第五章「江戸の治安維持と寺子屋パニック」
雨が降っていた。とはいえ、江戸の雨はどこか気取っていて、傘の下に香りを運んでくる。焙じ茶と、濡れた畳と、少しだけ焦げた煎餅の匂い。
ここは神田明神の麓、寺子屋の並ぶ通り。狭い石畳の小路には、子どもたちの笑い声と、筆のカサカサという音が交錯していた。
「ちょっと、駿也! 雨の中、ずぶ濡れで現れたら完全に“妖怪”扱いされるからね!」
「いやでも、タイムスリップの着地が悪かったんだからしょうがないでしょ!? 俺だって選んで落ちたわけじゃ……うわ、滑る!」
「わっ、ちょ、駿也あんた人力車の下に頭突っ込んだよ今!?」
二人が雨の中でばしゃばしゃやっていると、ふと、傘の下からのぞき込むような少女の顔が現れた。
「お二人、もしや“時の旅人”でございましょうか?」
声の主は、紺の羽織をきちんと着こなした少女。大人びた目つきに似合わぬ年若さ。けれど、背筋はピンと伸びていて、ただの寺子屋娘にはとても見えない。
「え、何、また急に核心突いてきたぞ?」
「……ん、名乗ります。私、央奈と申します。この近くの“寺子屋・和魂堂”で、手習いと世話役をしております。あなた方には、“神器探索”の義務がおありで?」
「……うん。たぶん、そう」
駿也がそう答えると、央奈は小さく頷いた。
「では、どうか。うちの寺子屋を助けていただけませんか。今、“教育の歪み”が起こっています」
「歪みって、またそのパターンか……」
案内された寺子屋は、思いのほかモダンだった。竹で編んだ書見台、板張りの廊下の奥には、小さな囲炉裏、壁には整然と並ぶ書物と巻物。
だが――子どもたちの手元には、謎の物体が置かれていた。
「なにこれ? なんか……そろばんに似てるけど?」
「それ、“算木”です」
央奈は説明する。もともと中国から伝わったこの“算木”は、江戸時代の算術教室などで使われていた。だが、この町では最近、“算木遊び”がエスカレートしていた。
「子どもたちは皆、算木を使って“図形暗号”や“言葉並べ”に夢中で……町の役人から“教育崩壊”の烙印を押されかけているのです」
「ちょっと待って、それほぼIT教育じゃん!」
「現代でいうところの“プログラミング思考”だよねそれ……」
「“アルゴリズムかるた”とか、完全にそれでしょ」
しかも央奈は、それを応援している立場らしかった。彼女の言葉は迷いなく、しかし焦りも滲ませていた。
「このままでは、“うわさ好きの御家人たち”に押され、寺子屋が閉鎖されてしまいます。ですから……私たちは“公開競技”を開くことにしました」
「公開競技?」
「名付けて、“江戸寺子屋ハッカソン”。算木を使い、知恵と遊びと、未来を見せる競技です」
「おぉぉ……! 名前だけで面白い!」
「やろう、それ乗った!」
だが、開催には障害が山積みだった。近所の目、町の風紀、そして“御家人組合”という意味不明な団体からの圧力。
「最近の教育は“漢字を書くより漢字を回す”っていう子どもが出てきたそうで……」
「回すって何!?」
「算木で“ぐるぐる変換”してるのです」
駿也と美帆は、あまりの事態に呆れつつも――央奈のまっすぐな瞳に、いつしか巻き込まれていった。
「わかった。俺たち、“外部講師”って設定で参加するよ!」
「え、なに教えるの?」
「えーと……“商会式プロジェクト資料の書き方”とか……?」
「いやそれ、ぜったいウケないよ!」
かくして、“江戸のハッカソン”が始まる。
算木を並べて“家紋を生成”する子。図形から“物語”を導き出す子。数式を俳句に変換する猛者。さらには、「算木×落語」を披露しはじめた自由人まで現れた。
駿也と美帆は、それを見て震えた。
「これ、普通にレベル高くない……?」
「もうさ、江戸の子ども、天才しかいないのでは……?」
そんな中、中央の演台に登った央奈は、高らかに言った。
「この遊びは、“歪み”ではありません! 新たな“日本の知恵”です!」
そのとき、背後の襖がバンと開く。
入ってきたのは、“風紀御家人連盟”を名乗る厳つい男たち。額には“漢”の刺青、手には封印印籠、威圧感は満点。
「くだらん算木遊びなど、即刻中止だ。寺子屋の名を騙るな!」
「騙ってない!!」
美帆が即ツッコミを入れ、駿也は息を吸った。
「ここは、“算木プレゼン”で勝負だ!」
「勝負!?」
「うん、数字で世界を語れって言うなら、算木で語り返すんだ!」
一気に場は緊迫した空気に包まれた。勝負のテーマは「道徳と算術の両立」。内容は即興、勝敗は観衆の拍手。
駿也は額に汗を浮かべながら、壇上で算木を構えた。
「……まず、この算木は、“縦の義理”と“横の人情”を表します!」
「“たてよこ”で人間関係を語ったぁー!」
「しかも真ん中の“〇”は……茶菓子の皿です!!」
「強引!!」
だがその瞬間、場が“どっ”と湧いた。笑いと、どこか懐かしいような共感。
御家人たちは困惑しつつも、最後にはひとりがつぶやいた。
「……寺子屋って、こういうもんだったな」
そして。央奈が最後に掲げた“木札”の裏面には、“寺子屋規範十ヶ条”が記されていた。その一つに、
「知恵は、人を笑顔にするものであれ」
とあった。
それこそが、今回の神器。
「寺子屋の木札……これが、欠片……」
駿也はしみじみと手に取った。
「いやぁ……ITより、算木の方が……バグ少なそうだよな……」
「でもフリーズはするよ。“考えすぎて固まる”ってやつ」
「それ、人間あるあるじゃん!」
中央で手を合わせる央奈の笑顔は、清々しかった。
「この国の未来を信じます。知恵は、必ず人を救いますから」
神田明神の空が、ようやく晴れ始めていた。
そして二人は、再び“時の渦”へと吸い込まれていく。
次なる舞台は――姫路から長州、維新前夜。
そこには、歴史の乙女“千姫”と、維新志士見習い“益夫”が待っていた。
(第五章・終)