二章 悪夢
買い物を終えて店に戻る途中、ふと空を見上げた。天空高く聳え立つ硝子張りの楼閣。龍商会は今年も事業を二つ三つ増やすらしい。最近では知らぬ者のいない大会社だ。
家、天宝商店はその五メートル隣。木造二階、座敷庭付き。豆粒と月ぐらい違う。でもこっちには趣がある。
「おっ、アイザちゃん。買いモンしてきたんか?」
嫌な奴に会った。ツイてない。
「急いでるから」
隣の玄関前を竹箒で掃く男、袴に着物、黒縁眼鏡で黒髪ポニーテール、を無視する。
「待って~な。お隣さん同士、仲良くようやないか」
馴れ馴れしく近寄ってくるのを手で追い払い、アタシは三メートルになった家路を進む。
「誰が。あんた、いつ戻ってきたんだい?」
「先週からや。やっぱ“白の星”はええわ。空気が塩辛うない。オバちゃんらのウケも最高や」
「あんたねえ。そんなだからいつまでも庭掃きなんじゃない?」
「他にも仰山しとるわ。隣ん家のお客さん案内したりとか」
「客?」
「座敷に通しといたで。お茶とお菓子はサービスや」
「人の家に不法侵入してるんじゃないよ!!!」
家の中へ疾走する。大事な取引相手だったら待たせるのはマズい。
「お、お待たせしました……」荒くなった息を整え、正座して、音を立てないように障子を開けた。「――あ、ああ何だ。来てたの」
モロに肩透かしを喰らい、一気に緊張が解けた。友人の向かいに座り、準備万端の急須から湯飲みに茶を注ぐ。玉露の柔らかい香りが鼻腔を刺激する。
「元気になったの?ほら。お菓子食べなよ」
高そうな粒餡饅頭(天宝には置いてない)を一つ頬張る。…………すっごく美味しい。
「誠?」
ぼーっ、と何見てるんだろう。昼間なのに寝巻き着てるし。
「ねえ誠ってば!」
肩を揺すっても反応しない。様子が変なのにようやく気付き、離れに急いで走った。
ガンガンガン!!
「四!――誠が変なの!とにかく来て!急いで!!」
ムチャクチャな要請にも出てきた彼は冷静に頷く。走って戻ってみると、部屋のどこにもいない。
「誠!?どこ行ったの!!」
座敷や庭を見て回っても痕跡さえ見つからない。
「ど、どうしよう……」
その時、四が自分の頬の上の方に握り拳を置いた。
「そうだね」
『まあいいでしょう。事件の顛末を教えてもらえますか?』
『顛末も何も、いきなり終息宣言。再調査もしない方針』
『秘密裏に片付けた、のですね』
『そりゃ犯人が、なぁ……』
“信仰者”は事件の因果を掴んでいる。
『ところで“贋作師”は見つかりましたか?』
「“贋作師”?」
『うんにゃ、全く。前は道で時々見かけてたんだが。一体どこ行ったんだ?』
『そうですか。“ヘイト”にも困ったものです』
「“ヘイト”……“ヘイト・ライネス”――だって?」
偽パスポート作りの名人の名前がこんな所で出るなんて。
『ま、いざとなったら俺が何とかしてやるよ。一応政府の人間だ、偽造しようと思えばできる』
『紙と糊と鋏があれば』
『まぁな――それより大事な話があるんじゃないのか?』ついに来た。姿勢を正してヘッドホンを付け直す。
『様子は?』
『昨日と全く変化無し。血液量、血圧その他お前に言われた物は全部正常値だ。意識は戻らないままだが』
やっぱり不法侵入していたか。まぁ想定範囲内だからこそ最低限の検査しかしなかったんだけど。
『あの……神父様』
心細い少年の声。
『ご、ごめんなさい……僕、ただ兄様の夢を叶えてあげたかっただけなのに……こんな大変な事になるなんて……』
『どう弁解した所でオリオール、私は極刑を撤回するつもりはありませんよ。貴方のした事は赦されざる重罪、我等一族に対する反逆です』氷のような返答。
『神父様、ヘイトさんは……どうなるんですか?』涙声で尋ねる。『あの人は僕のお願いを聞いただけなのに……』
『貴方が心配する事はありません。罪は罪、公平に判断するだけです』
息が詰まる音。
『―――じゃあ、兄様は……?』
『今まで通り、ですよ。子供でもその程度は理解できるでしょう?』
『でも……兄様、友達ができたんです。とっても楽しそうで……なのに』
『オリオール止めろ!!』“狙撃者”が制す。
『僕、あんなに兄様が笑うの初めて見て……生きてて一番、嬉しかったんです』
『――それが貴方の反論ですか。了解しました』
ブツッ。
『何であんな事言ったんだよ!?向こうの心証最悪だぞ!』
『だって本当だもん!皆おかしいよ!!』
金切り声はできれば止めて欲しいな。盗聴器で又聞きしてる耳には非常に辛い。かと言ってボリュームを下げると片方の声が聞こえないし。
『俺が減刑を頼んでやるって言ったの忘れてただろ。いいから落ち着け、ここの壁薄いんだ!隣に聞こえる!』
『こんな事ならあの聖族達の方が百倍マシだよ!あの人達は兄様の味方だもん!!』
ポカッ!
