命の始まり
これは何も持たなかった少年が出会いと別れを繰り返して大人になる物語。残酷な世界に負けず、世界に変革をもたらす男の旅路である。
鬱蒼とした森の中で一人の赤ん坊が泣いていた。乳も与えられず、薄い布一枚にくるまれているだけである。季節は冬。雪が降り積もり、赤ん坊は凍えている。彼の瞳は左右で色が異なり、右目は金色、左目は銀色だった。それは呪いの目と呼ばれており、厄災をもたらすとして殺すことが定められている。彼が殺されずに雪山に放り捨てられたのは誰か心ある者に拾ってほしいというせめてもの優しさだったのか。それとも忌み子とはいえ我が子を殺める覚悟がなかった故の責任放棄だったのかそれを知る者は今後彼の人生に関わることはないだろう。
赤子の泣き声を聞きつけて数頭の狼がやってきた。狼は彼を囲むと舌で舐めた。それから雌狼は彼の傍に腰を下ろすと乳房を彼に近づけた。乳児は狼の乳首に吸い付き、乳を飲んだ。この恵みは気まぐれか母性によるものか。彼は栄養と寒さを凌ぐ毛皮を手に入れたのだった。そうして彼は最もか弱い乳児期間を生き延びることができたのである。物心ついた彼が最初に出会った人間は狩人だった。兎や鹿を狩りにきた狩人は少年の目を見ると怯えて矢を放ってきた。
「うわっ」
兄弟の狼が鹿の毛皮でできた彼の服を咥え、走る。矢は狩人が見えなくなるまで放たれた。それ以降、たくさんの人間が少年を殺すためにやってきた。群れの仲間たちは彼を守るために人間を襲い、それが厳しくなるとさらに森の奥に生活の地を移した。普段の狩りは少年も参加していた。山間地では徒歩で、平地では人間から奪った馬で仲間たちと共に狩りをした。これまた奪った弓矢や剣を用いた。たった六歳にして熊を仕留められるほどの野生児になっていた。
そんな彼に運命の日が訪れる。
彼は人の気配を感知し、襲撃すべく動き出した。獣道を走り、起伏に身を隠して包囲する。縄張りに侵入してきたのは白い髪の女だった。呑気に鼻歌を歌いながら馬の背に乗っている。武器は左に差している剣のみ。相手は油断している。楽な狩りだ。少年は短剣を振りかざして飛び掛かった。女の首めがけて思いきり振り下ろす。その時、銀色の光が走った。少年の体は地面に叩きつけられた。
「⁉」
咄嗟に体を起こす。女の手には剣が握られている。彼女は閉ざされた瞼でこちらを見下ろしている。
「あら。かわいい山賊さんがいたものね。貴方、言葉はわかる?」
「くいもの…くいもの…」
少年は呻くように言った。これまでの人間との接触で多少の言葉をつかえるようになっていたが単語を拙く話せるだけで文法といった概念を知らず、会話は不可能だった。少年は女を睨む。
「これは駄目ね」
女は革袋から林檎を取り出して少年に手渡した。少年は目を輝かせて林檎を頬張った。彼女はさらに干し肉を少年の仲間に分け与えた。
「貴方も大変そうね。私と一緒に来る?」
「?」
女は少年の頭を撫でた。少年はまだこの女を警戒していたがそれを拒むことなく受け入れた。少年は兄弟たちと一つ二つ唸り声をあげて会話をする。この人間は強くて倒すことはできないから手を出さないように、と伝えた。
「貴方、狼と話せるのね。羨ましいわ」
言葉は理解できないものの、この女は他の人間とは違うのだと本能的に悟った。女はまた少しの食料を残して帰っていった。しかし次の日もやってきた。彼女は食事を与えながら少年に言葉を教えた。彼は賢く、すぐに言葉を覚え、三か月で軽い日常会話ができるようになった。その頃には少年は彼女に懐いていた。
「私はウィアナ。貴方の名前は?」
「…ノロイノメって人間から呼ばれてた。これが名前?」
彼女は首を横に振る。
「それは名前じゃないわよ。そうね、私が名前を考えてあげる。シェルイ。春の風という意味よ」
「…シェルイ…」
少年は何度も繰り返した。
