一章 前路
非常灯を頼りにナースセンターへ向かって歩く。顔見知りの看護婦はこちらに気付いて頭を下げた。
「母を見舞いに来ました」
「もうお休みですからお静かに。鍵は開いています」
「ありがとうございます」
この病院では四階は沈黙患者の区域、母は東の角部屋にいる。
就職して以来、面会時間に来た事など数える程しかない。大抵仕事帰りに寝顔を見に訪れる程度。こうして仕事始めに来たのは初めてだ。と言っても普段と時間帯はそう変わらないのだが。
靴に当たるリノリウムの固い感触。姉に渡された手土産の林檎が鞄の中で放つ微かな芳香。
(三人で中庭を歩いたのは何時だった……アムリの作ったサンドイッチを病室で食べたのは)
政府で仕事を始めてすぐ、三年以上前だ。散歩は就職活動の合間だった気がする。動かない母の車椅子を姉と交互に押した記憶がある。
(起きている母とゆっくり家族団欒したいのだが……当分私もアムリも休めないな)
“蒼の星”、コンシュ家の調査さえ滞り無く終われば有休を取るつもりだった。もう一年以上母は我が家に帰っていない。正気の時分は家にいるだけで幸せそうだったと言うのに。
通称人魚連続失踪事件。“第七”が関わっていたかもしれない案件は、物的証拠が無いことから集団失踪と断定された。だが不自然な点が多過ぎる。無差別に街の人間が襲われ、富豪一族は残らず行方不明。推理小説のような解決は無く、簡素な報告書のみで調査は打ち切られた。
(ただ、少なくとも奴は何か知っているはずだ)
エルシェンカ聖王代理。調査終了の通達には奴のサインがあった。しかし、問い詰めた所で一介の政府員如きに喋りはしないだろう。奴の側に沈黙に値するだけの理由が、良きにつけ悪しきにつけあるのだ。
(一人で独自調査するにしても、今は無理だ)
現在進行形の事件が待っている。それも文字通り街を引っ繰り返す大事件が。
病室のスライド式ドアが三分の一程開いたままになっている。母は自力で動く意思を持っていない。見回りの看護婦が閉め忘れたのか?
「母さん。まだ起きて――っ!?」
四十代半ば。精神の崩壊した彼女は上半身を起こし、自分より大きな何かを両腕で抱き締めていた。
「かあ……」私は思わず飛び退いた。
成人男性の半ミイラ化死体、掘り返したばかりのように黒く土に塗れている。虚ろなはずの眼窩にはほの赤い光が宿っていた。
「母さん、まさか……それは、父さんなのか?」
問いながら冷静に状況を把握しようとした。四日前からの事件と酷似している。
死体が家の前を歩いているんです。
通報を受けた警察官は当然酔っ払いの戯言だと判断。『寝言は寝てから言え馬鹿野郎!!』電話を叩き切り、十秒後には再び同僚とのモノポリーに熱中していた。
三分後、彼は運良く盤上の遺産を手にし、直後署に入ってきた『モノ』を運悪く最初に見て失禁、気絶する。かつての上司、但し一ヶ月前強盗犯と銃撃戦の末殉職した、因みに彼のモノポリーの師匠、が制服を着て出勤してきたのだ。
署は一瞬にして混乱を極めた。数人が半狂乱で発砲するも彼の捜査の邪魔にはならず、却って後始末を大変にするだけだった。何せ相手は土葬一ヶ月の死体だ、ただ元自分のデスクに移動されるだけで腐汁と蛆が滴る。
さらに食道癌で十日前に亡くなった食堂の従業員、近くに住んでいた警官マニア(死因、アルコール中毒。享年四八)も乱入。街の平和を守るはずの警察署は真っ先に地獄と化し、現在も使用不能が続いている。
それを皮切りに同時多発的に起きる死体徘徊。政府は即日臨時対策室を設け、現在まで夜通し対処に追われている。幸い、連中は朝日と共に活動を停止。昼間にマスクとビニール手袋を着けた政府員が総出動、死体を掻き集め魔術で焼却。現在灰はアルバスル墓地に臨時の倉庫を設置し二十四時間厳重体勢で保管されている。
「母さん、それを離せ!!」
死体は基本的に生前の行動を取るはずだが、既に二人の犠牲者が出た。売春婦と警官が全身を喰われて殺害。死体からは“死肉喰らい”が分泌する“腐毒”と呼ばれる特殊物質が検出された。犯人の死体は未だ確認されていない。もしそれが目の前のこいつなら――!!