『分かった、分かったから静かにしろ!!』
返事が無い。
「エル……おい、聞いてんのか?」
数十秒後、
「ああ、兄上。夢の話はもういい」
「ぼーっとしてたぞお前。疲れてんのか?」
額を押さえ、弟は首を横に振る。
「まさか。まだ朝のカフェインが入ってないだけだよ」
いつもより弱気な声。普段自信たっぷりな弟にしては珍しい。
「邪魔して悪かったね。だけど、出掛けるかどうかは、この写真を見てからでも遅くはない」
胸のポケットから一枚取り出して俺に渡す。夜の風景だ。男女数人がビールを片手に浮かれている。そして、その後ろに――。
「兄上。もう一つ質問だ」
「何だよ」
「君の夢にも幽霊はいたかい?」
「……ああ」
「説明は歩きながらにしよう」
いつの間に戻ってきたのか、玄関には爺が立っていた。
「御主人様。どこかへお出掛けになられるのですか?」
「ああ。幽霊を捕まえに行ってくる」
「ただいま」
宅配されていた食材を冷蔵庫に入れた。消費期限の近いヨーグルトを二つ取り出す。
私と姉の寝室に入る。姉の眠るベッドに凭れて蹲っている青年の肩をそっと叩く。彼はゆっくりとした動作で顔を上げた。相変わらず黒い瞳には何の感情も無い。
「今日はどこか行ったの?」
うんとも寸とも言わないのは慣れた。スプーンで掬って半開きの口に運ぶ。
不思議だった。彼を見ていると心の中を荒れ狂う悲しみが自然と治まっていくのを感じる。
「美味しい?」
まるで幼児だ。早く保護者の元に帰ればいいのに。
自分の分を食べながら、ベッドの上で姿勢良く眠る姉を見た。
「姉さん……」
ピアノが上手で優しい、私の自慢の姉。
「ただいま」
彼女の肩がぴく、と動いた。
ピンポーン。
時計を確認。多分あいつらに違いない。
「待ってて、すぐ戻ってくるわ」
玄関へ行き、鍵を掛けたドアを閉めたまま「はい、どちら様ですか?」
「客相手に開けてもくれないの?」
幼さを含んだ女性の声。あの頭の軽そうな女学生だ。ミニスカートに奇抜な色の服、無意味に飾り付けられた爪と濃い化粧を思い出す。何故あんな馬鹿な事をしてまで人目を引きたいのか全く理解できない。私の村で顔に何か塗るのは豊穣祭の時ぐらいだ。死んだ母に甘いベリーを煮詰めた口紅を付けてもらった記憶がある。
「招かれざる客の間違いではありませんか?仕事で疲れているんです。帰って下さい」
「昨日も言ってたじゃんそれ。年寄りみたい」
どうせこの少女、学業など真面目にこなしてはいないのだろう。態度を見れば分かる。
「まあまあ、彼女は社会人なんだからさ。こんばんは、お姉さんは元気?」
馴れ馴れしい口調の若い男。連中の中では彼が一番苦手だ。あれで下心を隠しているつもりなのだろうか。
「ええ、あなた達には関係ありませんが」
「恩知らずな女!誰のお陰だと思ってんの!?」
「騒ぐな。他の住人が出てくるぞ」猫撫で声。「昨日見せた分じゃ足りないかい?」
「幾ら出されても嫌です。当然の事を訊かないで下さい」
「つれないな相変わらず」
神経を逆撫でする笑い方だ。自分はモテると思い込む典型的なナルシスト。
「協力した方がお互いのためだと思うぜ?何の目的で『あれ』やってるのか知らないけど、力を貸してもいい」
「お断りします。もうあなた達と関わるつもりはない」
むしろ目的の邪魔でしかない。
「そうか。明日も来るよ」
「二度と来ないで下さい」
今頃になって恐怖が襲ってくる。扉を離れる足音が消えるまで棒立ちで耳を澄ましていた。
「は……ぁ……」
目を覚ましていた姉の上半身を衝動的に抱き締める。無理矢理押し入られていたら、恐らく為す術無く奪われていただろう。
