第一章「祠の雪解けと古墳の騎馬戦」
春分の夜、越後・蒲原の里山では、雪がようやく解けはじめていた。山肌にはところどころに白く残る雪が名残惜しげに張りついているが、ふもとの小川には春を告げるフキノトウが芽吹き、小鳥たちが忙しげに鳴いていた。
その小道の先、竹林を抜けた奥まった場所に、ぽつんと石造りの小さな祠がある。まるで時間から取り残されたような、苔むした佇まい。鳥居の下に立つふたりの現代人――スーツ姿の駿也と、ピンクのウインドブレーカーに身を包んだ美帆は、眉を寄せてその祠を見つめていた。
「……でさ、本当にここで合ってるの?」
「うん、たぶん」
「たぶんって何よ、GPSがバグってたらまた山ん中で遭難するよ?」
「大丈夫だって、口コミに“祠の奥で願いが叶った”って書いてあったし、春分の夜は“開く”って。」
「開くって何が!?」
「……たぶん、運命の扉?」
「軽いっ!」
美帆はツッコミながら、無造作に祠の戸を開けた。その瞬間、まるで冷たい風が吹き抜けたように空気が一変した。がらんと空洞の内部には、木彫りの馬の像がぽつんと置かれている。それ以外、なにもないはずだった。
――にもかかわらず。
「……あれ、誰かいる?」
「え?」
駿也の背中がざわりと粟立つ。目を凝らすと、木彫りの馬の奥に、ぼんやりと人影のようなものが――
「ようこそ、お越しくださいました」
声が、した。
しかも、腹に響くような、妙に響く通る声だった。
祠の中から現れたのは、和装の青年――いや、その姿はどう見ても現代の人間ではなかった。緋色の狩衣に、金糸の飾り。頭にかすかに光る冠。……そして、身体の輪郭が、どこか霞んでいる。
「お、お化け――!?」
美帆が飛びのくと同時に、駿也は一歩前に出た。なんでやねん、とは本人も思っていたが、なぜかこの状況に、懐かしさのようなものを感じたのだった。
「あなたは……どちら様ですか?」
「私は恒夫。この里山に仕えていた、かつての貴族の末席にございます。……いや、もはや霊のようなものですがね」
恒夫と名乗った男は、優雅に頭を下げた。驚くべきは、その丁寧な口調と、やたらと物腰の柔らかい態度だ。見た目こそ貴族のようだが、妙に腰が低い。
「本日はようこそ。我が里の“歪み”を正しに来られたのでしょう?」
「……え、えーと、僕たちは、ただの観光客で……?」
「いえいえ、間違いございません。この“時の境”に現れたということは、すでに貴殿らは“選ばれし現代人”――」
「やだこの人、ノリが古代ラノベっぽい!」
「美帆さん、黙って……一応聞こう……」
恒夫は咳払いを一つしてから、語り始めた。
「この地には古より、“騎馬の神”を祀る儀式がありました。しかし、ある時より、里の子らは馬を知らず、木綿の反物ばかりが交易され、文化の形がゆがみ始めたのです」
「……木綿?」
「はい。木綿の布は確かに便利ですが、それがまだ広まるには早すぎた。この地の里山文化は、馬と共にあったもの。にもかかわらず、“時の歪み”によって、農耕具や騎馬文化がごっそり抜け落ちてしまったのです」
駿也は美帆と目を見合わせた。木綿が早すぎた? いや、早くても別にいいじゃん、と思わなくもないが、どうやらそうもいかないらしい。
「それで、どうすれば?」
「神器の欠片を探すのです。“騎馬像の金具”。それが今、この時代から消え去り、“謀略ノ主”の手にあるのです」
「……え、それってRPGの導入?」
「つーか、謀略ノ主って誰よ!? ラスボス出すの早すぎ!」
「妖怪です。とても頭の回る、めんどくさいやつです」
恒夫のトーンは変わらない。とにかく、駿也と美帆はこの“歪み”を修正するため、神器を集め、時代を超えて旅をすることになる――らしい。
そして祠の奥が、突如として金色に輝いた。
「え、ちょ、なんか始まってない!?」
「この道の先が、あなたがたの“旅路”です。お気をつけて――」
その言葉を最後に、光がふたりを飲み込んだ。
気づくと、駿也と美帆は、雪の積もる小さな丘の上にいた。目の前には、前方後円墳が広がっている。あたりには柵も道もなく、ただ風と鳥の声、そして――
「おい! そこの怪しい服の者ども! 貴様ら、どこから湧いたッ!」
甲冑をまとった武人らしき男たちが、槍を構えて突進してきた。
「うわっ、マジで過去きちゃったじゃん!?」
「美帆さん、逃げて!! てか俺も逃げるけど!!」