その時、ベッドの向こう。窓の傍に人が忽然と現れた。
「……何?」
白い服、正確には白く薄い寝着を纏った男。真っ白な肌と対照的な黒髪は肩まであり、月光を浴びて艶やかに輝いている。
(どこかで会ったか……?)
精神病者特有の目をした男は母を、そして父の方へ顔を向けた。
「しにがみさん……」
吃驚してベッドの上を見た。彼女は私に気付いていない。
「きれいなしにがみさん……」
喋っている……父が死んで十年以上心を閉ざした母が、他人に言葉を発している。
語り掛けに男は何も言わない。ただ亡霊のように立っているだけだ。
(これは、そもそも『人』、なのか……?)
肌に血の気が全く無い。いや、根本的に。
(生きている『感じ』がしない)
「母さん、早くそいつを……!」
突然抱かれていた骸が動いた。それまで閉じていた拳を開き、尖った爪を老い始めた喉元へ――。
ブシュッ……。
シーツに血が飛散する。
「な、に……?」
男は庇った右腕をダラリ、と下げた。
ぁぁっぁっぁぁぁああああああああああああっっっっっ!!
腐った喉頭が怨嗟の叫びを上げる。赤い光が消失し、二度と動かなくなった。
「お前、何かしたのか?」
ぽたっ、ぽたっ……リノリウムに流れ落ちる赤。何故だろう。生命の証を見せられても生物の『感じ』は、変わらず無い。
「しにがみさん」父をシーツに放り出し、少女のような笑みを浮かべる母。その頬にも男の血が付いていた。「ころしちゃったの?」
「とにかく手当てを」
捕らえようと歩き出した次の瞬間、男は私のすぐ左に出現していた。
(何だと……)赤い瞳で一瞬にやり、と笑う。瞬きをした後、影も形も無くなった。まるで初めから誰もいなかったように。
「くそっ!どこだ!?」
病室を飛び出す。非常灯の下、廊下に人影は無い。
「そうだ、とにかく母さんを――!」
私は中へ引き返す。父の死体をシーツで包み、持ち運んだ時に中身が落ちないよう端をきつく縛った。土と草、男の流した血の臭い、死臭に焦げ臭さ、そして甘い林檎の匂いが酷く現実味を失って感じられる。
(離人感が出始めている。不味い……私までおかしくなってしまいそうだ)
この事件中、既に政府員数人が精神をやられ自宅療養を余儀なくされている。家族や同僚、友人の変わり果てた姿に恐慌をきたし、この病院にも連日患者が駆け込むと聞く。
「しにがみさん……おそとにいっちゃった……またころしにいっちゃったんだよ」母は何度もそう繰り返した。確かに、あれは死神だったのかもしれない。死んだ父を再び殺した。
ナースコールを押した後、電源を切ってあった携帯電話をポケットから出した。短縮ダイヤルで政府館の医務室にいるはずの姉に掛ける。頬の血をタオルで拭い取りながら呼び出し音を聞く。
『はぁい、シャーゼ?どうしたの?』寝惚けた声に急に日常が戻った。
「回収班を病院に回してくれ。母さんの病室に――」
地下水路を歩く一人の男。
「神は我等を祝福している」
口元を綻ばせて聖書の一節を謳う。一目で聖職者と分かる黒い礼服。頭の上に乗せている柔らかな帽子も真っ黒だ。
「神よ、決して我等を見捨ててくれるな」
やや長めの金髪が歩く度揺れる。
「光を与えられない我々は何れ滅びるでしょう」
行く手にある大きな扉を開く。
広間はがらんどうで本棚が数個あるだけだった。湿気は来ないのか黴は生えていない。但し、
「確かに、何かがあったのは間違いないようですね」
つん、と来るのは火薬だ。そして、それ以上に全身に感じるのは――。
「大量の血……それも複数の人間の」
神父は本棚を調べ始めた。書かれた言葉だけで常人が心臓を止めてしまいそうな本をバサバサ捲って目を通す。
「偽りの幸福……愚かしい者が考えそうな事だ」
にこやかに笑って縦に引き千切り、床に投げ捨てた。
「冒涜の徒は神の下、皆地獄に落ちる運命です」
残骸を靴で踏み潰す。
「あなた方はあの御方の心、慈悲を知らぬ」
グシャグシャグシャ―――!
