夢を持つ者
シェルイは笑った。彼の師に似た温かく優しい笑顔だった。
この一族での生活で族長の娘シャル、一族最強の戦士の娘のイディア、孤児のクトゥ、秀才のヴェレンなど後に同じ道を歩む者たちと知己を得た。
ウィアナは卓越した剣術をシェルイに教えた。シェルイは元々馬術や弓術に秀でていた。山に踏み込んできた人間が馬や弓を使うのを見てそれを模倣したからだ。それなりにナイフも使えたが、奇襲して敵を一撃で葬ることに特化している。また、勉学にも彼は興味を示した。ウィアナが買ってきた本を読み、たくさんの知識を手に入れた。特に彼は海に惹かれた。どこまでも続く広い広い塩の水。色々な生物が暮らす命の水溜まり。彼はひたすらそれに惹かれた。
「ねえウィアナ。俺、海に行ってみたい!」
目を輝かせながら少年は言った。
「貴方も海が気になるのね。私も好きよ、海。行ったことはないけれど…。きっと美しいでしょうね」
「一緒に行こうよ。海!」
まだ見ぬ海に思いを馳せながら少年は叫ぶ。森にいた頃にはこんな世界が広がっているなど想像すらしなかった。
「でも無理よ。海はずっと遠く、大陸の西。北と南と東は黒い壁に覆われていて海には辿り着けない」
「じゃあ西に行けばいいじゃん」
彼女は首を振ったり
「大陸の西にはたくさんの魔物がいるから。魔物は人を襲い、喰らい殺す生物。それにそこに行くにも危険な国を通過しないといけないの。海に辿り着くなんて夢のまた夢」
「なら俺、もっと強くなって魔物ってやつを全部ぶっ飛ばしてウィアナを海に連れて行くよ!」
少年は誓った。自分に世界を教えてくれた彼女を絶対に海を見せに行くと。一緒に無限に広がる青い塩の湖を見に行きたい。それが彼の目標であり生きる理由だった。そのためなら厳しい訓練も耐えられた。ウィアナが課す訓練は厳しかったが確かに彼を強くした。
十二歳になったシェルイはある日の夜、ふと気になってウィアナに尋ねた。どうして自分を拾って育ててくれたのか。それは時折、彼を不安にさせる疑問だった。
「あれ? 前に話さなかったかしら。捻くれ者だからみんなが見向きもしないようなものを集める癖があるのよ」
「それで納得させられると思ってる?」
小さい頃はそれで納得していたが成長して多くのことを学び、自分が本当の親に捨てられた理由をある程度察して再び不安になったのだ。
ウィアナは溜め息を吐いた。かつて彼に語ったことは嘘ではない。しかし全てでもなかった。他にも理由はある。あまり知られたくない話であるからだ。二人は天幕の中で炉を囲んでいる。煙が高く立ち上り、天幕の天井に開けられた通気口から出て行く。
「どうしてそんなことが気になったの?」
「…怖いんだ」
「怖い?」
ウィアナが小さく首を傾げる。
「俺、今の生活が好きだ。ウィアナと一緒にいられて幸せだよ。だから怖い。どうして築かれたかわからない生活だからいつか終わるんじゃないかって不安なんだ」
彼の目はウィアナを見ていなかった。夜の天幕を照らす火をじっと見つめていた。左右で色が違うその目には確かに不安で揺れている。彼なりに考えてみた。しかし答えは出なかった。思いたくなかったが自分はまだウィアナについて多くのことを知らないと自覚せざるを得なかった。それでも彼女の気まぐれな性格については理解しているつもりだったからいつの日か捨てられてしまうのではないかと危惧していた。
空に目を遣れば美しい満月を見ることができた。しかし今の二人はそれを必要としていなかった。少年は不安から下を向き、女は少年の顔を見ていた。二人とも美しい月を楽しむ気分ではなかった。互いに気心の知れた仲であり、言いたいことを遠慮なく口にできる間柄であったがこの時ばかりは言葉を選ぶ必要を双方が感じていた。
女はしばらくの間、考えこんだ。話したくはない言葉だったが焚火が照らし出す思い悩んだ少年の表情を見て話すことを決めた。
「私、一人だったの。孤独だった。昔はそれでよかったんだけど歳をとってからは寂しくなってきたの」
語り出した彼女の言葉にいつもの快活さはなかった。揺れて消える炉の煙のように細く弱弱しかった。
「だから一緒にいてくれる人がほしかった。私が死んだ時、悲しんで泣いてくれる人がほしかった」
「でもそれなら俺じゃなくてもよくない?」
彼の言葉もまた小さかった。
「この一族にはたくさんの人がいるよ。一緒にいてくれる人くらい…」
「…違うの。私だけを見ていてほしい。どんな関係性でもいい。誰かの特別な存在になりたかった。私が死んだ後も一生覚えていてほしい。これまで出会ってきた人たちの中の一人で終わりたくない。だから貴方の特別になりたかった」
吐き出すように彼女は初めて他人に自分の心の奥底に渦巻く想いを語った。今度は女が俯き、少年が女の顔を見つめる番だった。
「私は人の親になれない。ごめんなさいね。こんな自分勝手な人間で」
嫌われたくない。しかし嫌われたくないと思えるほど大事な相手に対して嘘を吐くことはできない不器用な存在がウィアナという女であった。彼女は幻滅されるのを覚悟の上で自分勝手な内心を吐露した。
「ウィアナ、話してくれてありがとう。悩んで損した」
少年は笑った。
「ウィアナは俺の特別な人だ。この先何があってもこれだけは変わらない」
気恥しさを誤魔化すためにシェルイは目を逸らして追加の薪を火に投じた。
「その…なんていうかさ、ウィアナさえよければずっと一緒にいたい」
「こんな私でいいの?」
少年は頷く。
ウィアナはシェルイを抱き寄せた。お互いの熱が相手の心と体を温める。シェルイも彼女の背中に手をまわした。
「シェルイ、私はきっと貴方を残して先に死んでしまうけれど…貴方はもう一人じゃない。貴方が傷つけば心配して、貴方が死ねば泣いてくれる人たちがいる。そんな人たちとこれから出会うでしょう」
優しく、しかし確かに彼女はシェルイに語りかける。温かさに目を閉じようとしたシェルイは不吉なものを感じて彼女の顔を見る。その目には先ほどとは異なる種類の不安が宿っている。
「貴方の死を悲しんでくれる人のために生きなさい。その人のために戦って死になさい。それまでの人生がどうであっても…最後に大事な人のために死ねたのならきっとその人生は幸福なものだと思うから」
その言葉はシェルイの胸の奥深くに刻まれた。ウィアナはシェルイに多くのことを教えた。だがこの言葉ほど切実な教えは他になかった。
「…わかった」
少年は得体の知れない不安を感じながらもその正体について深く考えることはせず、この日々が永遠に続くものと思っていた。