こうして、現代から来たふたりと幽霊の貴族は、古墳時代末期の越後で、謎の神器を追いかけ、馬と妖怪と戦うドタバタの時代修正コメディへと巻き込まれていく――。
――
駿也が必死に走りながら、息を切らしつつ後ろを振り返ると、意外なことに美帆のほうが足が速かった。
「速すぎるだろ美帆さん!! 俺、運動不足なんだけど!!」
「いいから走れっての! あの鉄のヒトたち、明らかに殺る気だったよ!? 縄文時代とか弥生時代って、もっと平和じゃなかったの!? うそでしょ古墳てバトル時代だったの!?」
「知らんよ! 社会の教科書にこんなん載ってなかったし!」
彼らが駆け込んだのは、前方後円墳の脇にぽっかりと口を開けた横穴式石室。逃げ込んだその場所は、まるで冷蔵庫のようにひんやりとしていて、湿気を帯びた空気が肌を刺す。
「ふぅ……なんとか撒いたかな……」
「ちょっと待って、これ、ほんとに“あの世”じゃない? さっきの祠で死んでさ、気づかずに霊界さまよってる的な?」
「……あー、その線、あるかも」
「ちょっと納得すんな! もっと否定しろや!」
石室の奥からは、静かに水音が響いていた。よく見ると、床の一部が窪んでいて、小さな湧き水が湧いている。
そこに、ぽちゃん――と、何かが落ちた音がした。
「え、今の何?」
「……また妖怪とか出るパターンじゃないよな?」
不安を抱えながら覗き込んだその水面に、ぬるりと映ったのは――
「わわっ!?」
飛び上がる美帆。水面からにゅるっと現れたのは、青白い顔の妖怪だった。が、その妖怪は何とも情けない表情をしていた。
「はぁ……疲れた……どうせ僕なんて……誰にも“馬の気持ち”なんて伝わらないんだよ……」
「は?」
「え……馬の気持ちって……え、なに?」
妖怪はぬるりと石室から這い出ると、自分の頭に付けていた金の飾りを指差した。
「これ……僕の大事な大事な、“騎馬像の金具”だったのに……最近、木綿にばっかり注目がいってて……誰も馬に乗ってくれない……」
「いや知らんがな!」
「そうよ、今どき馬なんて乗らないって! バイクとか車の時代だし!」
「だからだよ!!」
妖怪が突然、激情のあまり鼻息を荒くした。全体がぬるっとしていたが、怒ると顔の輪郭が少しずつはっきりしてくる。
「僕だって……ちゃんと、馬の神様として、人間に尊重されてた時期があったのに! なのに今じゃ、“木綿の便利さ”に負けて……馬の存在感が……どんどん……」
彼は涙を流した――ように見えたが、たぶん湿気だった。
駿也は苦笑しつつも、ふとあることを思い出した。会社の会議で、あまり注目されなかった部門の人が「俺らだって大事なんだよ」って漏らしていた、あの光景と重なる。
「もしかして……君って、昔の交通手段の守護妖怪、みたいな存在?」
「そう。名を、バシャーン様と申す……」
「めっちゃ水音じゃん!!」
「移動速度が速いとき、馬が泥を蹴って水に飛び込んだ、“バシャーン”から来たの……!」
「あ、なんか納得した……いや納得したくないけど!」
その時、美帆が小声で囁いた。
「……駿也。あの金具、もしかして“神器の欠片”なんじゃない?」
「……たぶん、そう」
「取り返せる?」
「……どうかな。説得すれば」
「じゃあ、私やる」
「え、ほんとに?」
「いや、やるけど、あんたフォローしてよ!?」
とん、と前に出た美帆は、バシャーン様の前に座り込んだ。すでに自分のジャージは泥まみれ、靴も片方は浸水していた。
「ねえ、バシャーン様。今のまま、ここで泣いてても、誰も馬の良さには気づけないよ」
「……でも……」
「だったらさ! ここで、“馬のすごさ”見せつければいいじゃん! たとえば――古墳時代、最高の騎馬バトルを、ここで!」
「騎馬バトル……!?」
「うん、現代人が“馬”に目覚めるような、ものすごい迫力でやろうよ! そしたら絶対、木綿なんかより目立つし!」
「でも……騎馬戦の相手がいない……」
「いや、そこは――」
バサッ!
背後の茂みから、現れたのは、再び恒夫だった。騎馬姿、甲冑装着済み、やたらと軽やかな表情をしている。
「私が……参戦いたしましょう」
「来るの早っ!」
かくして、石室の前方後円墳を舞台に、恒夫vsバシャーン様の“騎馬バトル”が始まることになるのだった。騎馬に見立てた木馬、ロープを使った古代スリング、泥だらけの実況中継。そして、意味不明に飛んでくる木綿の反物たち。
この戦いが、後に“越後の滑り馬合戦”と呼ばれるようになるとは、当時の誰も知らなかった。
(第一章・終)