「神は我々を救うのです。お前達など知った事か」恍惚としながら誰にともなく喋り続ける。
丁度本棚に納まった半分を紙屑と変えた時。残った本同士の隙間に封筒が挟まっているのに気付いた。
「これは……」
この街の写真店の名前が入った封筒を開ける。納められた一枚を見た瞬間、神父の顔に驚愕が表れ――ほうっ、と息を吐いた。
「我等が神よ、ようやく見つけました」
仕事が一段落した所で、書類を捲る手を止めた。
「ふぅ」
うーん、猫のように丸まった背中を思い切り伸ばす。肩に溜まっていた乳酸が流れていって楽になる。
僕専用の執務室。デスクの左右に書類の山、未決と既決が今丁度半分ずつ、処理済分はもうすぐ戻って来るラキスに持って行かせるつもりだ。左手にはすっかり冷めたブラックコーヒー、勿体無いので一息に飲む。苦い。
(今日は外でハンバーガーでも食べようかな。その前に一回家に帰って様子を見て来ないと)昨日は徹夜で政府館に詰めていて丸一日帰っていない。一応家政婦に点滴は任せてはいるが、もしかしたら意識が回復しているかもしれない。
(話せるようならまずは馬鹿兄を呼ばないとな。持病がぶり返してるって話だし……あー、つくづく押し付けた方が良かった気がするよ)
鬱気の入り込む隙も無くまめまめしく介抱する兄を想像して軽く吹く。
(やっぱり聖樹に相談して預けようかな。どうせ当分僕は世話できないし……と、入るのはともかく出すのは駄目だったなあそう言えば)
いざとなったら兄を召喚すればいいか。
「にしても遅い」
バタン。
「やれやれやっと来たな。たかが買い出しに何時間掛かってるんだい?」
ラキスは片眼鏡を掛け直し、首を横に振る。
「臨時休業の店の前で不審者扱い覚悟で大声出して、開けてもらってればむしろ短いぐらいだぞ?で、どこの板だ?」
「ここ」
数週間前から剥がれかけ、僅かな段差に躓いている内に周囲も浮き上がってしまった。
「ああ、これなら三十分もあれば修理できる」
「頼むよ。僕はちょっとランチに行ってくる。終わったら鍵掛けておいて」
「OK」買い物袋から木工用接着剤を取り出す。袋には他にも釘やテープなど、僕が頼んだあちこちを修理する道具が入っている。非常事態とは言え壊れた箇所を放っておく事はできない。
執務室のある三階から一階に降り、ロビーの壁に埋め込まれた専用の私書箱を開けた。
「……………っ!!!!」
ぬるりとした感触が指を包む。押し込められた物がこちらに溢れてきただけだ。手紙の束の上に、二十本ほどの薔薇の花束。黒の花言葉は………お迎え。
「こんな時に冗談じゃ……大概にしろよっ!!!」
握り締めた拳がブルブル震えている。抑えても捻じ伏せても――否定し難い感情が精神を侵食する――。
花束ごと屑籠に捨てようと引き摺り出して、メッセージカードが挟んであるのに気付いた。名刺大の白い紙に細い万年筆の字。紛れもないあいつの筆跡。
『エルシェンカへ』
その瞬間、胃の中に残っていたコーヒーを全て戻していた。
薄哂う屍どもが手足を捥いでクチャクチャと喰っている。肺腑は既に荒らされぽっかり空いていた。
首だけになった俺は、じっと灰色の空を見ていた。
奴等は何を求めて現世に留まっているのだろう。ただ喰って彷徨うだけの飽くなき苦行をマゾヒスト達は喜んで受けている。
誰だ?俺を持ち上げるのは。前髪を払うのは。
黒い眼と俺の眼が合った。
「行くか」
爺はいつも通り婆さんの所へ碁をしに出掛けたようだ。眠っていたので定かではないが、昼前までは帰って来ないだろう。一応出掛ける旨を書いたメモをテーブルに置く。
パスポートと財布をポケットに突っ込み、春物の茶色いジャケットを羽織った。下は空色のジーンズと薄桃色の開襟シャツ。
替えの服は――余計荷物になりそうだ。必要になった時に買えばいいか。
腰に剣を差し、玄関のドアを開けようとノブに手を掛けた。
ドンドンドン。
厄介な時に来客だ、珍しい。普段なら爺に押し付けられるが、今日はそうもいかない。物音が聞こえていただろうから居留守も無理。さっさと帰ってくれるか?
