雷雲
十四歳になる頃には文武に優れた騎兵となった。体は細身だが柔軟でしなやかな筋肉に覆われ、ありとあらゆる技術を手に入れた。特に馬術については並ぶ者はないという自負がある。ウィアナもシェルイを一人前の戦士と認めた。
「なあウィアナ。俺ももう十四になったし海行こうよ!」
彼は自分の武力や知恵に自信を持っていた。
「ええ、いいわよ。海に…行きましょう」
少しの間をおいて彼女は頷いた。
二人は旅の準備を整えて出発した。シェルイはまだ見ぬ世界に歓喜した。彼女と出会って九年間、ずっとこの日を待っていたのだ。数頭の馬を連れて西へ向かう。しかし魔物領に行くのは簡単ではない。西に向かうとまずは大陸中央諸国に行き着く。そこからまた西に向かうとヤルダバオート神聖帝国に入ることになる。その帝国はヤルダバオートという神を信仰しているが厄介なことにヤルダバオート教以外の宗教を認めず排除しようとしている。また政治的にも宗教色が強く、ヤルダバオート教国家以外の国家の根絶やしを国是としている。そのため帝国を通過する際はヤルダバオート教を信仰している振りをしなければならない。
「ヤルダバオートのお祈りの仕方は覚えてる?」
「覚えてるよ」
シェルイは懐から十字架を取り出して拝んでみせた。
「オーケー。それで大丈夫よ。くれぐれも向こうでは神様を茶化すようなことを言っては駄目よ。向こうの人たちは信仰に命懸けだから」
「アホくせ。こういうのは気楽にやっとくのが一番いいのに」
青年は十字架を見て笑う。
「人には人の大事なものがあるのよ。自分にとって大した価値があるものじゃなくても敬意を払いなさい」
「はいはい」
少年は馬の鞍の上で胡坐をかいた。器用で身軽な戦士だった。それから二人は海について語り合った。彼女は楽しそうな顔を浮かべて海にいる生き物や美しい光景について興奮気味に語る。輝くその笑顔がシェルイは何よりも好きだった。何がなんでも彼女に海を見せたいと思った。
「…どうしたの?」
ウィアナがシェルイの顔を覗き込んだ。
何もない、そう言おうとした言葉を飲み込む。言いたいことは何でも隠さず言うように育てられた。嘘も隠し事も覚えた年ごろであるが彼女には、彼女だけには嘘を吐きたくなかったし何も隠したくなかった。
「…なあウィアナ。俺、約束する。君に海を見せるよ。誰も見たことがない海を絶対に見せる。だから…海を見つけたら…そこに家を建てて一緒に暮らそう」
顔を真っ赤にして少年は言った。優しくて温かな彼女と一生を過ごしたかった。自由を手に入れて彼女と暮らす。それが彼の夢だった。どちらかが先に死んでしまうとしても夢を叶えた先で看取り看取られて別れられるのならきっと幸せなのだろう。
「…ええ。いいわ。一緒に暮らしましょう。貴方が一緒にいてくれるなら…きっと楽しい生活になるでしょうね」
ウィアナは笑った。彼女の頬も少しだけ赤かった。自分でも赤面しているのに気づいたのかすぐに顔を背けてしまった。
その時、前方から騎馬の一団が近づいてきた。人間だけでなく馬も鎧を装着している。集団のうちの一人が旗を掲げている。黒い十字。それはヤルダバオート教の神旗。教徒たちが信奉する神の聖なる紋章である。
「あれは?」
「…まずいわね。あれは神聖騎士団。多宗教を認めないヤルダバオート教の中でも過激派揃いの狂信者集団よ。刺激しないように今のうちに離れるわよ」
ウィアナの顔色が青くなる。シェルイは彼女のそのような焦った顔を初めて見た。大胆で不敵で笑顔に満ちていた彼女の額には汗が浮かんでいる。
「え、でも…」
「いいから! あいつらは情け容赦ない。神に仕えていることを笠に着て好き放題するの。同じヤルダバオート教徒でもお構いなしに殺す」
「そんな無法が許されるのかよ!」
二人は騎士たちを刺激しないよう、道を譲るようにして街道を逸れ、彼らから離れようとした。
「神が許すのよ。神の権威を利用して権力を振りかざす。一人一人の戦闘力も高い上に数も多いの。誰も止められない。捕まったら終わりよ」
二人は騎士たちが自分たちに目もくれずに通過することを祈った。しかしその祈りは儚く散った。騎士たちは武器を手に取り、二人に向かって走り出した。一本の矢がシェルイに向かって飛ぶ。二人は騎士たちに背を向けて逃げ出した。
騎士たちは二人を追いかけた。彼らは重装鎧を纏っているため、馬足は重い。ウィアナとシェルイは彼らとの距離を離していった。このまま走れば逃げ切れる。ウィアナは安堵した。二人は大きな森のすぐそばを走る。それが彼らの運の尽きだった。森の中から数十本の矢が飛び出して二人に降り注いだ。剣を抜いて防ぐが馬まで守ることはできず、二人は落馬した。シェルイは上手く受け身を取って立ち上がった。
「な、何が…」
森から現れたのは神聖騎士団の一派だった。彼らは決してシェルイらを待ち構えていたわけではない。森の中にある小さな村落を襲って男を殺し、女を犯して遊んでいたのだ。娯楽を終えて帰ろうとしていた矢先、通行人がいたので矢を射かけた。彼らにとってそれだけだった。
「ウィアナ!」
ウィアナの右の手首には一本の矢が突き刺さっていた。シェルイは彼女に駆け寄って矢を引き抜いた。傷は深い。腱を傷つけてしまっているようで上手く動かせない。
