婚姻
シャルを乗せた馬と護衛、無数の家畜の群れがジェメ族の本拠地バウルを出立した。その行列は人間だけで三百名を超す。家畜の数は千頭にも上る。草原の民の有力部族の長の娘が嫁ぐとなればそれほどの人間と家畜が移動する。
「どうだシャル。嫁ぐ気分は」
メージェベスはシャルに尋ねた。彼女は緊張しているようで表情は硬かった。
「儂を褒めても良いのだぞ。お前、あの男を好いておったろう」
「な、なぜそれを…」
シャルは動揺して落馬しそうになった。しかしそこはさすがの遊牧民であった。着慣れない服装であっても馬上で巧みにバランスを取り、姿勢を安定させた。
「皆が知っておるぞ。顔に出ておる。まああれほどの大丈夫はそうはおるまい。顔もいい。武術に長け、気前も良く、人を思い遣る。危なっかしくて放っておけないところもあるがな」
「う…」
シャルは俯いた。
「どうした。浮かない顔をして。体調でも悪いのか?」
「いえ…違います。シェルイ様は私を受け入れてくださいますでしょうか。あの方の心の中にはもうこの世にいないある女性がいます。そこに私のいる場所はあるのでしょうか」
それを聞いてメージェベスは溜め息を吐いた。シャルは父のそのような態度を見て少し腹を立てた。
「確かにあの男の胸の裡の多くを占めるのはお前ではない女であろうな。だが奴の胸は他の男と比べ物にならぬほど広い。お前の居場所は十分にあるはずだ。そうでなければ娘をくれてやるものかよ」
シェルイが総督を務めるザーラが見えてきた。婚姻の儀礼はそこで行われる。新郎は返礼の品や出迎えの品を用意して新婦の到着を待つのだが、その品の数によって新郎の新婦に対する思いがわかる。少なく質が悪ければ新婦は軽んじられているということになり、恥をかくことになる。本来は花嫁が花婿の元に向かう前に贈答品の交換が行われるのだが、シェルイ側の準備が遅れたため、同時に行われることになった。
「どれどれ、あの若造はどう臨むつもりかな」
メージェベスは目を凝らした。
ザーラから百騎の騎兵が花嫁の列に近づいてきた。彼らはシャルらの前で下馬すると深々と礼をした。
「遠路はるばるよくぞお越しくださいました。シェルイ将軍麾下の一将イディアと申します。ここからは僭越ながら我々が護衛を務めさせていただきます」
イディアは部下に命じて一頭の馬を連れてこさせた。大柄で引き締まった体躯の良馬であった。堂々たるその佇まいは常日頃から馬を見慣れている草原の民も感嘆の声をあげるほどであった。豪奢な装飾が取り付けてある。
「姫様はどうぞこちらへ」
イディアは馬の手綱を握り、シャルが馬を乗り換えるのを手伝った。シェルイ麾下の武将で彼女が最も冠婚葬祭に精通している。だから彼女を送り出したのだ。
ザーラに到着すると花嫁と随行員たちは驚くことになった。待ち構えていたのは数百の家畜や馬であった。何より目を引くのは二十頭の赤い鬣の馬。しかも一見してわかるほどの優れた馬だった。赤い鬣の馬は縁起物とされ、婚姻の儀で重宝される。また、兵士たちが装飾品や調度品を運んできた。商人から取り寄せさせた東西南北の高価で貴重な品々が揃えられている。それはまるで一国の王族の宝物庫のようであった。
メージェベスは笑った。
「なるほどこれは一本取られたわ。常より倹約していると聞いたから心配したが出し惜しみはせぬ男か」