「―はい。どちら様?」
『もしもし?』
『――久しぶり。今何やってんだよ?』
盗聴器からの音声はまあまあクリアに聴こえる。この前より一段高性能な奴だ。
『暖かくなってきたので畑でもしようかと思ってまして』
『本気?冗談キツいぜ、“信仰者”殿』
『是非貴方の意見をお聞かせ頂きたいですね』
ちっとも本気ではない風に“信仰者”は笑った。
どうして。
行ってしまう。
永劫の暗闇の中、置いていかれないよう必死に走る。
亡霊達は振り向き、一様に哀れむ目つきをした。嫌悪の表情をして手で追い払う奴、怒鳴りつけて石を投げようと振り被る奴もいる。
俺も連れてってくれ!
最後尾の彼が小さく首を横に振った。
ギィィィィッッッッ………。
数十年振りに自分の部屋へと足を踏み入れた。
薄暗い中、持ってきたランプを点灯させる。煌々とした光が中を照らし出す。
「フン。意外と綺麗だな」
三十年も不在だった割に。弟が掃除していたのか?あの几帳面なら埃一つ残さずやっただろう。
「それともお前か?」服の下から引っ張り出した貝の首飾りに問う。返事は無い。
机の引き出しを開け、昔自分が書いた日記を取り出してパラパラ捲った。小脇に抱え、壁に掛かった自前の槍を外す。ブンッ!………いい感じだ、手入れは充分。「あぁ……」そうか。「やっぱりお前か」貝。返事は無い。
用は済んだ。玄関から最も遠い部屋を出て出口へ向かう。
ここの一族は数日前に蒸発したと言う噂だ―――疑問を差し挟む余地は無い。
住人亡き家を寂しく守る門まで戻る。階段の端に座った薄い寝巻き男が一人。忘れ物を取ってくるまで待っていろと俺が言ったからだ。綺麗な顔立ちだが病的に痩せていて中性的、性別は辛うじて分かる程度。
「行くぞ、迷子君」
そのまま歩き始める。彼は何の躊躇いも無く後に続いた。時々振り返って付いて来ているのを確認する。誘導は職業柄慣れている。
「――さ、とりあえずここにいろ」
海岸前の門、石灰岩でできた階段に腰を下ろさせる。通行人達が早くも奇異な目でこちらを見始めている。非番で制服を着ていないのが恨めしい。
(あいつめ。こんな時に限って何やってんだ?いつもは呼ばなくても樽の陰から登場するくせに)
腹違いの妹、マリアとは毎日ここで昼食の待ち合わせをしている。今日俺の仕事は休みだが、いつも通り外で食べようと朝の内に話した。
今は丁度宇宙船が来ない時間帯。同僚達は皆巡回に行って誰もいなかった。
『――不気味なぐらい年を取ってないなあ。お前、あれから三十年だぜ。俺なんか五十三になっちまったよ』
白髪だらけの頭を叩いて昔の同僚はヒヒヒ、と笑った。
『羨ましいんだぜこれでも。何があったかは知らねえし、そっちも言いたくねえだろうよ』
『ああ』
マリアの説明を聞いたが正直まだピンと来ない。とにかく、気がついたら三十年後の世界にいた。
『お前の顔覚えてる奴はまだいるだろうさ、老人連中とか。精々気ぃ付けな。“クロ”だって通報されたら政府の奴等に引っ張られるぞ?』
“クロ”とは第七種、不死族を表す隠語の一つ。
『お前の、いや。そこの屋敷の事件も“クロ”の仕業じゃねえかって噂立ってんだ。煙の無い所に火は立たないって言うだろ?』
『逆だ』こえーよ。
