帰還
彼らは一週間の旅を続け、ようやく東方国境に到着した。東方国境には南北に長い長壁が築かれている。東の異民族の侵入を防ぐためだ。それだけでなく帝国内の罪人が国外に逃れることを防ぐ意味合いもある。通過するには市民権を持つ者が通行許可証を提示しなければならない。城壁は高く飛び越えることは不可能。であればグレゴリウスらの協力を得て検問を突破するしかない。
シェルイは包帯を巻いて右目を隠した。小さな子供たちは奴隷として運ぶことにした。検問はそれなりに厳しく、兵士たちは積み荷の確認を念入りに行った。
「うむ。怪しいものはないな。行って良し。神の祝福あれ」
兵士が通行許可証にサインを記入する。
「ありがとうございます。兵士様にも神の祝福がございますように」
グレゴリウスは頭を下げて荷馬車を進ませる。しかし彼らを呼び止める者がいた。兵士たちに比べて高級な鎧を身に纏っている。防御指揮官のマリウスだ。
「はい。何でございましょう」
「いやなに。大したことではない。今晩、帝都から貴族がここに視察が来るのだが…その貴族が幼子に発情する変態でな。寝所に呼ぶ奴隷を探しておったところだ。商人よ。その女子はいくらだ?」
マリウスはシェルイと共に脱出してきた十二歳の少女セルルを指した。瞬間、シェルイらの背筋が凍り付いた。
「言い値で買うしその貴族に口添えもしてやろう」
マリウスはセルルをじろじろと見つめた。セルルは怯えた顔をしている。シェルイらにしても彼女を引き渡すわけにはいかない。ハウスキーパーとしての奴隷ならまだしも性奴隷として引き渡すことなどできない。しかし全てを決定するのは行商の長グレゴリウスだった。
「あいやそれでございますがこの娘、前の主人に酷い扱いを受けておりましたようで…犬と交尾させられた際に変な病気を移されたようでございます。貴族様の閨に差し出せるような商品では…」
「構わぬ。その貴族が抱くわけではないからな。縛り上げ、拷問し、悲鳴を聞くのがお好きなようだ。病であろうと変わりはせん。それとも何か売れぬ理由でもあるのか?」
周囲の兵士たちの雰囲気が変わる。
グレゴリウスは仲間たちと顔を見合わせた。そして強引に馬車を走らせた。馬車は開かれた城門を走り抜け、国境を越えた。同時に兵士たちが追跡を開始した。数はざっと百はいる。まだ歩兵だけだがそのうち騎兵も出てくるだろう。軽装騎兵に追いかけられたら足の遅い馬車などすぐに追いつかれてしまう。
「グレゴリウスさん…!」
「一人たりとも! 置いていけない! 僕は全員をこの国から連れ出すと君に約束した。約束は死んでも果たす! 君もそうだろう!」
グレゴリウスは弓矢を手に取りながら叫んだ。
「僕らが時間を稼ぐ。だから君たちはそのうちに逃げてくれ」
「で、でも!」
城門から騎兵が飛び出してきた。騎兵の足は速く、あっという間に距離を詰められた。シェルイやティン、ディアナ、グレゴリウスらが矢を放って騎士を射抜く。だが帝国軍は数に物を言わせ迫ってくる。
「グレゴリウスの兄貴。これ以上は無理だ。そろそろやるしかねえ!」
随行員の一人が叫ぶ。グレゴリウスは頷いた。
「シェルイ、ティン、ディアナ。今から僕たちは奴らに斬り込んで時間を稼ぐ。だから君たちは止まることなく進め」
「で、でも…!」
グレゴリウスがシェルイの肩を掴む。
「前に話しただろう。僕らは優しい主人に救われて自由市民になったのだと。主人は言っていた。恩を返す必要はない。その代わり、誰かを救えと。だから僕たちは今から君たちを助ける。それだけだ。それだけだし僕たちにはそれ以外の理由はいらない」
シェルイは言葉を失った。グレゴリウスは笑って彼の胸を拳で叩く。他の男たちも笑っていた。