シェルイは大宴会の用意をして花嫁とその一行を待っていた。シャルはシェルイが住む天幕を訪れた。天幕の入り口の前では焚火が設置されている。花嫁が持ってくる悪運や邪気を払うためだ。天幕の中からディアナが出てきて乳の入った杯をシャルに渡す。シャルはそれを飲み干すと家の前に並んでいるシェルイの血の繋がらない奇妙な家族たち一人一人に頭を下げる。ディアナは彼女の手を引いて新しい天幕に案内する。普通の住居用天幕と比べて二回りほど大きいその天幕は結婚する者たちのためのもので内装も豪華に装飾されている。シェルイはその中で待っていた。普段とは異なる儀礼用の服。緊張した面持ちで新婦とその家族を待っている。両者は祖霊へ盃を献じる。新婦の祖は初代族長へブ、領土を拡大させた族長オヌキ、度重なる外敵の侵入を撥ね返した族長ジェベ。新郎の祖は新郎すら知らない。北の山に住む狼と、彼を育て上げた強き乙女へ捧ぐ。それから新郎と新婦は同じ杯で酒を飲み、誓約を結ぶ。そして家族同士が盃を酌み交わす。新郎の家族は新婦の家族に対し恐縮していた。それが終わると豪勢な料理が運ばれてきた。遊牧民らしく肉料理が中心である。それまで緊張していた新郎とその家族は運ばれてきた料理に手を伸ばして次々に口に放り込んだ。
「うん。美味い!」
調理を担当したのはザーラに留まることを選んだ難民たちだ。帝国の撤退によって草原全域が解放されたが戦火によって領地が焼かれたり、敗戦や略奪のため独立した部族としての活動ができなくなった者たちがザーラに残っている。シェルイは彼らの首長として統治することになっていた。
「シェルイよ。ここに来るまでザーラの民を少しだけ見てきたが戦後とは思えぬほど安定しておるではないか。お前にはそっちの才もあったのか」
「備蓄してた物資を放出して土地を分けただけですよ。家畜も人口で分配して…て感じで」
「己の財を分け与えたのか! なるほど。道理で貧しい暮らしをしているわけだ」
シェルイは将軍として広大な領地と家畜を所有している。また領内にある銀山からそれなりの収益を得ている。だがそういった財産を惜しみなく部下や民に分けてしまう。気前の良さと優しさから人望を得ているが彼自身はあまり裕福ではない。とはいえこれまでの彼は山で過ごしていた時代、ウィアナと放浪していた時代、奴隷だった時代しか知らないので彼にとって十分豊かだ。
「それにしてもよくあれほどの贈り物を集めたものだ。お前はこういった儀式に意味を見出さぬ類の人間だと思っておったからな。最低限を揃えて満足していると兄上と予想していたのでなー驚き通しよ」
クジェが言った。
「最低限で済まそうとしたらお二人、俺のこと殺すでしょ?」
「そうだな」
メージェベスとクジェは同時に頷く。冗談には見えない。本当に殺すつもりだったのだろう。
「花嫁を貰うわけですしケチりはしませんよ。できるだけの誠意で迎えさせてもらいました。それに花嫁の家族に恥をかかせるわけにはいきません。そのせいで結納が遅れました。すみません」
シェルイは頭を下げた。
戦後処理と防御線の構築、婚姻の準備を同時に進めていたのだ。それでも兵たちの協力があってどうにか式の体裁は整えられたし大量の婚資を集めることができた。
「気にするな。お前は他にもやるべきことがあったのだ。謝る必要はない」
「そこまで理解してくれるなら婚姻の日を遅らせて欲しかったです」
宴会は夜まで続いた。新郎新婦の家族は天幕から出て行き、新郎と新婦が残された。二人の間に微妙な沈黙が漂う。
「今日は来てくれてありがとう。それと…ごめん。この結婚は君の意思を無視したものだと思う。できるだけ君の生活に支障が出ないようにするから…」
シェルイはそう言ったがシャルの頬に涙が流れているのを見て言葉を失った。慌てていつも助言をくれるディアナに助けを求めようとするがこの場にいないことを思い出す。青年は頭を掻いた。
「ごめんなさい…。不安だったのです。シェルイ様に受け入れていただけるか…嫌がられたらどうしようかと。貴方がお嫌でなければ私を傍に置いてください」
緊張の糸が切れたのだろう。儀式の間、彼女はシェルイ以上に緊張し、硬直していた。色々と不安だったようだ。
「俺でよければ…よろしく」
それから三日間、シャルは慣習に従って天幕から出ずに過ごした。侍女たちが彼女の世話をした。それが過ぎるとザーラの皆で婚姻の成立を祝った。