『何も知らねえのか?一応実家だろう?』
『ついこの間戻って来たばかりなんだ。新聞もテレビも見てねえし、寝耳に水だ』
義妹が話さない以上訊く権利は無い。
『話は変わるが、門番手伝ってくれねえ?』
元同年代の爺は鼻を啜る。
『孫同然の奴は辞めちまって……もう永久に来ねえ。新しく入った若え奴は足腰が弱くてよ、使いモンにならねえの。お前十時間でも二十時間でも突っ立ってられただろ?な、時給千でどうよ?』
『幾ら若くても流石に二十時間はない。二千だ』
『なっ!せめて千五百だろ?』
『食い扶持が増えた。駄目なら他の仕事に行く』
『――あ~、コレ?』
小指を上に向ける。
『妹だ』
『分かった分かった。二千二百出そう。経理には顔が利くからな』
不意に奴は俺の顔を覗き込む。笑い皺の目尻から透明な物が伝った。
『何でお前似てるんだよ……本当に良い子だったのに……何で、いなくなっちまったんだ!?』
(必要とされてたんだな)俺とは違って。
昔就いていた仕事だけあって、今の所スムーズに勤めている。後輩は多かれ少なかれ脛に傷を持っている連中らしく、歓迎会はその方面の話で盛り上がった。俺も喧嘩はよくした方だと言えば決闘だと店の外に連れ出され、数分後奴の首根っこを掴んで戻る羽目になった。
ただお開きになる直前、一人が言った台詞が未だ心に棘を挿す。
『あいつもいたら最高だったのに』
「あら、どうしたのシャーマンシー?」
花柄のワンピース、真珠のペンダントを着けた娘が後ろから現れた。また菓子を作っていたらしく、カスタードクリームの甘い匂いがした。
「マリア、こいつ知り合いか?俺の後をついてくるんだが」
「ええ。でもどうしたの?様子がおかしい」
男は虚ろな眼差しで妹を見ている。そしてふっ、と煙のように消えた。
「わっ!」「どこだ!?」
姿を探すが運悪く宇宙船来航。雑踏の中見つかるはずもない。
『それで本題は?』声を顰め『何時こっちに来る気だ?』
『その前に尋ねたい事が。“人魚連続失踪事件”に関連して』
『?あの事件か?ありゃ、人魚の呪いが原因だぜ。“腐水”についてなら俺の上司がキチンと後始末着けてくれたしさ』
沈黙。
『エルシェンカさんですか。前聖王天使ジプリールの養子、純血聖族の一人。現在は行方不明の前王に代わって執務を行う。彼女と違い種族差別撤廃派筆頭。種族の隔たりを物ともしない人柄は特別評価に値する。仕事人間だが一方魔術研究等にも余念が無い』
『お……おい』
『適材適所を見抜く目に大変優れており、人事面で失敗した履歴は皆無。潔い決断力と態度、高い実力を尊敬する部下は多い。趣味は読書。朝は七時起き、夜十一時就寝。尤も、月に数回は夜通し仕事しているようですが。あと、自宅と執務室には常時数十種類前後の珈琲豆が常備され、いつでもミルで挽いて飲む事ができる、と追加しておきましょう』
『いつからお前は探偵になったんだ?』
『調べましたから。必要と思われる事は可能な限り』
『必要?』
『秘密です』
ようやく“信仰者”は質問を開始するようだ。
『訊きたいのは一つだけです。ウィルベルク、とはどんな人物ですか?』
『は?』「何?」
僕にとっても意外だ。何故よりによって兄上の事を?