「姉さん、大丈夫だよ……」
無意識に涙が出ていたらしい。顔を上げると姉の頬が濡れていた。
渡された書類に目を通し始める。現在進行形の事件の概要だ。
“――シャバム北区を中心に徘徊する死体”
ファイルを開く。小難しい用語をすっ飛ばした大本はこうだ。
ここ一週間、正確に言えば“蒼の星”の一件の次の夜から。街に眠る死体が墓を抜け出し、生前の住処、若しくは職場付近を歩き回る現象が頻発している。特徴として、日没から日の出までは活動し、日中はただの死体に戻る。そして連日警察と政府は後始末に追われている。
「正に正夢。最も徘徊の多い北区はアルバルス墓地がある区域だ」
弟の目の下にはうっすら隈ができていた。疲れは昼夜逆転で対応しているせいだったのだ。
「“黄の星”まで二時間はある。兄上も少し寝ておけば?いざという時行動できないよ」ハンカチを取り出して顔に掛ける弟。「どうせ連中が動くのは夜だ」
「地図の印は?」
「ああ。白い幽霊の目撃された場所」
全部で五箇所。内一つが写真の場所だろう。
「誠も夜に出歩いている。多分死体の何かに引かれて。同じ場所にいた死体も興味深いけどね」
「?」
「他と変化は見られないのに、全く動かなくなった。浄化された、と言い換えてもいいかもしれない」
「まーくんは……どうしているんだ?」
「僕の家から失踪した。点滴もまだ終わっていない。一切意識を失っているのに、何故動けたのか。どうして死者を浄化しているのか――謎だよ」
「俺の……せいか」
「かもね。八割以上の出血を一晩で元通りにするなんて……成功したのは正に奇跡だ。誠は宇宙一の奇跡使い」
「でも、その代償がこれじゃ」
死んでもよかった。最良の死に方だと思った。なのに。
「兄上と誠は、僕から見れば不思議だよ。話のテンポも、歩く速度も、呼吸のリズムも……二人で噛み合うっていうかさ。一緒が普通で、それまで空振りしてた歯車まで綺麗に回りだして」
別々に作った部分が、合わさって素晴らしいケーキになるように。一+一が五にも十になるような。
「だから、誠は失いたくなかったんだよ。共鳴し合える友達を」
胸が痛くて、痛くて仕方ない。半身がいない、それだけで七転八倒する程辛い。
「少し甲板出てくる」
今にも泣いてしまいそうだった。
彼女の音色を聴くのは、いつもシャバムで一番小さいチャリティーホールだった。防音設備が不完全で、カーテンの裏側に青果店印の発泡スチロールが山と積まれている。
僕がホールに出入りした目的は何の事はない、仕事だった。利益が見込める商業店に土地を貸したいので、潰して欲しいと街から要望が上がった。僕に調査が回ってきたのは適切な判断だろう。政府一の無風雅は伊達ではない。
しかし、彼等は甘かった。
立て付けの悪い扉を開けた時、激しい目眩が襲った。音が脳を一瞬で支配してしまい、他の刺激を著しくダウンさせたのだ。
よろめきながら席に着き、舞台上に目をやった。
白いワンピースの娘がピアノを弾いていた。ポンポン指が跳ね、とても楽しそうなワルツが流れる。
客は僕を含めて四人。一番前に座っていた男はファンなのか今にも飛び出さんばかりに身を乗り出している。他の二人は心地良い音色に眠っていた。
演奏が終わり、娘は優雅に一礼した。ステージを降りた彼女に、舞台袖から一人の男性が近寄る。
「美佐。今日は良い出来だ。これならコンクールは」
白髪になりかけた短髪に手を載せ、慣れない様子ではにかむ。渋い茶のフロックコートの両ポケットに年季の入った手帳とノート。それらを取り出して娘に見せる。