「ありがとう。名前。大事にする」
「ええ。大事にしなさい。それよりいつまで山にいるつもり? 森の外に興味はないの?」
「あるけど…みんな俺を殺そうとしてくる」
シェルイは俯いた。彼を殺しにきた人間は皆、彼を罵倒し、刃物を振り上げた。それが彼にとっての人間であった。だから山の外に広がる世界に興味を持ちつつもこの狭い世界で満足しようとしていた。
「貴方の目、左右で色が違うでしょ? 外の人はこの目を呪いの目って呼ぶのよ。この目を持ってる人間は災いをもたらすから殺さなくちゃならないの」
ウィアナはシェルイの頬を優しく撫でる。
「でも私、貴方の目、好きよ。皆が皆、貴方の敵じゃないのよ。この世界は広い。きっと出会えるはずよ。貴方が守りたいと思う誰かに」
「でもみんなに迷惑をかけるなら俺は…どこにいればいい? 外の人にも家族にも迷惑かけたくないよ」
少年は心優しい異種族の家族に囲まれてその優しさを受け継いでいた。自分の正体を知った今、自分の居場所はどこにもないように思えた。
彼女は微笑む。
「大丈夫よ。そんなの迷信。悪魔になるも英雄になるも全て貴方の心次第。行い次第。だからその心を忘れなければきっと大丈夫。貴方がよければだけど…一緒に世界を見に行かない?」
「でも俺は行けないよ。家族が…」
その時、狼たちがシェルイの頬を舐めた。どこにいようと見上げる空は同じ。だから離れていても空を見上げれば心は繋がる。どこにいたって自分たちは家族なのだと。シェルイは涙を流した。家族を一人ずつ抱きしめ、旅立ちを告げる。
「俺、行くよ。自分が何者なのか知りたいんだ」
少年は森を出た。森の中からいくつもの遠吠えが響いた。いつでも帰ってこいという彼らは旅立つ者を送り出す。
少年は彼女の家に連れられた。家といっても簡素な小屋だった。
「これが家ってやつ?」
「そうよ。立派でしょ」
彼女は誇らしげに笑う。
「…」
「ちょっとなんで黙るのよ」
壁や屋根はボロボロで今にも倒壊しそうだった。お世辞にも立派とは言えない。寝ている時に崩れたらひとたまりもない。
風が吹いて屋根の一部が剥がれ落ちた。
「いいのよ。私はどこかに定住するのは好きじゃないもの。馬に乗ってあちこちを旅するのよ」
「へー。楽しそう」
「楽しいわよ」
こうしてシェルイとウィアナの旅が始まった。ウィアナは遊牧民族の一つであるジェメ族と交流があるらしく、よく彼を連れて行った。そこでシェルイは数人の同年代の少年少女と出会った。
族長のメージェベスはシェルイを見た。
「確かに獣のような目をしておる。どうすれば俺を狩れるかでも考えているのだろうな」
メージェベスの一言でシェルイはびくりと肩を震わせた。シェルイはまだ人間に対して敵意のようなものを持っていなかった。万が一敵対した場合、殺せるように頭の中で自分と相手を殺し合わせているのだ。
「とんだ拾い物だ。ウィアナよ。どういう心変わりだ?」
「本当に心からの気まぐれです。けど責任は果たすつもりです。私に人の親が務まるとは思えませんが」
「ではたまにでよい。ここへ連れてくるといい」
シェルイは背後に視線を感じ、振り返った。天幕の入り口には一人の幼い童女が立っていてこちらを見ていた。彼女はシェルイが振り返るとすぐに隠れてしまった。
「あれは俺の娘だ。柔弱で困っておる。お前の逞しさを一割でも分けてやってほしいくらいだ」
メージェベスは少女を呼んだ。少女はおずおずとシェルイの前に姿を見せた。怯えているというほどではないが警戒されている。
「シャル、客人に挨拶をしなさい」
「は、はい。わ、私は…シャルといいます。よろしく…お願いします…」
「俺、シェルイ。よろしく」
シェルイは教わった通り挨拶した。これが後に彼の妻となる少女との出会いだった。しかしこの時の二人は互いに運命を感じはしなかった。