『純血聖族、エルシェンカの双子の兄、極度の人間嫌いで“碧の星”に樹の精と暮らしている。睡眠時間は平均十二時間、趣味は甘い物を食べること。先天的に人の未来の傷を視ることができ、それが引き籠り生活の原因であると考察できる。過去に人間から剣術を習った経験あり。身長百七十五、体重六十二キロ、靴のサイズは二十五センチ』
『それだけ知ってりゃ充分だ。って言うかストーカーかお前は』
『全然。だからあなたに訊いている』
――お兄ちゃん、すぐ来て!――
妹からの緊急要請を受け、俺は路地を走っていた。目指す孤児院まで後五百メートル。
(しかし何だろ?誰かの誕生日、じゃないな。食事会?)
孤児院に呼ばれるのは大抵土曜日の夜だ。今日は水曜、やはり合わない。
見慣れたボロっちいコンクリートの建物が見えた。建て付けの悪い扉は先週来た時と同じく開きっ放し。業者を呼ばないと直らないレベルだ。
「ただいまー!!」
挨拶と同時に中に入る。運悪く玄関口には一人の老婆が立っていた。孤児院のボス、下手に逆らって勝てる相手ではない。
「ああ。喧しいと思えばケルフかい」
「ババア。リーズは?」
「あの子なら自分の部屋だよ」
そう言うと、ババアは黙って脳天に拳を入れた。
「いてっ!!」
「ふん。今夜の夕飯はカレーだってリーズに言っといてくれ。あんたも食べたいなら適当に時間潰して待ってな」
ババアはそう言うと夕飯の献立メモを持って玄関を出て行く。
痛む頭を擦りつつ、妹の部屋に赴く。ドアをノック、「お兄ちゃん?」
「来たぞ、どうしたんだ急に呼んで」
「手が離せないの。勝手に入って」冷たい。
部屋に入るとフローラルの甘い香り。妹の傍に見慣れた姿を見つけた。
「どうしたんだよ……様子が変だ」
俺が入って来たのに誠はぼーっ、としたまま。彼の濡れた黒髪をバスタオルで拭いていた妹は「分からない」と言った。
「意識が物凄く希薄になってる。私達の事も分かってないのかも」
「でもここに来てるぞ」
「今は殆ど夢遊病状態。偶然知ってる氣に引き寄せられただけなんだと思う」
「んなの有り得るのか?」
「さあ……でも誠君にとって氣は視覚と同じぐらい重要な第六感でしょ?」
試しに耳元で「誠、今日の晩飯カレーだってよ」と言ってみる。反応は無い。
妹は汚れた寝巻きを赤い洗濯籠に入れた。院で個人に一つずつ与えられた物で白物は赤、色柄物は青だ。
「取り合えずお風呂に入れて服替えたの。黒ずんだ血が付いてたし。エルさんの携帯に電話したんだけど、忙しいのか繋がらなくて。で、お兄ちゃんを呼んだの」
「俺二番目!?」
「だって元々エルさんの家にいたんだよ。今頃きっと探してる」
義父の弟は自宅に預かり治療すると言っていた。色々手を回して捜索している可能性大だ。
「でも何でここに?寝間着姿ってことはパスポート持ってなかったんだろ?どうやって船に乗ったんだ?」
「分かんない。学校終わって、帰りに雑貨屋へ行ってマグカップを見ていたら、突然横にいたんだもん」
妹は不思議そうに、「足音とかしなくて全然気付かなかったの。幽霊みたいにフッ、と現れたのかな」と考察した。「足裏、歩いてきたにしては汚れてなかったし」
「こんなのがふらふらしてたら確実に即保護だろ」
誠は幼子のようにペタン、とフローリングに座って虚空を見ている。その瞼が不意に閉じた。
「わ……よっと」力の抜けた四肢は軽い。「お前より軽いかも」
「寝ちゃったみたいだね。クローゼットにタオルケットと毛布仕舞ってあったから取ってくる」
二分後、妹はそれらを手際よく敷いて誠を寝かせた。
「ぐっすりだな」
意識は無くても身体は疲れるのか、こっちまで眠くなるような安らいだ寝息を立てている。
「気持ち良さそう」
妹はマシュマロみたいな耳朶を触って「可愛いなぁ」と喜んだ。ついでにほっぺたを突く。ふにふに。
「そう言やさっき誠を風呂に入れたって」
「うん。服とか、脚も裸足で汚れてたし。何か問題あった?」
「え……いや、だってほら――誠は女の子みたいだけど、れっきとした男だぞ」
ぷっ!
