したのか旺盛な食欲を見せ、最後のシャーベットまで楽しんでいた。
ホールの片付けはすっかり終わり、夜十時ともあって誰一人いなかった。いつも通り鍵は掛かっておらず、私達は夜練習する時と同じように易々忍び込んだ。
舞台の照明を半分点け、二人でスポットライトの当たるピアノの前まで歩いた。
「改めておめでとう美佐。今日の演奏は練習以上の出来だった」
「先生ったらそればかり。ふふ、ありがとうございます。全部先生の御指導のお陰です」
「いや。君が最後の曲を『もぐらさん』に選ばなければきっと優勝は逃していた。トロフィーは君の努力と作曲者の妹さんの賜物だ」
そう言うと美佐の頬が僅かに赤くなった。引っ込み思案の感はあるが、音色と同じ真っ直ぐ正直な娘だ……太陽の光のように。
「あの、私先生にずっと訊きたい事があったんです」意を決した風に彼女は切り出した。「先生……前ははぐらかされましたけど、やっぱり昔ピアニストだったんじゃありませんか?齧っただけの人に指導なんて無理です」
「美佐」敢えて問いには答えず言った。「私と会うのはこれで最後だ」
この娘の未来を想うなら。
「え……?ど、どうしてですか!?私にはまだまだ先生の御指導が必要です!」
「君はもう一人で充分やっていける」
泣かれるのは予想していた。けれど実際号泣するのを見て、また胸のむず痒さが増す。
「美佐。君は今日プロになったんだろう、そんなに弱くてどうする?」
「私がピアニストになりたかったのは夢のためだけじゃありません!美希と、誰より先生の喜ぶ顔が見たくて……辛い時、苦しい時も、先生が傍にいてくれたから頑張れた。一人だったらきっと諦めて実家に帰っていました。……先生がいなくなると分かっていたら優勝なんてしなければ良かった!!」
「美佐!!」
思わず私は彼女を抱き締めた。
「関係無いんだ!君が優勝しなくても私は去った……そう、決心していたつもりだった」
駄目だ駄目だ……折角この瞬間まで固めていた決意に罅が入る。
「全て私の事情なんだ……これ以上一緒にいたら私は、君を不幸に……殺してしまうかもしれない」
「先生……?」涙をハンカチで拭き、赤くなった目を私に向ける。「どういう事ですか……?」
ああ、この人間の娘は出会った時から全く成長していない。不安な顔をすれば私が、手を差し伸べざるを得ないと知っている。
「……幼い頃から音楽は好きだった。君のような輝く才能は無かったが、学生時代からギター片手にゲリラライブをしたり、こうした市民参加の会場でピアノを演奏していたよ。楽器は独学で一通り扱えたから仲間内で重宝された。よく夜遅くまで騒いだものだ」
心を閉ざし、もう思い出すまいと誓った懐かしい日々。美佐のピアノは私の重く固い記憶の扉を少しずつ開いた。
「大人になり政府の地方駐在員に就職しても、休日は音楽漬けの毎日だった。デビューしたくてデモテープを送ったりオーディションに行ったり……あの頃は寝食も忘れていた」
褪せたセピア色の思い出に小さな黒い波が押し寄せてくる。
「勤務していた駐在所はここと違って片田舎だった。事件らしい事件も起こらない平和な所、私の仕事は偶に上から来る調査表を埋め、住民達の書類を処理する事」暇な大半の時間は新譜の作成に頭を使っていた気がする。
「パスポート作成も業務の内だった」それさえ無ければ私は今頃こうして話していないだろう。「最初は音楽仲間のためにやったんだ。借金取りに追われている、パスポートの名前から何から全部変えて隠れたいってな」
「偽造パスポート……ですか?」美佐は困惑した表情。「でも……お友達のためなら仕方ないかもしれませんね」意外な感想だ。倫理観の強い娘と思っていたが、柔軟な所もあるのか。
「彼が上手く逃げられたかは知らない。ただそれから度々依頼の電話が掛かってくるようになった。一枚作れば安月給の半分が書かれた小切手。そいつで色々新しい楽器を買って試したもんだ」旨い話には裏があり愕然とする落ちが待っている。あの時の私は大馬鹿者だった。
「あれは年代物の手回しオルガンを買って、家でじっくり耳を傾けていた日だった。いつものように一本の電話が掛かってきたんだ」
受話器を取る直前、今度店に行ったらオルガンに入れる新しい楽譜を買おうと考えていた気がする。
「それまでにない大口依頼だった。絶対秘密厳守、向こうの都合に合わせて継続的に作成する契約。相手は前金として年収三年分を提示してきた。私はそれに愚かにも二つ返事でOKしてしまった」悪魔との契約だとも知らずに。
「美佐、大丈夫か?これ以上聞きたくないなら止めるが」
「いいえ。先生の過去、最後まで聞かせて下さい」
強い光を宿した目。私の愛する眼差しが追憶からの恐怖を和らげる。
「ああ……今考えれば、あの依頼は最初からおかしかった。一度に十人分、それも何度もだ。何故それだけの人間に新たなパスが必要なのか、彼等は何故パスを持っていないのか、怪しむ所は幾らでもあったはずなのに……な」
大金に目が眩んでさえなければ、契約の途中でも私は手を引いただろう。既に前金は振り込まれていた訳だし。
「証明写真は本業でも使っているスタジオで撮影した。フラッシュに照らされる彼等は順朴そうな人達ばかり、子供もいれば中年、私と同年代の人間も何人かいた。彼等が罪を犯した逃亡者とはどうしても思えなかった」
電話の主は私より少し下の金髪の神父だった。写真撮影の際も付き添いとして、郵送するのは危険だからとパスを直接家まで取りに来たのも彼だ。常に穏やかな態度を崩さず、丁寧な物腰に親しみを覚えた。奴が目的のために人当たりのいい性格を演じていただけ、と気付いた時には全てが遅過ぎた。
「取引が両手の指を超えた頃、いつものように代理人が現れた。だが今度はパスが目的ではなかった」
「どういう事です?」
返事をする代わりに私は、右手の人差指を歯に当て、思い切り引いた。
ブシュッ!!
