第1話 花の丘の少女
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目を開けると、そこは一面の花畑だった。
白く小さな花が、どこまでも続いている。風が吹くたび、花びらがふわりと舞い上がり、空へと吸い込まれていく。陽の光を浴びた花びらは、小さなダイヤモンドのようにきらきらと輝き、光の中で瞬いていた。
胸を満たすのは、甘く優しい花の香り。風が運んでくる空気は、暖かく、湿り気を帯び、まるで僕の体の奥まで浸透していくようだ。耳には小鳥のさえずりと遠くの小川のせせらぎが聞こえる。現実でも夢でもない——確かにここに“在る”感覚だった。
ゆっくりと体を起こす。足元には柔らかい草が広がり、踏むたびにわずかに沈み、弾む。視界の奥、緩やかな丘の上に、一人の少女が座っているのが見えた。背中まで伸びた金色の髪が、陽の光を受けて淡く輝いている。
立ち上がり、声をかける。
「……あの、すみません」
少女はゆっくりとこちらを振り返った。年の頃は十五、六くらいだろうか。透き通るような青い瞳が、真っ直ぐ僕を見つめている。まるで魂を見透かされているような感覚がした。
「やっと来たんだね」
少女はふわりと笑う。その笑顔には、不思議な安らぎと、どこか寂しさも混ざっていた。
「えっと……ここはどこですか?」
「“向こう”と“次”のあいだ。名前はないけど、みんなは“中間世界”って呼んでる」
「中間世界……?」
意味がすぐには理解できない。だが、目の前に広がる景色の美しさと少女の柔らかな笑顔が、妙に納得させる。
その瞬間、脳裏にひとつの記憶が蘇った。
確か、僕は……死んだのだ。
終電間際、満員電車の中で過労と睡眠不足に疲れ果て、横断歩道を渡ろうとしたとき、耳をつんざくブレーキ音とともに身体を強く叩かれた衝撃。次に気が付いたとき、ここに立っていた。
思わず呟く。
「……俺、死んだんだ」
口から出たその言葉は、なぜか不自然さを感じなかった。むしろ、自分の体と心にしっくりくる感覚さえあった。
少女は穏やかに頷いた。
「うん。でも心配しないで。この場所は、次の世界へ行くための“待合室”みたいなものだから」
「……次の世界って、転生?」
「そう。生まれ変わる人もいるし、魂の形を変えて別の世界に行く人もいる」
少女は立ち上がり、花の間を歩き始める。歩くたびにワンピースが風に揺れ、花びらがそっと舞い上がる。僕は半ば戸惑いながら、後ろをついていった。
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花畑を抜けると、小さな湖が広がっていた。水面は鏡のように澄み渡り、白い花びらがぽつりぽつりと落ちては、静かに流れていく。湖のほとりには、老夫婦がベンチに腰掛けていた。二人は互いの手を握り合い、遠くの水面を見つめている。
「この二人は、もうすぐ“向こう”へ行くの」
リーゼは小声で囁く。
老夫婦はこちらに気づき、穏やかな笑顔で会釈をした。
「……幸せそうですね」
「うん。ここの人たちは、最後にはみんな、笑って行くんだよ」
僕は胸の奥がざわつくのを感じた。死んだばかりの自分には、まだ笑顔を作る余裕もない。でもあの二人の顔は、眩しく、温かく、心に深く刻まれる光景だった。
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湖を離れ、木々の間の小道を歩く。足元には野草や小さな花が生えていて、踏むたびに軽く揺れる。鳥のさえずり、遠くで跳ねる小川の音、草の匂い——全てが穏やかで、何もかもが優しかった。
やがて、小さな木造の家にたどり着いた。窓辺には色とりどりの花が飾られ、木の壁は柔らかい陽の光で温もりを帯びている。中に入ると、壁一面に写真が飾られていた。
「これ、全部ここを通った人たち?」
「うん。話をした人たちの写真。景色を覚えていられるように、少しだけ形に残すんだ」
リーゼは一枚の写真を指差した。それは先ほど湖畔で見た老夫婦の若い頃の姿だった。
「二人は、同じ日に亡くなって、同じ日にここに来たの。最後まで手を離さなかったんだよ」
その瞬間、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。死の向こう側に、こんな穏やかな時間があるなんて、想像もしなかった。
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静寂の中、ドアがそっと開いた。入ってきたのは、まだ幼い男の子だった。七歳ほどだろうか。彼は不安そうに周囲を見渡し、リーゼの方に近づき、か細い声で「ママ……?」と尋ねる。
リーゼはしゃがみこみ、優しく答える。
「もうすぐ来るよ。それまで、ここで待っていよう」
男の子は少し泣きそうな顔でうなずいた。
「この子は?」と僕が尋ねると、リーゼは小さく息をついた。
「戦争で家を失って、ひとりでここに来た子。向こうでは、きっとお母さんとまた会える」
少年は僕の方を見て、ぎこちなく笑った。僕は思わず「大丈夫だよ」と声をかける。たった一言でも、伝えられることがあるなら、と。
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夕暮れが近づき、空は淡い橙色に染まる。丘に戻ると、リーゼは花の中に腰を下ろし、僕も隣に座った。
「……リーゼは、どうして案内役をしてるんですか?」
少し迷って尋ねる。彼女は遠くを見つめ、小さく笑う。
「私もね、本当はもう“向こう”に行けるはずだったんだ。でも、まだ行けない理由があるの」
「理由……?」
「それは、君がいつか知るよ」
リーゼは指先で花びらを空に舞わせる。
その横顔は、どこか寂しげで、けれど嬉しそうにも見えた。
やがて、湖畔の方から小さな声が聞こえた。振り向くと、先ほどの少年が女性と抱き合っていた。女性は涙を流しながら名前を呼び、少年は胸に顔を埋めて泣いている。
二人は手を取り合い、湖の中央に立つ光の柱へ歩いていく。それは“向こう”への道だった。少年は最後に僕たちに手を振る。僕も思わず手を振り返す。胸が締めつけられるように熱くなる。別れなのに、なぜか嬉しい。
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夕日が沈み、丘は静寂に包まれた。
リーゼが僕を見て、静かに言った。
「いつか君も笑って“向こう”へ行けるように、私が手伝うから」
その言葉に、理由もなく涙がこぼれそうになる。
ただ頷くことしかできなかった。
——こうして、僕の中間世界での日々が始まった。
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