「やだぁお兄ちゃんてば焼き餅妬いてるの!?誠君は特別だよ、と・く・べ・つ」ケラケラケラ。
「妬いてねえよ。相手が相手だし」
「まぁお兄ちゃんより誠君の方が百倍良い子だけどね」
「それは認めざるを得ないな」
ここまで世間擦れの無い人間も珍しい。どういう環境で育てばこうなるのやら。
妹が再び携帯を操って電話するものの、一分後蓋を閉じた。「携帯置いてどこか行ってるのかな?」
「着信があったら向こうから掛けてくるだろ」
「そうだね。うーん、メールアドレス知ってたら、ここにいる事だけでも伝えられるのになあ」
成程、俺も今度会った時に訊いとこう。
「そうだ誠君、ホットミルク好きだよね?牛乳買ってきて作ってあげようよ」
「あ、俺も買う物あるんだ。寝てるし、見てなくてもぱっと行ってぱっと帰ってくれば大丈夫だよな?」
「お兄ちゃん何買うの?」
「今日の晩飯の」
「カップ麺?」
「違うって!もっと健全な」
「コーラ?」
「……お前、そういう目で俺を見てたのか」
「それ以外で見られるの?」
妹の誤解は当分解けそうもない。
「料理の材料。冷蔵庫の中マジで何も無いんだ」
「お兄ちゃん自炊できたの!?」
「何年一人暮らししてると思ってるんだ!?」
兄妹仲良く連れ立って近所のスーパーマーケットへ行き、各々必要な物を買う。
「へー、サラダとスパゲッティナポリタンって所?」籠の中を覗き込んで妹が言う。
「まあな」
「たんぱく質も摂った方がいいよ。コーラはいらないの?」一番小さい瓶をこれ見よがしに振る。
「いいよ」
「本当に?」
瓶の中で泡がしゅわしゅわしている。うう、一気飲みしてえ……。
「ホントだ。早く戻るぞ、誠が待ってる」次は絶対買おう、と決心。「あとあんまり振るなよ。開けた奴が酷い目に遭うぞ」
「はーい」
妹は一リットルの牛乳と、ドライフルーツパックを俺の持つ籠に入れる。そのまま会計を済ませ孤児院へ。
「「ただいまー」」
部屋に戻ると誰もいなかった。布団に今さっきまでいたと思われる窪んだ人型が残っているだけだ。
「な……」
部屋には外から鍵を掛けていった。なのに、どっから出て行った?
「毛布がまだ温かい。あ、携帯が開いてる……」
通話状態のまま枕の上に落ちているのを妹が耳に当て、「もしもし」と言った。
『リーズ?誠はどうしたんだい?』
「わ、分かりません。帰ってきたらいなくて」
『そうか……どうやら放り出してまたどこか行ったらしいね』
「電話に出たんですか、誠君?」
『ああ。意識が一時的に戻ったようだ』
「何て言ってました?」
『「エル、私はどこにいるの?」とにかくその場を離れないよう言ったんだけど、無駄だったみたいだ』
突然見知らぬ部屋で寝ていればその疑問も尤もだ。やっぱりどちらかが残っていれば良かった。そうすれば少なくとも安心させられたのに。
『今度現れたら鎖でも何でも使って引き留めておいて』
薔薇を紙袋に何重にも包んでロビーのゴミ箱に捨て、食欲が完全に無くなってしまったのでそのまま執務室に戻ろうとしていた。さっき家政婦に電話したが、朝は昨日と変わらず眠ったままだったらしい。
(まだラキスが中で修理しているかな)僕が早く戻ってきたら吃驚するだろうな。
ふと、執務室手前の小部屋が目に留まった。
(しばらく入ってなかったな)いつの間にかノブを回していた。
十畳ほどのフローリング。その中央にこじんまりとピアノが一つだけ。窓を全開にして換気する。外から若葉の匂いが吹き込んできた。
蓋を開け、ドレミファソと弾いてみる。やはり素人が弾くと音が硬い。
(寂しいのかな……お前も)
寄贈されて一ヶ月、まだ一度も貸し出されていない。そうそう借りる人間もいないが、僕としては悲しかった。こんなに美しい音が出せてしまうから。
(彼女は……どうなったんだろう)
このピアノに座っていた女性を頭に思い描く。付随する情報が絡み合い、直感的に閃く。
(まさか)頭を振ってその悪い考えを祓い落す。(心配のし過ぎは僕の短所だ。大丈夫、案外のほほんとして生きてるさ)
そう、きっと……元気に別のピアノを弾いているさ……。
ドアの先にいた顔を見た瞬間、吃驚し過ぎて心臓が咽喉から出るかと思った。
「僕だ、兄上。“ヘイト・ライネス”という人物を知っているか?」
「開口一番それか。知らん」
また未来視か。しかしこいつは、重傷じゃないのか……?