「せ、先生何を!?すぐに手当てしないと!!」
「よく見なさい美佐」血の溢れる傷口を蒼褪めた彼女の鼻先に突き付ける。
「え………えっ……?」
血はものの数秒で止まり、ピンク色の肉を顕わにした傷が見る見る内に塞がっていく。勿論痛みなど、とうの昔に無い。
「済まなかった。君を信じさせるには直接見せた方がいいと思ったんだ」首をゆっくり横に振る。「これで分かっただろう、私と、彼等の正体が」
ショックで震える美佐は、それでも口を開いた。
「第七種……お伽話の中だけの存在だと、思っていました……」
「それが普通だ。私は幾つに見える?」
「三十代……前半ぐらい」
「今年で三百歳だ」
「さ、三百歳!!?」
奴に連れられ“都”に初めて足を踏み入れた時の事は未だ鮮明に覚えている。人間としての最後の苦痛が後頭部に走った瞬間も。
『あなたへの選択肢は二つ。一族のために使命の道を生きるか、生者では耐え切れない程の拷問を受けて“森”に捨てられるかです』
「自殺する事もできず、奴等と同じ思想に染まる事もできず、私は各地を転々としながら孤独に暮らしていた。気の遠くなる程長い年月を……音楽も無しに」
「ああ……」顔を両手で隠し美佐は啜り泣く。私を……想ってくれているのか……。「先生の御家族には……何と説明をしたんです?」
「帰らなかったんだ……十数年後、風の噂で両親は病気で相次いで死んだ、と。最後まで私の帰りを待ち続けていたらしい……とんでもない親不孝者だろう?」
もう顔も覚えていない。思い出せると言えばそう、二人が毎日のようにピアノを教えてくれた、そのやけに熱心な様子だけだ。
「死に切った私を救ったのは美佐、君の光ある音楽だった」
初めて会ったのもこのホール。アマチュアの一人として舞台にいた彼女と、人生に膿み疲れ酒で朦朧としながら永遠に眠る場所を求めて入った私。
「君の指が紡ぐ音がとうに失った魂を揺さ振り、もっと傍で聴きたいと強く思った。指導すると言ったのはただの口実だ。私は自分の満足のためだけに君に近付いてしまった」
「そんなの構いません。私もいつも……半分は先生に聴かせるつもりで弾いていますから」
ピアノの蓋を開けぽん、ぽんと遊びで音を出す美佐。
「先生の孤独を少しでも癒せたなら、私は充分満足です」
精神的に脆い所のある彼女を捨てていくのは正直不安だ。しばらくはショックで音が変わってしまうはず。去る前に彼女の双子の妹、詩野 美希に事情を説明して召喚する、予定だった。
「不死でも関係ありません。先生は私の大好きな先生のままです。あの、それじゃあコンティ・フィトと言う名前は」
「十数個目の偽名だ」
「宜しければ本名を、先生が人間だった頃の名前を教えて頂けませんか?」
最早殆ど意味を持たない音の連なりが、口から零れ落ちる。
「ヘイト……ヘイト・ライネスだ」
ぽん。
「素敵な響きです。御両親はきっと沢山考えて付けられたんでしょうね」
「ああ、自分でも音の並びが気に入っている」
彼女の隣に行き、片手で頭に浮かんだメロディーを奏でた。
息を吹き返したのを見計らうようにあの少年は私の家を訪問した。束の間見るには余りに危険な夢を小さな腕に抱えて。
『一度だけなんです、お願いします!!』
何度叩き出されても彼は諦める事を知らなかった。恰も往生際の悪い生者のように、毎日毎日家のインターホンを押し続けた。
『馬鹿馬鹿しい』
その感情に変化が生じたのも美佐のせいだ。
「君がコンクールの曲目を変更したいと言った時、私は酷く驚いたんだ。それまで君は曲げない程強い意見を全く言わなかっただろう?」
決意を秘めた目を見た瞬間、私の中で諦観の土砂が音を立てて崩れていく轟音がした。あの少年と彼女は同じだ、とようやく理解した瞬間だ。