「そうだな……選曲はこれと賛美歌でどうだ?得意だろう?」
娘は浮かない顔をしたまま、男の手帳を眺めている。
「いまいちか?」
首を横に大きく振ったが、答えは明確だ。
目が覚めると満天の星空が頭上にあった。
「うぁ……綺麗」
オリオールと見た事はあるけど、今日は特別クリアに見える。
甲板には私以外誰もいない。こんなに凄い景色なのに。
「あ、そうだ……」
周りを探してみたが、エルの声がした四角い機械は落ちていない。あの部屋に置いてきてしまったようだ。あれがあったらエルと話せるのに。
「少し寒いな」あの部屋では毛布に包まれてとても温かかった。
奇跡を使って以来、気付いたら知らない所に立っている事が多い。一回は何故か服に血が付いていた。次には新しい服になっていたけど。
「今の記憶も無くなってるのかなぁ」
どうやって船に乗ったんだろう。パスポートも財布も持ってないのに?
とにかく誰かに尋ねようと階段を降りて客席に移動することにした。星はまた今度。
三つ目のドアを潜った時、座席の一つから悲鳴が聞こえた。
「どうしました!?」
その席にいたのは友達だった。ガタガタ震えながら、窓辺の物を凝視している。真っ黒な花びらの薔薇が一輪。
「これ?」首が激しく上下に振られる。
窓を開け、思いっ切り宇宙空間に放り投げた。本当はいけないけど(以前開けようとしてオリオールに怒られた事がある)、緊急事態だから仕方ない。
「あ……ああ、誠。悪かったねこんなみっともない所見せて……」
「喋らないで。氣を安定させる」
表面上は平気そうでも、激しい動揺は精神を消耗させる。肉体的にも相当疲れているようだ。
「済まない」
息を整えて、大気と自分の氣を良い方向へ増幅させる。
「握るよ」
汗の出ている手を掴んで、清廉な氣を送り込む。中に入った力は全身に巡り、本来あるべき姿へと身体を戻していく。
(前よりも氣が強くなっている……同じように集中しているのに)
あの奇跡で背伸びしたから力が上がったんだろうか。
「これで終わり。どうエル?」
友人の顔色は少し良くなったように見えた。
「……うん。ありがとう誠」
「良かった………」
あれ、また……眠くなって………まだ訊きたいことが、あるの……。
四天使の噴水。
また一人、屍が現れた。腐った男がローブを着て街灯の点検をしている。魔術で一つ一つ点けたり消したりして、手元の帳簿に書き付けている。
なぜ食堂の方を向いたかは分からない。ローブの正反対の方向なのに。
いた、彼が。あの時のままに。
彼はふらふらと安食堂のドアを潜る。俺も続いた。
食堂には先客のグループが一組いた。一人を除き、死んで間もない姿をしている。
彼を探していると、先客らと同じテーブルに座っていた。全部で六人。
なるべく遠い席を選び、骨だけのウエイトレスに紅茶を頼んだ。顎関節をカタカタ言わせながら小鳥のような声で「ご注文は以上でよろしいでしょうか?」と言った。
一団はこちらに全く気付いていない。話し声が断片的に流れてくる。
彼だけは認識しているのか、時々こちらを見て「ああ、来てしまったんだね」と訳せる笑顔をした。その度、どきどきと心臓が鳴る。
「……シスターは」
「今度の教室は……」
「……魔術……教科書……」
「地下…………仕事………」
彼らは知り合い同士らしく話が弾んでいる。
時計回りに説明していくと、こっちに背中を向けているのは十五六の少女。グレーのニット帽を被っていて、間から鮮やかな赤茶の短髪が覗いている。ピンクのルージュを塗った唇がふっくら艶めいている。その端からどす黒い体液を零し続けていた。