「お前が言ってた海ってやつ。俺も見たことねえけどよ。きっと良い景色だぜ。だから絶対海に辿り着いてくれよ」
「お前は強い。だから小さい奴らを最後まで守ってやれよ!」
「俺たちのこと忘れないでくれよ!」
グレゴリウスを先頭に男たちは反転して騎兵たちに突っ込んでいった。死を恐れず、雄叫びをあげて突撃する。
「グレゴリウスさん!」
「振り返るな! 振り返らず進め! どこまでも行け!」
シェルイは前を向いて馬を走らせた。ティンも大粒の涙を零しながら前だけを見ていた。何としても逃げ切らなくてはならない。帝国に背き、名誉も命も捨ててたった一週間前に出会った脱走奴隷を守ろうとした彼らを誰かが覚えていなくてはならない。帝国軍は彼らを反逆者として記録するだろう。だがシェルイらは彼らの名を、想いを語り継がねばならないのである。
帝国軍の追撃は一時的であったが停止した。騒ぎに乗じて他の奴隷たちが叛乱を起こしたためである。その隙にシェルイらは追手を振り切ることができた。彼らはムートゥージャ王国に入った。
「ここからどうする?」
ディアナがシェルイに問う。
「ここで兵士になって帝国と戦うつもりだった。でもこの国、思ったより強くない」
ウィアナと旅に出た時、都市を見て気付いたことだがこの国はあまり経済が発展していなかった。独自の神を信仰し、技術や社会の高度な発展は神の教えに反するとしてかなり原始的な生活をしている。帝国と戦えるだけの国力はない。帝国が南方の戦いを終わらせればすぐにこの国は征服されることだろう。そんな国に長居するメリットはどこにもない。だが宛てはある。
「この国の東。さらに東。ずっと東に行ったところに遊牧民の連合王国がある。その国の軍は強い。そこで戦って…出世して権力を握って帝国を倒す。それが俺の計画だ」
「ははは。いいなそれ。無茶苦茶だ。俺もついていくぜ」
ティンは胸を叩いた。
「確かに…どこに逃げてもいつかは帝国に支配される。だったら戦って止めなくちゃ…!」
ディアナも頷いた。
子供たちもシェルイについていくことを決め、彼らは遥か東方を目指した。ヘルは回復し、起き上がって武器を振るえるようになった。ヘルはシェルイに向かって地面に膝をついて頭を下げた。
「貴方たちの善意に生かされて、悪運強くこの世に留まり、歩いて行く意味を少しだけ見つけました。シェルイ様、我が君、この命が終わる時まで貴方にお仕えいたします。槍働きしかできぬ身でございますがどうかよしなに」
「え…」
シェルイは唸った。こんなことになるとは露ほども思っていなかったからだ。だがいらないと断れるほど彼の神経は太くなかった。
「あ、え、まあよろしく…」
ヘルはディアナたちの方を向いて頭を下げた。
「貴方たちにも感謝を。この恩は必ずお返しします」
その旅路は一か月に及んだ。毒のある茸を食べたシェルイとティンが死にかけるなどのトラブルはあったが何とか遊牧民の縄張り、シェルイが育った草原に到着した。
「…ようやく…帰ってきた…」
懐かしい草原、懐かしい風。懐かしい空。大切な人と生きた世界。大地は彼らを優しく迎え入れる。
「それで遊牧民に受け入れてもらえるかな…」
「うん。少しだけど交流はあったんだ。いきなり権力を握るのは無理でも住ませてもらうくらいはできるはずだ」
「場所はわかるのか? 遊牧民って広い草原を移動しながら生活してるんだろ?」
シェルイは頷いた。
「うん。遊牧民族の連合王国だからお互いの連絡は不可欠だ。わかりやすい目印がある場所にいるはずだ」
彼の言葉は正しかった。シェルイが探していた遊牧民族は大きな川のほとりにテントを張っていた。ジェメ族の旗が高く翻っている。その旗をシェルイは何度か見たことがある。彼は少し安堵した。