「私の方も問題を抱えている時期だったが、君のお陰で決心がついた。――喜んでくれたよ、何十年も会っていなかったのに。私の表情が戻った、それだけの事を、とても」
「良かった……不死族の人の中にも先生を心配してくれる方がいて」安堵の顔に私も心が温まる。
「坊ちゃんは君と同じぐらい大事な人だったんだ。長い間私が気付かなかっただけで、ずっと……」
同族を拒否する感情は自分への憎悪が転嫁した物。私を信頼する二人を得た今、陽光で雪が解けるようにゆっくりと消えていくのを感じた。
(退屈に飽きただけかもしれないがな……)
「別れの時間だ、美佐」
「嫌です!私先生がどんな人でも構いません!あなたの傍でずっとピアノを奏でていたい!仮令不死になっても一緒にいられるなら」
「美佐!滅多な事を言う物じゃない!!」なった時の感触を、心を喰い破った絶望を思い出す。「大切な妹を捨てるのか!私が両親にしたように!」
「でも先生を愛しているんです私!!永遠に会えないなんてとても耐えられない!!」
思わず彼女を後ろから抱き締めた。私の十分の一も生きていない娘は、しかし確かに心臓を脈打たせ生きていた。
「駄目だ。もし『あいつ』が私の関与に気付いたら君まで危険」
バタン!!
観客席の出入口のドアが開いた瞬間、ホールの気温が上がったような気がした。
「来たか」思ったより遅かった。
ウェーブの掛かった赤い長髪。金銀宝石の煌びやかなアクセサリーに白いドレス。不機嫌に曲がった唇に引かれた深紅のルージュ。
「美佐、袖から逃げなさい。できるだけ遠くへ」
突然現れ目を釘付けにされた彼女は、しかし首を小さく横に振った。
「行くんだ、殺されるぞ!?」
「やっと見つけたわ」
疲労、焦燥、そして巨大な憎悪を含んだ声で奴は言う。
カッカッカッ……紅のヒールが主人を連れて舞台手前まで降りて来る。
「用件は分かっているわよね?」
美佐の背中を押す。彼女の安全が確保できるまで時間を稼がなければ。
「何の事だ?」
惚けた返事に奴は目を細めた。
「あなた様が私を訪ねに来るなど珍しい」
「白を切る気?お前はただ私の求める物を差し出せばいいの」
ようやく危険を察したのか、美佐が音を立てないよう椅子から立ち上がる。奴に気付かれないようピアノを目隠しにゆっくり舞台袖へ移動する。
「役立たずの死にぞこないが」
言ってくれる。奴にとって私達一族など消耗品以下の価値しかないのだ。だから私は大声で教えてやった。
「お前の探す物はここには無い!無駄足だったな!!」
胸が空く感触の一瞬後、顔面が力強く掴まれた。
「ぎゃああああっっっっっ!!!!」
熱い熱い熱い―――奴の手からの火炎が皮膚を舐め、焼け爛れ焦がしていく。炎が下半身に到達すると奴の手が離れた。視力を失ったまま私はその場に崩れ落ちる。
「自業自得ね」
「先生!!!?」
最悪だ。美佐が私を抱え起こす。じゅうっ、微かに白い手の焼ける音。
「あら、中々良い素材を持ってるわねあなた。メイクとファッションに凝ればもっと素敵になれるわよ?」
「何を言って―――うっ!」
ドサッ!美佐が倒れたのか?
「それに綺麗な髪だわ。焼けたら勿体無い」
奴は高笑いを上げながら来た道を戻っていったようだ。
「み……さ……」
床を両手で探るが彼女らしい物には触れない。綺麗な物が好きな奴が外へ連れて行ったようだ。
「あ、あぁ……」
パチパチ……天井や壁から火花の立てる音がひっきりなしに聞こえてくる。ホールが燃えていた。
「ちかへ……させないと……」
感覚の無い手と朦朧とし始めた頭でピアノを押す。“核”が焼けたらしい……遠のきそうになる意識を必死で繋ぎ止める。美佐の音色、これだけは灰にする訳にはいかなかった。
「あ、あ……」
仕事を終え、未だ炎の侵攻が収まらぬ両手を胸の前で握った。坊ちゃん……そして美佐。二人が無事であるようにと。