警官服を着た三十過ぎの男。髪を七・三に分け、テカテカの整髪剤で固めている。もがれて虚になった鼻をしょっちゅうピクリピクリさせる。その度、こめかみに空いた硬貨大の穴から杏仁豆腐状の物が流れ出す。
それを指で掬って砂糖のように舐めている四十ぐらいの女。グラマラスなワインレッドのドレスを着て、きつめの化粧をしている。いかにもホステスのママ、と言った感じ。警官に気があるのか、話の合間に貧相な耳に香水と死臭のたっぷり入った息を吹きかけ睦言を捻じ込む。抉れた乳房を掴ませる(…どうやって?)ことも忘れない。
女の隣で誠が牛乳をコクコク、と飲んでいる。話に頷くだけで、まだ一度も口を開いていない。
その横の金髪の青年が左手に持ったライターで煙草に火を点けた。
「ちょっと、止めなさいよ……」
最初の娘が抗議の声を上げる。金髪の隣にいた中性的な女が、黙って煙草を取り上げ窓の外に放った。脚を組み、金髪をギロ、と一睨みした。すくみ上がってチビりそうな金髪を警官がゲヘヘと笑う。
ウエイトレスが運んできた紅茶に砂糖を入れながら、観察を続ける。
五人はどういう知り合いだろうか?シスター、教会関係か?会話から考えて何かの学習会、カルチャースクールだろうか。それにしては年代といい全員見事にバラバラだ。
ラベンダーの匂いが鼻に届いた。……食堂なのにアロマを焚いているのか。
ゴーーーン……ゴーーーン……。
教会の鐘が鳴っている。
「お、そろそろ……」
皆が席を立つ。金を受け取るべきウエイトレスは紅茶を出してから全く現れない。
無賃飲食で彼等は堂々と食堂を引き払う。一番奥に座っていた誠がテーブル一つ挟んで前を通り過ぎる。寂しそうな、どこか諦めた笑みを一瞬向けて。
死者達が葬列をなして深い森に入っていく。
森の入り口には骸骨の兵士が一人立ち、道行く屍に会釈をしている。六人は列の最後尾に並んでいた。
誠を除く五人は手にシャベルを持っていた。男達は錆の出た大きい物、女達はそれより二回り小さい新品。他のグループも皆自分に見合った物を持参している。子供でさえ掌みたいに小さいスコップを手にしていた。
彼等の順番は約三時間してようやく回ってきた。既に真夜中になり、あるかなきかの月が朧に地上を照らしている。
前の親子三人組の後ろについて六人は森へ。誠も中性的な女に連れられて歩いて行く。
その五メートル後ろから俺も入口を通った。兵士は一瞬「はて?」と首を傾げたが、眼球が無くて見えないらしくあっさり通した。
モミの木が立ち並ぶ回廊。速度が変わらないよう慎重をきして後をつける。
十分後、開けた丘に辿り着いた。ここが終着地点のようだ。
丘は土ばかり、高さは五メートル弱、半径は百メートルは下らない巨大な物だった。
親子が下の方で穴を掘っている。小さな穴が掘り終わると、目玉の飛び出した男の子を中に入れ、父親が土をドバッ、と被せた。それが終わると、先程から掘っていた穴に入った舌の伸びた母親を埋めていく。そして自分用の穴を掘り、中で胎児のようにうずくまった。金髪と警官が彼に土を被せてやる。
一連の作業が終わり、最後に誠と自分だけが残った。
彼は爪を地面に突き立てて、土をピンク娘の墓に被せることに没頭している。埋葬が完了して、今度は自分が入る墓を掘り始める、懸命に。そうしなければいけない、強迫観念に取り憑かれて。
手がボロボロになる頃、ようやく彼の体型に見合った小さな墓穴が完成した。汚れた手は痛々しく皮が剥け、血が滲み出していた。
彼は俺を見て、あの心臓を抉る笑顔を向けた。「ちょっと土をかけてくれませんか?」と目が言葉を発する。
俺は穴の前まで歩み、足を上げた。
