序章 ある部屋での会話
三脚カメラのレンズから顔を上げる。
「坊ちゃん。これは証明写真です、笑うのは我慢して下さい」
背景の白い布バック。前で椅子に座った主人はずっと口角を上げたままだ。いつまで経っても肝心の写真が撮れない。
「一体何がそんなに可笑しいのです?」
「いえ、ごめんなさい。あなたが楽しそうだから、つい嬉しくなってしまって……」
「私が、楽しそう?」
主人はふふっ、と口元に手を当てて笑った。
「いつも表情が出ない人だと思っていたので、珍しいなと」
あの娘も言っていた。「先生最近よく笑いますね。先生の笑顔を見ていると私、元気が出て来るんですよ」そう聞いて私は、酷く心にむず痒さを覚えたのだ。
「――外に、大事な人間ができました。坊ちゃんとは別の、家族になるかもしれない人です」
「あなたの幸せな顔を見ていれば、きっと優しい人なんでしょうね。おめでとうございます。二人に神様の御加護がありますように」
万感の祝福に咄嗟の一言が出なかった。「え、ええ。ありがとうございます坊ちゃん」深呼吸して動揺を抑えた。レンズを微調整し、ピントを確認する。
「彼女は外でピアノを弾いています。今度のコンクールに優勝すればプロになるでしょう」
「プロ?」
そうだ。主人に外の言葉は通じない。最後に面会してから長過ぎて丸きり忘れていた。
「外ではプロフェッショナルが仕事をするのです。私がこうして写真を撮るように、ピアニストは奏でる音色で人々を感動させる。彼女は坊ちゃんより巧いです」
「本当ですか?凄い!」
主人は両手を合わせて驚嘆した。
「外に行ったら聴きに行ってもいいですか?」
瞬間、初めて主人を彼女同様愛おしくなった。単なる肉体の反射でなく、精神の奥底から自然に湧き上がった物だ。
「――勿論。彼女もきっと喜ぶでしょう」