「…シェルイ、シェルイ、いい? 私を置いて逃げなさい」
「何言ってんだ。一緒に逃げるんだ!」
シェルイはウィアナを抱え起こそうとした。するとウィアナは悲鳴をあげた。彼女の左足は倒れた馬の死体に挟まれて動けなくなっていた。
「今すぐ助ける!」
「駄目よ。私の足は折れてしまっているわ。逃げられない」
「…俺があいつらから馬を奪ってくる!」
シェルイは剣を拾い、迫ってくる騎士たちを睨んだ。数は百を超える。全員を倒せるとは思っていない。一人だけ倒してウィアナを乗せて逃がす。それが最善の方法であると彼は信じた。
「駄目よ。戦っては駄目。私はここまで。シェルイ、逃げなさい!」
「嫌だ!」
少年の声は恐怖で震えていた。地響きを起こして迫りくる騎馬の群れ、そして大切な家族を失ってしまうかもしれない恐怖。剣を握る手が震える。
「お願い、逃げて。私は大丈夫だから。お願いよ」
懇願するようにウィアナは言った。
「嫌だ。置いていけない。ウィアナがここで死ぬなら俺もここで死ぬ」
騎士たちが肉薄する。地上から見た騎馬武者の群れは想像していたよりもずっと威圧感があった。騎士の一人が槍をシェルイに振り下ろす。シェルイは右に跳んでその一撃を避けると落ちていた矢を拾って騎士の脇に突き刺す。鮮血が吹き出し、騎士は悲鳴をあげて落馬していった。シェルイは馬の手綱を掴んで飛び乗ると槍を握って他の騎士たちに立ち向かった。
「シェルイ! 私の言うことを聞きなさい!」
「俺は! 海が見たい! ウィアナと一緒に見たいんだ。一人で見たって意味がない。ウィアナの夢を俺が叶える。俺はウィアナを海に連れて行く!」
シェルイの槍が騎士たちを馬上から突き落とす。彼の主な武器は剣であったが槍も人並み以上に使うことができた。しかし騎士たちは囲んでシェルイを襲った。シェルイはすぐに落馬し、背中を刺された。
「シェルイ!」
騎士はシェルイを押さえつけ、剣を首に突きつけた。
その騎士の首が宙を舞った。そこに立っていたのはウィアナだった。使えなくなった右手の代わりに左手で剣を握っている。彼女は左足を引きずりながらも戦った。片手と片足で雲霞の如く押し寄せる騎士たちと渡り合った。馬上の騎士を斬り伏せ、獅子奮迅の戦いを見せる。
騎士たちは次々と倒れ行く仲間たちを見て怯んだ。彼らは一万の敵軍にも恐れずに突撃する。誉れがあるからだ。勝てば英雄。死んでも神の国へ旅立った騎士として称えられる。しかし腕が立つとはいえ旅人を殺したとて武勲にならない。命を捨てて突撃する気にはなれなかった。
ウィアナは剣を下ろした。勝ち目はない。自分一人が生き残るだけならともかく、怪我をした少年を連れて行くことはできない。彼女は交渉してシェルイを助けることにした。分の悪い賭けであるが信じるほかなかった。
「交渉よ。この少年を見逃しなさい。そうしたら無抵抗で殺されてあげる」
「はあ⁉ 何言ってんだよウィアナ!」
シェルイは起き上がろうとするが傷のせいで体は上手く動けない。
「お願いだ。逃げてくれ。俺はいいから。夢を叶えてくれ。海を…」
シェルイは涙を流して叫んだ。やがて騎士たちはウィアナの提案を飲んだ。全員で囲めば彼女を殺すことはできる。だが被害が出る。しかし自分がその犠牲になるつもりがある者はいなかった。栄光と褒賞が与えられる戦争でならともかく、ただの娯楽で殺されてはたまらない。
「わかった。剣を捨てろ」
騎士たちは剣を鞘に納め、後ろに放り投げた。それを見たウィアナも剣を捨てた。騎士たちは彼女を押さえつけ、拘束した。
「ウィアナ! お前ら、ウィアナを離せ! 殺すなら俺を殺せ!」
騎士の一人が剣を拾ってウィアナの左手を斬り落とした。彼女の手は鮮血を撒き散らしながら地面に転がった。ウィアナは悲鳴を上げた。彼らは目を覆いたくなるような拷問をウィアナに加えた。騎士の一人がシェルイの顔を掴み、惨劇を見せつけた。
「お願いだ。ウィアナが死んじまう…。俺はどうなってもいいから…ウィアナを助けてくれ…」
魔術で熱した剣を彼女の背中に突き立てる。足の爪を一本ずつ剥がす。耳を切断する。ウィアナは必死に声を抑えていたが涙は零れ、失禁していた。
「ウィアナ…!」
シェルイは泣きながら彼女の名を呼んだ。無力な自分が恨めしかった。
ウィアナがシェルイの方を見た。
「シェルイ…生きなさい。生きて…いつか…海に…」
「おいおい、何を言ってる? このガキにそんな未来はねえぜ? こいつは奴隷商に売り飛ばすんだからよ」
騎士たちはウィアナに嘲笑を浴びせ、シェルイを拘束する。
「う、嘘つき! この子だけは助けてくれるって約束したのに!」
ウィアナは叫ぶ。
「異教徒との約束を守る必要があるか? ここで殺さないだけ寛大だと思えよ」
「許さない! 許さない!」
ウィアナとシェルイはヴェーレトという大規模な街まで連れて行かれた。ウィアナは地下室で拷問を受け、シェルイは魔術による治療を受けた後、奴隷商に売られた。シェルイは手枷と足枷をはめられた。三日後、ウィアナは神に逆らう魔女として処刑されることになった。
街は雷雲が立ち込め、雨が降っている。それが魔女の死ぬ日であった。