ガシッ、ガシッ、ガシッ…………。
「………うぁ…………ぁぁぁぁぁあぁあああああああっっっっ……!!」
透明な涙がぼろぼろと地面に落ちる。
非道な事と分かっている。だがこんな、ただの真っ黒な土になど還したくない。絶対に嫌だ。それがエゴだとしても、俺は嬉々として言いなりになる。
何度目かの足蹴りで完全に穴が塞がる。俺は後ろを振り返り、泣き崩れる彼の肩をそっと掴んだ。
「帰ろうまーくん。あったかい物用意するから、さ」
ぶるぶる震える身体をぎゅう、と抱く。頭を撫でながら落ち着くのを待つ。
ガサッ。
何だ、今の音は?ここにはもう誰もいないはず。
異変に気付いた彼が周りを見回し、丘の上を指差す。
真っ黒な人間状の物体が立っていた。目は爛々と赤く輝いている。風上から鼻がもげそうな死臭が襲い掛かってくる。……“死肉喰らい”だ。
化物はけけけ……と腐った声帯で鳴き、長くひん曲がった爪で地面を掘り返し始めた。程なく一体の屍が掴み出された。先程埋まったばかりの警官だ。
ブシュッ!じゅずずじゅずずずっっっっぅ……!!
「ぎゃががっぎゃがああああっっっっっっっっっうぅぅぅぅぅ!!!!!!!!」
内臓を強引に外に引っ張られ、頭を抉じ開けられて中身を爪で思う様引っ掻き回される警官。耳朶に化物の牙が掛かり、血と灰色の物が噴き出した。
戻しそうになる胃を抑えつけ、誠の腕を取った。恐怖で力が抜けていたのが幸いだった。
逃げなければ、次は……こっちの番だ。
「走れ!」
死者達の阿鼻叫喚をBGMに俺達は来た道を急いで引き返した。靴が脱げても、誠が転びそうになっても足を止めることは許されない。
けけけけけけ……。
鳴き声が近い。もう追いかけてきやがったか。走る速度を速める。
どれぐらい追いかけっこしていただろう。不意に掴んだ手に掛かる強い力。
振り返り、そして……足は止まった。
腐汁で濡れた四本の犬歯。豆腐のような肌理の細かい首筋。流れ出す、あかぁい血――。
ぱく、ぱくと微かに唇が動く。
たすけ……て………。
「ああああああああああああああああああっっぅっっ!!!!!!!!!!!!」
頭がおかしくなるぐらい酷い夢。気味の悪い符丁。
化粧室の鏡に映る男は唇をぐにゃりと変形させた。自虐の笑みのつもりらしい。
手の中に残っているのは冷たくなっていく骨ばかりの感触。ぬるりと生温いものが伝う感覚。
顔を洗うつもりできて五分以上突っ立っている。
「そろそろ戻るか」席に帰って少しでも仮眠しよう。夜のために。
水を顔面に付けて流し、ペーパータオルで軽く拭いた。少しすっきりした顔を上げた時、鏡にそれまでいなかった人間が映っていた。すぐ後ろに立つ、白い寝巻き。
目を離さないよう恐る恐る振り返る。彼は虚ろな目のまま、ただ直立していた。
「ま……」
肩を掴む。幽霊ではない物体としての確かな感触がそこにあった。
髪からはシャンプーのいい香り。肌に血の気は無く、呼吸も殆どしていない。
「ああ……」
彼の精神は深く眠っていた。現実での呼び掛けなど届かない、深遠なる場所で。
「大丈夫だ」
一度でもいい、前みたいに微笑んで欲しい。その一心で瞳の中の俺は不器用にぎこちない笑みを作る。
「もう大丈夫なんだ、ずっと俺がいる」
抱いた身体は氷のように冷たい。薄布を纏っているだけだ。仕方ないだろう。
「綺麗だよ」
触れているのが恐ろしいぐらい。
右手で鞄からハンカチを出して、俺の左手首と彼の右手首を結んだ。もう二度と離れられない程、強くしっかりと。
「傍にいる」
ぎゅっ、と手を繋いた。
日曜日。