「裏社会じゃ名の知れた偽造パスポート製作者。クライアントにも顔を滅多に見せなかったらしくてね、探すのに骨が折れそうだ」
「また犯罪者を捕まえるのか。精々頑張ってくれよ、俺は関係無い……」
偽造パスポート……あの兄弟が持っていたのもそうじゃなかったか?
「あんたに任せる気なんか爪の先ほども無い、安心しなよ」
「いや待てエル。そいつはその……不死からの依頼も受ける業者なのか?」
弟は意地悪気に笑い「どうだろう。まだ調べ始めたばかりで顧客情報は全然。どうかしたの?」
「どうかするだろ普通!そいつに会わせたら記憶が戻るかも」
「さっきは無関心だったくせに。まあいいや。本題はそこじゃない」
「じゃあ何しに家に来た?まだ朝だぞ」
「もう九時じゃないか。兄上の時間感覚に合わせて行動してられないよ」
くそっ。なら早く出掛けさせろ、と念を送る。どうせ行き先は一緒だが。
「見舞いと報告で来た。最近夢見が悪いそうじゃないか」
「ああ。誰かさんのお陰でろくに寝付けねえよ」
あんな事件に巻き込まれたせいでな、と心の中で付け加える。
「夢分析してあげようか?」
「……ああ、やってもらった方がいいかもな。予知夢っぽい感じだし」
「どうしたの兄上?凄く素直。なら早速思い出せる事から順に話してみて」
思い出しながら今朝見た夢を語り始める。昨日までの夢は分析するまでもなく意味する所が分かったので省略。
「どっかで見た事ある街にいた。広場の真ん中に四天使像の噴水があったな……とすると“黄の星”の首都シャバムか」
「誰かいたの?」
「ああ……死人が、な」
「何だ、兄上死んだんだ。おめでとう」
「喜ぶな、そして勝手に殺すな」
「で?」
いかにもつまらなそうに先を促す弟。そんなに俺にオタブツして欲しいのか、こいつは。
「死人達だけが街で生活していた。骸骨の連中がメシ食ったり、腐りかけの女どもが井戸端会議してたり。有り得ないだろ?」
「どうかな……」弟は意味深な相槌を打つ。
ふらふらと。
「街に入ってしばらくして……連中、ゾロゾロどこかへ行くんだよ。後を追ってみたら墓地だった。奥に小さな丘のある」
「アルバスル墓地?―――まあいい、それで?」
一体どこへ行こうと言うんだ。
「到着したらシャベルで穴掘りさ、自分の墓作り。そして仲間に上から土を被せてもらう」
天国がいい所とは限らないだろ。
「死者の復活と再永眠か……ふぅむ」
こっちへ帰らなきゃいけないんだよ。
「全員が埋まり終わった時、丘のさらに奥から……出たんだよ。血の目をした、腐り切って真っ黒の身体を引き摺った“化物”。そいつが埋葬済みの死人共を喰い散らかし始めた」
真っ白な延髄。
凶悪な牙。
「俺は当然逃げたさ。殺されたくなかったからな」
迸る赤。――タスケヲモトメル、目。