フリーマーケットがあると聞いたので、昼前から街に出掛けた。面白そうな古本七冊、普段着のシャツ二枚を購入する。行きつけの珈琲豆専門店で新商品を試飲し、一瓶買ってドリップの仕方を聞く。
午後は家のソファで本達を片手にゆっくり過ごそうか、そう考えながら歩いていた時。
「あっ!済みません!」
帽子を被った娘が、僕の斜め前を歩いていた男の肩にぶつかり、反動で地面に倒れた。謝りもせず男はそそくさと立ち去る。
彼女はあの時のピアニストだった。太陽の下だと人形のように肌が白い。普段も日光に当たる暇無く練習しているのだろう。
「君、大丈夫かい?」
右手を差し出す。しかし、彼女は困惑した表情で硬直していた。手を後ろに隠している。
「……一人で立てます」小声で言った。そして起き上がり、土汚れを払いもせず、「ご、ごめんなさい……その、ありがとうございました!」
「あ、ああ。気を付けて」
間抜けな言葉を掛けて、駆けていった後姿を見送った。
「参ったな……」
船が着陸し、通常通り改札を出ようとしたのに。
――緊急事態により、現在シャバムは旅行者の滞在を禁止しています。政府発行の許可書をお持ちで無い方は速やかに船にお戻り下さい―――
「だってよ。どーする、リーズ?」
妹は鞄の中から指導書を出して、「これじゃ駄目かな?」と尋ねた。
リーズの通っている公立学校では入学時に本人の希望で選択科目を三つ選ぶ。二年前に卒業した俺は格闘術と射撃、音楽知識を取った。最後の一つは正直余り身に付かなかった。ロックバンドに古典音楽が必要だと思うか?
妹の科目は医学、精神術(幽族の力を引き出す授業)、そして実践魔術。夢療法専門の精神科医を目指すには最良の選択だ。
「うーん……でも先生はここにいるし、降りないわけには」
指定された医者は聖族政府で働いている女医さんだ。
単位が三分の二取れた時点で、医学の受講者は実習訓練を受ける決まりになっている。勿論、その間他の授業は校欠扱いだ。
「降りていく連中に頼んでみるか。おーい、オッサン!」
髭の男は振り向きもせず出て行った。
「お兄ちゃん。せめておじさんって言わなきゃ」
後ろから来た男と妹の肩がぶつかる。
「あっ、済みません!」
「悪い」
謝った男はそのまま改札を出ようとして、振り返った。
「……リーズ?ケルフも一緒か」
「義父さん?」
ミルクコーヒー色の目が充血している。見られているのに気付いたか手で覆い隠す。
「大人には、色々事情って物があるんだよ」
その隣に俺達は信じられない物を見つけた。
「誠君!!?え、ど、どうして??」
ハンカチで義父と手を繋いだ彼は相変わらず忘我の表情だったが、今度はちょっとだけ安心しているように見えた。
「さっき保護した。これからエルの家に行って着替えさせてくる」
「吃驚したよ。まさか宇宙船の中にいるなんてね」
後ろからエルが手を上げて歩いて来る。
「やあ二人共。元気だった?何かシャバムに用事?」
「あ、ああ。リーズが学校の実習なんだ。何とか降ろして貰えないかな?」
「お前は何で付いて来てるんだ?」
「ああ、いやその……暇だったから付き添いで」
誠の無事は確認できたがどうも街の様子がおかしい。そんな中に妹一人置いて帰るのも気が引ける。
「なあエル、何なんだ緊急事態って?俺達入っても大丈夫なのか?」
「多分……ね」
――後三分で本船は出航致します。許可書の無い方は速やかにお戻り下さい――
「考えてる時間は無いみたいだぞ。どうするリーズ?」
「……入ります、折角ここまで来たんだし。エルさん、お願いできますか?」
「いいよ。僕は勉強熱心な学生の味方だ」
彼は手招きして、「付いて来て」と言った。